一章 老犬と始まった萬狩の新生活(2)~入居初日、老犬に会う~
入居初日、前の日には車と共に沖縄入りを果たしていた萬狩は、前日に郵送で届けられた鍵を持ち、そこに同封されていた地図を片手に、新しい自分の家へと向かった。
地図を見ながら、サトウキビ畑の広大な土地を真っ直ぐ抜け、ひび割れたアスファルトの細い坂道を上る。伸び放題になった雑草や、乱立して生い茂る木々が車道をより狭めていたが、この先は既に彼が購入した土地の私有地となっているため、対向からの車の心配はなかった。
高台にある開けた土地に差しかかると、路面はアスファルトから砂利に変わった。一軒家は山の上に建てられているので、広い敷地の周りを太く立派な木々が取り囲んでおり、その前門のように、風化してやや丸みを帯びた石垣の塀が見えた。
塀の中に入ってすぐの場所に、砂利が敷かれた駐車場が広がっていた。六台は停められそうなその場所に、萬狩は自分のセダンを停めた。
駐車場の続く先に、連なるようにして庭が開けているのが見えた。そこは学校のグラウンドほどの広さがあり、整えられた青々とした芝生が、五月の暑い日差しに照らし出されて目に眩しかった。
原っぱと化しそうな広い庭の手入れについては、必要なら専門家を呼んで手入れを頼む必要がありそうだと、萬狩は、そんな事を考えながら歩き出した。家庭菜園が出来そうなスペースが小さく作られてはいたが、萬狩に家庭菜園の経験はなかったし、今後もやる予定はない。
平たくされた敷地の中心地に構えられていたのは、写真で見たよりも立派な、一階建ての洋館造りの一軒家だった。コンクリート造りのその物件は、壁もきちんと白いペンキでコーティングされており、長い築年数を感じさせないほどに小奇麗だ。
玄関の扉は潮風によって錆かかってはいるらしく、鍵穴に鍵を差し込んで回す際に少しだけ、ギィッと耳障りな音を立てた。
扉を開けた途端、錆や黴といった古きものとは無縁の、自然特有の緑と、潮の香りを含んだ心地良い風が萬狩の顔を打った。
この家は入居者が決まるまで、不動産と、老犬の体調を管理し通っている動物病院、それから掃除を専門とする関係者達が毎日出入りしていたらしいから、こんなにも綺麗なのだろうとは推測出来た。萬狩が入居する本日をもって、今後老犬に関わる人間は週に一回、犬の健康診断と、食糧や犬の生活用品の配達に回って来る以外はなくなる。
この家はアメリカ仕様だったらしく、前家主も靴を脱ぐ習慣がなかったらしい。玄関と廊下の間に本来あるべき見慣れた段差がなく、萬狩は一瞬戸惑ったが、用意されていた緑のスリッパに気付いて、マットの前で靴を脱いで履き換えた。
洋風造りのこの家は、玄関から続く一本の廊下から、それぞれの部屋が存在していた。個室部屋の扉は全て取り外されており、完全な密室は、洗面所の他には存在していない。廊下の突き当たりには、網戸と硝子窓のためられた白い二重扉式の裏口があった。
設置されている窓は、いつでも外に気軽に出入り出来るよう、全て大窓造りとなっているのが特徴的だった。圧倒的に風通しは良く、天上に高さがある事もあって、外からの光も十分に入るため、室内はどこもかしこも明るい印象だ。
既に生活が始められるようにセッティングされた屋内は、萬狩が予想していた以上に、清潔感が漂っていた。前家主はお金を大層持っていたそうだから、きちんとリフォームも重ねていたのだろうか。どこへ目を向けても、古さを感じない別荘のような品質が保たれていた。
キッチンは磨き上げられ、床も軋まなければ傷跡も見られなかった。トイレは洗浄タイプで、浴室だけは少しばかり手狭のようにも思えたが、バスタブも落ち着くベージュ色でタイルも滑らかだ。
