六章 九月のバーベキュー(4)~四人と一匹の、花火と星空~下
午前中の準備から始まったバーベキュー会も、終わりが迫っていた。
鼠花火を一個だけ残した萬狩達は、遊び疲れた重い身体をひきずり、家の明かりを頼りに花火の後片付けを行った。涼しいとも感じられるようになった夜風に、自然と身体の熱が冷まされるのを感じた。
先に花火の片付けから外れた仲村渠が、先にブルーシートに豚と顔文字のクッションを用意して腰かけた。彼は、残りの片付けまで行って来た萬狩達に「お疲れ様」と言って、自分が飲んでいるものと同じ、ノンアルコールの缶ビールを差し出した。
萬狩はノンアルコールに興味はなかったが、沖縄へ来てからビールを全く口にしていなかったとも思い出して、久しぶりに味を確かめるべく飲む事にした。
早朝からずっと、クーラーボックスで眠っていた缶ビールは、喉の奥が痛むほどに冷たくて美味かった。古賀と仲村渠老人もノンアルコールビールを、仲西青年はオレンジジュースで喉を潤した。
辺りは漆黒の闇に包まれ、家明かりだけが、頼りなく庭先を照らし出していた。
四人はクッションを枕代わりに、ビニールシートに並んで横になった。狭いビニールシートの中、シェリーが当然の顔で大きな身体を滑り込ませて来て、萬狩と仲西の間に伏せて座った。
眼前に広がるのは、闇夜に浮かぶ無数の輝きを放った広大な宇宙だった。ブルー、グリーン、サファイヤにオレンジ、その全ての圧倒的な美しさが、しばらく萬狩達の言葉を失わせた。
「萬狩さん、知ってます? 星の輝きって、ずうっと昔の光が、遅れて地球にやってきているんですよ」
「そんな事くらい知ってる」
「もしかしたら、もうない星だってあるのかもしれないですよね。存在しない星の輝きが、こうして地球を照らし出しているなんて、なんだか不思議ですよねぇ」
そういうものか、と萬狩は口の中で呟いた。星は、星でしかありえないし、それ以上でもそれ以下でもありはしない。
けれど萬狩は同時に、仲西が感じている不思議な感銘については、少し共感出来るような気もした。老犬と一緒に見た静かな星空のように、今もこうして目の前に広がる宇宙の、時間を超越した輝きに自分は圧倒されているのだ。横になって眺めていると、本当に落ちていきそうにも思える広大さに、言葉にならない想いが胸を詰まらせるのを感じた。
そんな萬狩の隣にいた老人獣医の向こう側で、古賀も、呆けたように口を開いたまま夜空に見入っていた。仲村渠が、「ガジャンが入りますよ」と優しく忠告する声に、萬狩と古賀は揃って「ん?」と疑問の声を上げた。
「すまない。――ガ、なんだって?」
「おっと、失礼しました。蚊や蛾が入りますよ。あれらは、それはそれは不味いのです。食べると舌が痺れます」
「やけに生々しい感想だな。食べた事があるのか?」
「ここ数年内だと、誤って五回ほどですかね」
結構な頻度で食べているな。
萬狩の視線にそれを感じ取ったのか、仲村渠老人は「ふふっ」と笑って誤魔化した。すかさず仲西が挙手し「僕も食べた事があります!」と自信たっぷりに主張した。
「ブランコから飛び降りて、顔面強打する直前に空中で、蛾を見事この口でキャッチしました!」
「それはまた特殊な方法だねぇ。いくの頃の話?」
「去年です!」
「あははは、ほんと仲西君ってバ――行動が単純で極端だねぇ」
仲村渠は、口に手をやってそう言った。萬狩と古賀は、彼が言おうとした言葉を想像して、思わず心の中で同意してしまった。
視界の端に映る僅かな家の明かりが気にならないほど、空は星の輝きで満ちていた。一度だけ流れ星が夜空を跨いで、仲西と古賀が興奮の声を上げた。それがなんだか可笑しくて、萬狩は声を抑えて笑った。
互いに星空に顔を向けたまま、しばし目的も理由もないやりとりが続いた。
「古賀さん、あれがオリオン座ですよ。で、あの下にある星を、僕はネックレス座と呼んでいます」
「あの小さい三連の星? あの、ぼくは、ネックレスというよりは――」
「で、一番輝いているあの星が仲西座ですよ! 萬狩さんもちゃんと聞いてくれていますか? あれは仲西座なんで、萬狩さんは別の星を選んでくださいね」
「仲西さん、た、多分あれ人工衛星ですけど、いいんですか?」
仲西が言いながら、はしゃぐように腕を伸ばして説明する。それに対して古賀は、短くて太い腕を横に振りつつ、どうにか彼の速い話について行こうと相槌を打った。
萬狩は堪え切れず、「おい。お前らは漫才でもしているのか?」と口を挟んだ。
「お前、少しは彼の話を聞いてやれ。途中、何度も遮っているからな」
「聞いてますよ。ネックレス座に感動して、仲西座を把握したって話でしょう?」
「仲西君、君って本当に単細胞だよねぇ」
その時、シェリーが「ふわん」と鳴いたので、仲村渠が「ほら、彼女も同意していますよ」と萬狩の腹をまたぐように腕を伸ばし、老犬の背中に軽く触れた。古賀が、「何度聞いても珍しい鳴き声ですよね……」と感心したように呟く。
その後、少し仲村渠と古賀のやりとりが続いた。仲村渠老人は、古賀が漫画家であるとは知らなかったらしい。物珍しそうに「そうなの」「同人?」「ふうん、いろいろと大変なのねぇ」と相槌を打った。
