七章 男達と老犬の十月(3)~萬狩と愉快な…~
土産の菓子をいくつか見繕って購入し、再び飛行機に乗って沖縄に戻った萬狩を待っていたのは、尻尾を大きく振った老犬シェリーと、瞳を輝かせた仲西、それから申し訳なさそうに肩身を狭める古賀だった。
どうやら、古賀は仲西の暴走を止めようと頑張ったものの、結局は話を聞いてもらえなかったらしい。電話の件をひどく謝られて、萬狩は溜息交じりに「大丈夫だ」とつい彼を労った。
老人獣医は仕事で先に帰宅していたが、テーブルの上には『お疲れ様、お土産は私の分も残しておいて下さい』としっかり伝言が残されていた。その食い意地が元気の秘訣でもあるんだろうかと、萬狩は、マイペースな仲村渠を思い浮かべて顔を引き攣らせた。
萬狩は、土産を持たせて仲西と古賀を見送った後、場が落ち着いてようやく、次男にこちらの住所を教えたのは不味かっただろうか、と今更のように思い返した。
翔也は別れ際、「一応、母さんには言わないでおきますから」と萬狩を安心させるような事まで口にし、住所を教えて欲しいと頼んできた。年賀状ぐらい書きたいじゃないですか、と寂しそうに言われれば、父親として不甲斐なさを覚えている萬狩には、断れるはずもない。
とはいえ、家族が揃った最後の別れを思うと、萬狩としては悩まされてもいた。翔也はともかくとして、知られてしまった場合の元妻と長男の行動が、予想出来ないでいる。
「……まぁ電話を寄越さないぐらいだから、無視してくれるだろう」
たかが住所を教えただけで怒るような女でもない。元妻は、年々言葉数が減って口調もかなりきつくはなったが、今後一切連絡を取らないでちょうだい、とまでは非難していなかったように思う。だから、多分大丈夫だろう。
数時間ほどの留守だったが、シェリーは、しつこいぐらい萬狩の後をついてきた。風呂とトイレに入れば扉の前で律儀に待っており、キッチンに立つと身をすり寄せ、リビングに落ち着くと足元に座る。
普段通りの澄ました様子が取れないらしい老犬に、萬狩は、気付かない振りをしていつも通りを心がけた。仲西と古賀にたっぷりの愛情を与えられている、老いた優しげなシェリーの瞳を見つめ、クッキーを一枚手渡しで与えてやる。
それ以上の事を、彼はしなかった。ようやくシェリーが落ち着いてくれるまで、萬狩は、リビングのソファに腰掛けて、興味もないテレビ番組を眺めた。
※※※
十月も下旬に差し掛かると、太陽の出ていない時間は二十五度を切るようになった。月曜日の診察にやって来た仲村渠は、「夜が涼しいので、つい散歩してしまいます」と語った。
それを聞いた仲西が、すぐに「まだまだ暑いですよ」と反論する。
「だって、まだアイスクリームが手放せないですもんッ」
「お前、いつか糖尿病になるんじゃないか? 菓子だけかと思ったら、最近はここへ来るたびアイスも食ってるのは、さすがにどうかと思うぞ」
「萬狩さん。仲西君はね、会社の健康診断で、中性脂肪が増えていると言われたらしいですよ」
仲村渠が、面白がるようにそう言った。
過ごしやすい気温になってきたというのに、対するシェリーは、涼しくなった夜間に起床するようになっていた。萬狩が寝入っていると、深夜二時から三時の間にベッドに顔を出し「ふわ」と鳴いて彼を起こすのだ。
腹が減っているのかと思ってクッキーを差し出すが、食べない。トイレがいっぱいになっているのかと思ってチェックするが、特に問題はない。
ただ、彼女は起きた萬狩の向かう先々に、尻尾を揺らしながらついて来るだけだ。萬狩はそのたびに、老犬をじっと見降ろし、同じ言葉を掛けた。
「なんだ、寝むれないのか」
「ふわん」
その日の夜も、萬狩はシェリーを連れ立って、庭へと続くリビングの窓を開けてサンダルを履いた。静寂が満ちた夜空には、少しだけ欠けた大きな月が出ていて、青白い光が眩しく差していた。
萬狩は何をする訳でもなく、涼しい夜風を感じながら煙草を吸い、庭先で夜空の月を眺めて時間を潰した。シェリーは彼の足元に礼儀正しく座り、けれど、それ以上に何かをする事も、求める事もなく、萬狩と同じ方向へ顔を向けていた。
そんな日々が毎夜のように続き、見上げる月が、円形から半分の形にまで変化した頃、沖縄はしばらく不安定な天気が続いた。ようやく季節が変わるのか、一雨ごとに日中の気温も下がり始めた。
