七章 男達と老犬の十月(2)~中年組と若者組~
萬狩は息子への質問も思い浮かばないまま、黙々と食事を進めていた。しばらく隣で沈黙を聞いていた谷川が、仕方がないなとばかりに、自然な切り出しで翔也へ仕事について話を振った。
すると翔也は、今の仕事は難しくもあるが楽しいと話した。そして、兄に黙って出てきた事が少し申し訳ないのだとも語った。
「兄さんも、時間があったなら良かったんですけど。最近もずっと忙しそうにしていたから、声を掛け辛くて」
「君のお兄さんは、お父さん似の仕事人間だからねぇ」
「谷川おじさんも、そうでしょう?」
「僕は楽しくやっているだけだよ。その点でいうと、翔也君と同じだね」
「そうなんですか? おばさんが、いつも食事に連れてってもらえてないって、母さんにそう愚痴っているのを聞きましたよ?」
「……参ったな。プライベートもないんだから」
笑顔を僅かに固まらせた谷川が、それらしい息をふっと吐いて、さりげなく視線をそらした。
萬狩の妻と谷川の妻は、出会った当初から意気投合した。二人の一軒家はそれぞれ近い距離にあり、息子達がまだ学生だった頃は、互いの家を出入りしていたほどだ。萬狩は忙しかったから、当時のそういった光景は目にした事がない。会社で定めていた時間に帰れたのも、数えられる程度だ。
萬狩が食事を終えた頃、翔也が「父さん」と呼んだ。
「沖縄は、どんな感じですか?」
「まぁ、のんびり出来る場所だな」
考えながら、萬狩はそう答えた。騒がしい数名の人間を除けば、今の生活はそれなりに療養には適した場所ではある。
父親として、息子との距離感を測りかねる萬狩の脇腹を、谷川がそれとなくつついた。話を続けろと言う事だろうと察して、萬狩は怪訝な表情を返した後、「そうだな」と言葉を探した。
「山の上にある一軒家で、土地がとにかく広い。歳を取った犬が一匹いて、時間があったから見よう見真似で花壇も作ったな」
「翔也君。君のお父さんはね、バーベキューなんかして充実した日々を送っているらしいんだよ。羨ましいよねぇ」
谷川が、腕時計で時刻をさりげなく確認しながら、そう言った。
途端に翔也が目を丸くして、信じられないとばかりに萬狩へ顔を向けた。
「えッ、父さんがバーベキュー? 誰か招待したんですか?」
「驚く事に、向こうで出会ったばかりの知人数人を招いたんだってさ。都合があったなら、僕も行きたかったよ」
「谷川、余計な事を言うな」
萬狩は、嗜めるように言った。しかし、谷川は肩を竦めつつも「歳が一回りも上下に違う人達と、楽しいバーベキューだったみたいだよ」と話を続けた。
「ほら、見てごらんよ、彼の肌艶といったら」
「おい谷川。男に対して肌艶ってのはどうなんだ、俺の見てくれは何も変わっちゃいないだろうが」
「お腹周りは若干スマートになったよ。日頃、広い庭の手入れをしているおかげかな」
「そうなのか?」
ズボンのサイズにも変化はないのだが、と萬狩は口の中で言いながらも、一度しっかり自分の腹部を確認した。やはりスマートになった印象はないと目視した後、改めて谷川を睨み返す。
にこにこと笑う親友の心情は、目で読み取る事が難しかった。息子の視線を感じてもいたので、萬狩は、谷川との押し問答を打ち切る事にした。ここに彼以外の人間がいると思うと、どうにも落ち着けない気もする。
「父さん、『俺』って言うんですね」
目を丸くしていた翔也が、今更のように口にして「知らなかったなぁ」と僅かに苦笑を浮かべた。
萬狩は咳払いを一つし、「いいか、翔也」と口調を父親らしく改めてからこう言った。
「別にあのマンションに未練は全くなかったから、『私』は沖縄に移住したんだ。いい機会だと思ったしな」
「お父さん、きっと良いように変わったんですね。なんか、こう、丸くなったのかな?」
「谷川がスマートと言った矢先に、なんでお前は『丸くなった』と言うんだ? ――おい谷川、どっちなんだ」
「え、そこで僕に振っちゃうの?」
「父さん、体系の方じゃないですよ」
翔也は呆れたように言ったが、ふと、数秒ほど考えるように視線をそらした。両手の指を少し遊ばせて「あの、時間があるのなら」と、そう切り出したところで、再び萬狩へ視線を向ける。
「沖縄の家の事、話してくれませんか? 犬を飼うだなんて、予想してもいませんでした」
「……飼うというか、なんだ。面倒を見てやっているんだ」
こいつがかなり年寄り犬でな、と萬狩は不器用ながらぽつりぽつりと語った。金銭面の事情を除いて少しだけ話し聞かせてやると、翔也が「妙な話もあるもんですねぇ」と目を見張ったので、なんとなく話を続けてしまった。