広いリビングには、肌色の椅子が四席置かれた食卓と、大きなテレビを正面に置いた三人掛けソファ、ローテーブルが広々としたフロアに置かれていた。窓から差し込む光が、電話機の置かれている白い棚や、壁に設置されている空っぽの大きな棚を明るく照らし出している。
萬狩は、生活に使用する個室についても、郵送で届いた案内書を確認しながら、順に見て回った。
寝室や書斎部屋の他、いくつもの空部屋があったが、どの部屋も大きな家具の他はなく伽藍としていた。既に収まっている大きな家具に関しては、位置を移動したり破棄したりは出来ない契約なのだが、広さは十分にあるので、これから到着する彼の家具も難なく収まるだろうと思われた。
不動産でピアノがあるという話は聞いていた萬狩は、『問題の寝室』に向かう前に、ピアノが一台だけぽつんと置かれた部屋に足を踏み入れた。
他の部屋に比べてやや小さな造りだったが、部屋の中央には、立派な黒いグランドピアノが置かれていた。まさかこんな立派なものだと予想していなかったから、萬狩は呆気にとられた。
前家主は、趣味でピアノでも極めていたのだろうか。ほとんどの私物が取り払われたこの家で、ピアノ部屋にある背の低い棚にだけ、古びた楽譜がびっしりと並び残されている光景は、音楽に精通していない萬狩には見慣れないものでもあった。
萬狩は、酒井よりも先に説明してくれた不動産業者の男から、ここで暮らしている老犬が楽譜の匂いを嗅ぎ、そばでうたた寝することもあるらしいと聞いた話を思い出した。
とはいえ、この部屋は使う事もないだろう。萬狩はピアノを弾いた事はなかったし、他にいくつもの大きな部屋があるのだ。一人暮らしには、他にある部屋だけで十分だと思えた。
先日にも再三に言われた老犬の事を思い出しながら、萬狩は最後に、老犬が普段寝ているという寝室へ足を進めた。
他の部屋と同じように、扉が取り外された寝室には、白いシーツが眩しい古風な西洋風のダブルベッドが一つ、鏡の部分にカーテンの引かれた化粧棚があり、その間に、犬用のベッドだと教えられていた籠が置かれていた。
その籠の中に敷かれた、刺繍の入った深い緑色の大きなクッションの上に、中型というよりは大型の部類に入るコリー犬が、半ば眠るようにして身体を横たえていた。
老犬の体毛は、通常のコリー犬に比べて長く優雅で、想像していたよりも立派な犬にも見えた。けれど、よく見れば優しげで大きな瞳は、どこか薄らと白んでもおり、ゆっくりと持ち上げられたその落ち着いた動作には老いを覚えて、――萬狩は、そのコリー犬が確かに歳を取った犬である事を理解した。
老犬は萬狩を見据えはしたが、初対面であると言うに、吠える事も警戒するような態度も見せなかった。彼が部屋の中を歩く様子を、ゆっくりと首を動かしつつ眺めるばかりだ。
先日に説明を受けた情報によれば、老犬の名前はシェリーといい、十八年になるメス犬だった。若い頃に避妊手術を施され、子の出産経験は一度もなかったが、一度乳房の病にかかって乳房を切り取るという手術も受けたらしい。
犬にしてはかなりの高齢だという事らしいが、萬狩は、超高齢犬であるという強烈な実感は受けなかった。他の犬に比べると、少々老いた感はあるものの、同じ年頃の犬に比べれば身なりもいい。
萬狩は以前、ひどく痩せ細り、毛もぼさぼさで、目脂もある野良の老犬を見た事があった。昔、通勤の行き帰りでちらりと見掛けたその野良犬は、暑い季節を乗り越える事が出来ず、ホームの片隅で死んでしまったのだ。
「一人身同士、互いの生活を過ごしていこう」
相手は元々ここで暮らしていた老犬で、同居するのだから挨拶は必要だろうと感じて、萬狩は、そう声を掛けた。仲良くなるつもりも、深く世話を焼く義理もないのが彼と老犬の関係だと、そう言葉で先に示しておきたかった。
萬狩のその想いを知ってか知らずか、老犬――シェリーが、一度だけ肯くような瞬きを見せた。