古賀はついでに悩みも打ち明けつつ、今度ぼくの絵を見て下さい、とまたしても例の如く、この世の終わりのように声を沈ませた。
「そういえば、俺は君のペンネームを知らないんだが」
萬狩は、思い出して尋ねた。遅れてその事実に気付いたのか、古賀が慌てて起き上がり、ポケットを探り始めた。
「ぼく、今日は完全オフの日でした……」
古賀が、途端に泣きそうな顔でこちらを見た。どうやら、名刺を渡そうとしてくれたらしい。営業マンみたいだな、と萬狩は思った。
「落ち着け。俺は別に、名刺を求めたわけじゃないぜ」
「うぅ、ちゃんと作ったのに、全然使う機会が少なくって……」
「じゃあ僕、今度もらいますね!」
「私も、もらいましょう」
その後、口頭で教えてもらった古賀のペンネームは、それなりに格好良いものだった。描いている先の出版社で、絵に相応しい名前として付けられたものであるらしいが、本人は、やはり複雑そうな表情をしていた。
どのぐらいそこにいただろうか。
何故か古賀が、集中的に蚊に刺され始め、そこで星空観察はお開きとなった。バーベキューのために設置された大きな道具などを片付ける体力は残っていなかったので、重い物は後日片付けようという結論に達し、四人と一匹はリビングに戻った。
「またこうして、皆でお喋りしましょうよ」
遊び道具を袋に戻しながら、仲西が笑ってそう言った。ビールは飲めないが、それ以外は付き合いますと、彼は乗り気の姿勢で萬狩に宣言する。
地元の小さな居酒屋があるから、今度、このメンバーで行きましょうと仲西が提案すると、仲村渠が「それはいいですね」と実に表情明るく言った。自宅近くの場所であれば、酒が飲めるのだと老人獣医は話し始めた。
萬狩は、酒好きな老人には呆れてしまったが、それでも『また』があるのは、何だか嫌な気分ではなかった。
だから、萬狩は「そうだな、またやろうか」と考えるように答えていた。
シェリーがいるこの家にいなければならないので、しばらく居酒屋の案はどうなるのかは分からないが、この広い家の活用法など、彼らにはいくらでも思いつけてしまうだろう。
仲村渠老人も、それを知ってか、居酒屋の件については、日取りを決めるような話までは発展させなかった。優しげな眼差しでシェリーを見つめ、居酒屋話に盛り上がる若者二人組に見られない位置で、こっそり萬狩に微笑みかけて、唇に人差し指をあてた。
萬狩が怖いと自覚してしまった未来が、いつ訪れるかは分からない。けれど、終わりのない未来の可能性を語り、それを耳にするのが心地良いのは事実だった。その時は少しだけ、心が救われる気がする。
それを仲村渠老人は、きっと誰よりも多く経験して知っているのだろう。
「星の観察をしながら、お泊まりするのはどうですか? 僕は鍋パーティーがしたいです!」
「ぼ、ぼく自分で鍋をやった事がないので、その、自信がないんですけど、ご相伴したいです……」
「私は家で『鍋の達人』と呼ばれるから、安心して任せるといいよ」
仲村渠が、若者二人組みの話に割って入った。
さりげなく気遣われたのは評価するが、萬狩は、普段通り調子づいた老人獣医に「おい」と口を出した。
「なんの達人だって? ノンアルコールで酔っぱらっているんじゃないだろうな」
「泡盛がなければ酔えませんよ。おや、そういえば古賀君も、顔色一つ変わりませんねぇ」
「そりゃあ一杯しか飲んでいないからだろう」
「す、すみません。あまり水分を摂る習慣がないんです」
その時、彼らの足元で「ふわん」と気が抜けるような声が上がった。
床の上で尻尾を左右に振っていたシェリーが、一同を見回し、それから首を自身のご飯場へと向けた。仲村渠が、壁の時計が午後十時を回っているのを見て「ご飯の時間を、だいぶ過ぎてしまいましたねぇ」と呟いた。
シェリーの世話を仲西が買って出て、ペットを飼った事がないと言う古賀が、それに付き合う形で後に続いた。仲村渠がカレンダーへと向かい、「鍋はいつがいいですかねぇ」と、またしても勝手に予定を組み始める。
どうやら、次回は鍋パーティーらしい。萬狩は、仲西と古賀が、愛情を込めて老犬を撫で回す姿に目を留めて、瞳を少し細めた。まだ寒くはないが、彼らなら平気でそれをやってのけてしまうだろう事が、容易に想像も出来た。
萬狩は家内の騒がしさを聞きながら、疲労しきった身体をソファに沈めた。
家族と暮らしていた時、このように騒がしかったのも、息子達が小学生だった頃ぐらいまでだった気がする。それに比べると、彼らは実に騒がしい大人達である。その話し声と物音を耳にしながら、萬狩は自然と目を閉じて、これからの事を考えた。
まずは、鍋を買って置いておかなければならないだろう。クーラーボックスに入ったままの残りの肉に関しては、三人に持って帰ってもらえばどうにかなりそうだ。さすがに、萬狩一人であの量は処分出来そうもない。
彼らが語る少し先の未来は、輝かしいばかりに面白くもあった。
きっと、その時は賑やか過ぎて、またこのように疲れてしまうのだろう。
萬狩は心地良い疲労感であると認めないまま、閉じた瞼の裏に、老犬シェリーと共に笑い合う彼らの光景をひっそりと想像して――きゅっと拳を握り締めた。