お調子者で菓子が大好物の青年がいて、ふてぶてしくもどこか頭の上がらない老人獣医がいる。漫画家の青年の小さな騒動に最近巻き込まれ、その一件で、その漫画家までバーベキューにも参加した。今では他のメンバーと同じように、漫画家まで家にやってくるのだ。
妙な奴らなんだ、と萬狩は普段谷川と話すような口調で、自身の言葉で息子に話した。とにかく静かで落ち着いた一人の時間は、週に半分しかないように思う。
あの犬は、ピアノが好きらしくてな。弾けないと言っているのに、しつこく構ってくるから、そのおかげで二ヶ月はピアノ教室に通う事になって、それで例の漫画家と出会ったんだ……
萬狩の話を一通り聞いていた翔也が、思い出したように古賀のペンネームを口の中で反芻し、ここで初めて萬狩の話を遮った。
「どこかで聞いたと思ったら。――父さん、僕、その作家さん知ってますよ」
「なに? ドウジンとかいうやつで、漫画だぞ?」
「あははは、やだなぁ父さん。僕も兄さんも、漫画ぐらい読みますよ。兄さんは診察待ちの間、置かれている少女マンガを読んでチェックしていますよ」
それを聞いた谷川が、口許に手をやって「え、あの子が無表情で少女漫画を読んでるところとか、想像するとちょっと怖い感じになるんだけど」とぼやいた。
萬狩も同じ感想を抱いた思ったが、すぐに「ちょっと待て」と、ひとまず自身の思考を落ち着けて翔也に尋ね返した。
「お前らが漫画を読んでいようが、気にする程度じゃない。そうじゃなくてだな、古賀本人が『少し恥ずかしいような漫画』と言っていたんだが……」
「そうですねぇ、多分、そうかもしれません」
翔也は少し考え、それを認めるように肯いた。
「主に女性に人気なんですよ。最近の母さんのマイブームでもあります」
「は、マイブーム……?」
「つまり『めちゃくちゃハマってる』ってやつですよ、父さん。通販だと時間がかかるし、自分で買いに行くのは恥ずかしいのか、母さんは、いつも僕に頼むんですよね」
すごくキレイなタッチの絵なんですよ、と翔也は思い出しながら言った。
「全体的にキラキラしている感じで、表紙がすぐ目にとまるんです。僕は同性間の恋愛については理解出来ないのですが、母さんから言わせれば、だからこその純愛だとか」
翔也の話を聞きながら、萬狩は、思わず自分の耳を叩いていた。隣で谷川が「大丈夫、僕も聞こえていたから」と、動揺して目を泳がせながらも、翔也からは見えない位置で「君が訊いて」と背を押してくる。
実に嫌な役目だと思いながら、萬狩は息子に尋ねた。
「『同性間の恋愛』ってのはなんだ、俺の聞き間違いか?」
「だから、そういう愛の形もあるというやつなんですよ、父さん。全部じゃありませんが、大抵そんな内容を扱っているレーベルなんです」
「『れーべる』?」
萬狩が口の中で反芻すると、谷川が腑に落ちたように「なるほど、そういう事か」と呟いた。萬狩が疑問の目を向けると、多分言っても分からないだろうから、と生温かい目で首を左右に振る仕草を返された。
古賀にペンネームを教えてもらっていたものの、萬狩は、実際にネットでの検索もかけていなければ、書店にも寄っていなかった。老犬シェリーの体力が、ガクンと落ち出しているのかもしれないという一件で、そんな余裕などなかったからだ。
「父さん、携帯の番号は変わっていないんですよね?」
「変わっていないが」
「じゃあ、住所を――」
翔也が身を乗り出すように言い掛けた時、萬狩の携帯電話が、けたたましく鳴り響いて存在を主張し始めた。
確認すると、そこには最近登録したばかりの『ナカンダカリ』の名が表示されていた。カタカナ表記での登録は仲村渠獣医が初めての事であり、覗きこんだ谷川が「おや、カタカナだ」と珍しさに気付いて首を傾げた。
まさか、シェリーの件で何事かあったのだろうか。
萬狩が眉根を寄せつつ手早く電話に出ると、そこから、途端にひょうきんな声で『萬狩さんですか?』と、突拍子もない楽しげな声が上がった。
『僕ですよ、仲西ですよ! あれ、もしかして聞こえてない?』
「聞こえているし、お前が誰かはすぐに分かった」
まずは、もしもし、が先だろうがと萬狩は苦々しく思った。
仲西青年の声がやけに大きく聞こえるのは、携帯電話の設定によるものなのか、彼の元々の声量のせいなのか分からなかった。スピーカーからこぼれる彼の声は、確実に個室席中に響いており、翔也と谷川も揃って聞き入っていた。
『今、お忙しいですか?』
「なんだ、一体どうした」
『実は、買って欲しいお土産なんですけど、お菓子系でお願います! 食べられないものは嫌です』
回答を聞いた瞬間、萬狩は強い眩暈を覚えて、思わず目頭を押さえていた。
時刻は、現在午後の一時過ぎだ。自宅を出発してから数時間しか経っていないのに、奴はそんな事が心配で、わざわざ老人獣医の携帯電話を拝借してまで連絡してきたのか?