しばらく顔を見なかった古賀がやって来たのは、十一月に入った第一週目の月曜日だった。
仲西と仲村渠が、それぞれの仕事を終えた頃に訪問した古賀は「ご無沙汰してます」と、相変わらず声をこもらせてそう言った。
「実は、原稿の締め切りに追われていまして……」
「ほぉ、良かったじゃないか」
「前回のピアノの漫画が好評だったみたいで、続刊が決定したのです…………」
語る彼の口調は、内容に反して沈んでいった。萬狩が察したように「例のドウジンか」と尋ねると、彼は項垂れて「……その通りです」と消え入るような声で答えた。
心なしか、若干、古賀の身体の堆積が少なくなっているような気がした。恐らく、漫画家として本当に忙しくしていたのだろう。うっすらと残る目元の隈に気付き、仲村渠が同情の眼差しを寄越して「お疲れさまでした」と言葉を続けた。
「珈琲とお茶、どちらになさいますかな?」
「……できれば、甘い珈琲で」
古賀がはにかみ、そう答えた。
もはや萬狩は、「ここは俺が一人で住んでいる家のはずだが」という台詞も口にする気が起きなかった。額を手で押さえて「勝手にやってくれ」と苦々しく言い、慣れたようにキッチンに向かう仲村渠を見送った。
仲西青年は最近、必要以上にシェリーを甘やかす事が増えていた。彼女の歩く時間が減っている事は誰の目にも明らかで、けれど、それを口にする者はなかった。仲西も古賀もそれを表に出さないまま、横になったシェリーを「可愛いかわいい」とやり、彼女の好きなクッキーを与える。
最近になって、シェリーはまるで老人のように、ぼんやりと縁側を眺める様子を見せていた。そう言えば老犬だったなと、萬狩が遅れて思い出すほど、少し前が元気過ぎたのかもしれない。
「また花火パーティーしましょうよ、萬狩さん!」
「そんなパーティーを行った覚えはないが」
「次はバーベキューじゃなくて、鍋ですよ、鍋ッ。シェリーちゃんでも食べられる食事は、僕が用意しますね!」
「お前、俺の話を聞いちゃいねぇな。どうせ、それも既に決定事項なんだろう」
萬狩がそう言いながら顰め面を向けると、そろそろおいとましようと支度していたマイペースな仲村渠老人が、彼の視線に気付いて、壁に掛かっているカレンダーに指を向けた。
「ちゃんと予定表に書きこんでおきましたから、安心なさい」
「それは俺の家のカレンダーで、その気遣いには、ちっとも安心出来ないんだが」
「古賀君が、彼女に告白出来るかもしれない大事なパーチーなのですよ、萬狩さん」
仲村渠は、表情そのままに「パーチーです」ともう一度、可愛らしい言い方を意識してそう告げた。残念ながら、老人が悪戯心を宿した目でそう口にしても、ちっとも可愛らしくは感じない。
萬狩は、家主として俺の威厳は何もないな、と頭を抱えた。全く面識のない古賀の恋人とやらが『鍋パーティー』に参加するさまを想像して、額に手をあてて悩ましげに呟いた。
「……はぁ。恋人まで招待するつもりなのか」
「す、すすすすみません萬狩さんッ。仲西さんにアドバイスをもらいまして……」
だから、お前は相談する相手を間違っているんだ。
萬狩は、その思いを溜息に吐き出した。「すみませんでした」と涙目になる丸い小男を見ていると、相談された時の様子も蘇り「……一人増えても、二人増えても同じだ。気にするな」とぶっきらぼうに気遣った。
仲西によると、古賀の『彼女にプロポーズをしよう!』という決心が鈍らないよう、彼の恋人には、既に招待状も郵送しているらしい。
鍋パーティーの日取りは、一周間後に設定されていた。急過ぎる案件のようにも思えたが、誰もが同じ事を考えているのだと分かって、萬狩は反対しなかった。シェリーとは短い付き合いの古賀も、薄々何かを感じ取っているようで、出来るだけ顔を出せるよう時間を合わせて、老犬と触れ合う時間を増やしていた。
「それで、鍋のテーマは何なんだ?」
「肉ですよ萬狩さん!」
「私の漁師友達に頼んである美味しい魚介類も、贅沢に投入致します」
「あれ? ぼく、メールで『実家の名産鳥肉』を頼まれましたけど……」
「…………」
ああ、もう勝手にしてくれ。
つまり、ごちゃ混ぜの鍋なのだろう。萬狩が無言で天井を仰ぐと、足元にいた老犬シェリーが「ふわん」と楽しそうに鳴いた。