「おい。いいか、俺は仕事の用事でこっちに来ているのであって――」
『ねぇ萬狩さん、『いいか』って口癖なんですか? 思い返せば、よく耳にするような気がしてきました!』
電話の向こうから、新しい事を発見したとばかりに、仲西青年の陽気な声が上がった。
「お前、俺の話を聞いているのか?」
『あ、お土産は饅頭系を希望していますッ。仲村渠さんはケーキ系がいいって言ってますけど、古賀さんの意見と足して二で割ったら、饅頭系で落ち着きました!』
おい、落ち着いたってなんだ。しかも、二で割ったら饅頭にいくものなのか?
受話器から漏れる仲西の声を聞いて、隣にいた谷川が「ぶはっ」と吐息をこぼし、パッと手で口を押さえた。萬狩は、視線を向けると同時に背を向けた親友の肩が、押し殺した笑いで震えている様子を睨みつけた。
くそッ、あとで覚えていろよ。
視線を戻した萬狩は、向かい側で目を見張る息子の視線を苦々しく受け止めた。なんてタイミングなんだと、天を仰ぎたくなる衝動に駆られる。
「急ぎじゃなければ、後でいいか。今は友人と、下の息子と一緒にいるんだが」
『難しい話をするという息子さんですか? 僕もお話したいです!』
「お前は、遠慮という言葉を知らんのか?」
『それで、どんなアニメが好きなんですか?』
「お前、俺の話を聞いていないだろ。そもそも、俺に質問しても意味がないと気付け」
すると、傍観していた翔也が腰を上げて「いいですよ、父さん。僕が替わります」と言った。
萬狩は数秒迷ったものの、仲西青年の相手をしたせいで強い疲労感も覚えていたので、「すまんが、任せた」と言って携帯電話を差し出した。翔也は、僅かに意外そうな表情を浮かべたものの、すぐに取り繕うように微笑んでそれを受け取った。
電話を代わって早々、翔也は「父がお世話になっています」「次男の翔也と言います」と挨拶から切り出した。
しかし、しばらくもしないうちに「アニメですか?」「お菓子は、うーん、あまり食べないですね」「さぁ、タームパイは食べた事がないですけど……」と、聞いていて気になる単語が出始めた。
翔也と仲西のやりとりには、不安しかない。そんな萬狩の肩を、すっかり傍観者になりきっていた谷川がつついて、こっそり耳打ちした。
「どれぐらい続くんだろうね?」
「俺が知るか」
「いやはや、すごく社交的な青年だねぇ。僕も、是非話してみたくなっちゃったよ」
「礼儀知らずなんだ。やめておけ、話すごとに頭が痛くなるからな」
萬狩が憮然と答えた時、翔也が携帯電話を耳から離し、こちらへ視線を向けて「父さん」と呼んだ。
なんだ、終わったのか。
そう萬狩が目で問うと、翔也は小さく肯いた。
「番号交換しておきましたので、一旦こちらの電話は、父さんに返します」
「早いな」
今時の若者は、みんなそうなのか?
萬狩は腑に落ちなかったが、素直に携帯電話を受け取った。受話器に耳をあてて「おい」と声を掛けてすぐ、仲西がこう言った。
『萬狩さん、お土産の一つにヒヨコ饅頭をお願いします!』
「お前、他に言う事はないのか?」
こいつの思考回路はどうなっているんだ、と呆気にとられる萬狩の隣で、途端に谷川が「こりゃいい!」まさに傑作だと言いながら声を上げて笑い始めた。萬狩は息子の視線を感じながら、憮然とした顔で通話ボタンを切った。