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六章 九月のバーベキュー(1)~萬狩と老犬の朝~

 先日の木曜日は、本人が宣言した通り元気になった仲西がやって来た。彼は相変わらず老犬シェリーを可愛がり世話をし、仲村渠(なかんだかり)獣医と呑気な話題を繰り広げ、自分の家のように萬狩に珈琲を淹れたりした。


 仲西青年の体調が戻った事で、萬狩の生活も普段通りの日常が返ってきた。


 相変わらず呑気な二人組に、萬狩は頭を抱えた。話が斜め方向に交わらない相手がダブルになると、以前と変わらず二倍の疲労感も戻ってくる。珈琲豆が切れそうだったからと、仲西青年がわざわざ仕事途中に立ち寄って来た時は数秒ほど言葉を失った。


 思わず本人を前に、萬狩は「……お前は俺の息子か何かなのか?」と、キッチンの在庫事情を把握されている事を呟いた。しかし、仲西青年はいつも通り人の話も聞かず「それでは!」と会社のバンに乗り込んで、帰っていったのだった。



 九月も第二週に入った数日後の土曜日は、午後に予定が入っていた。



 萬狩が早々にメールを片付けてすぐ、午前十時頃に珍しく一本の電話が入った。


『そっちはどう? メールを見る限り、結構楽しくやっているイメージがあるけれど、しばらく声を聞いていないと思ってね。だから電話をしたんだけど、時間は大丈夫だったかい?』


 家の電話に連絡をしてきたのは、谷川(たにがわ)だった。先月にも電話をしただろうと萬狩が指摘すると、彼は「もう一ヶ月も前じゃないか」と寂しがるように言った。


 萬狩は会社の定期報告の他にも、向こうで暮らしていた時と同じように、谷川とはメールや電話でのやりとりを続けていた。谷川は基本的に、萬狩が気にしているであろう会社内部の事を話しつつ、プライベートな出来事を綴って彼を楽しませた。


『夏バテに軽い胃炎だって? 頑張りすぎじゃないの?』

「お前は、こっちの暑さを知らないからそう言えるんだ」

『まぁ分からないでもないよ。ハワイに旅行に行った時、二日間ダウンして妻と子供を失望させた経験があるからね』

「ああ、あの時の事か。あれは災難だったな」

『まぁね』


 谷川の妻は、萬狩の元妻に比べれば可愛らしい性格をしているとはいえ、一般と比較して考えると強い部類に入る女性だった。


 年上妻という事もあって、ハワイから帰国した後の三週間、谷川が電話でも文句を言われ続けていたのを、萬狩はそばで見て知っていた。ハワイを含む海外旅行のために一ヶ月の有給を取らせた事で、谷川の名誉は挽回の流れとなったのだ。


 今では笑い話だが、あの頃はさすがの谷川も、笑顔に疲労感を滲ませていた。


『でも良かったよ。なんだか良いように変わったみたいだね。声が優しくなった』

「そうか? 特に何も変わっていないぞ」

『うん。そうか、そうだね。じゃあ、そういう事にしおこう』


 谷川はあっさりと言い、『そういえば』と本題らしい話題を切り出した。


『君が注文していたお肉だけど、もう届いたかい? 取引先の武藤(むとう)さんが、是非よろしくってサービスしてくれたみたいだよ。まさか君が、誰かを招いて早々にバーベキューとは驚きだよ。一体何があったんだい?』

「色々あったんだ」


 萬狩は、ぶっきらぼうに答えた。人の話を聞かない老人獣医がいて、食べ物に目がない青年とのタッグでいつの間にかそれが決定してしまっていたんだ、という事情は教えたくない。あの萬狩が、と言われそうな予感があるからだ。


 谷川は少し笑ったが、これに関しても『では、こちらも詳細は聞かないでおこう』とあっさり身を引いた。


『で、お肉はきちんと届いていた?』

「昨日届いた。おかげで冷凍庫の容量が足りなくて、クーラーボックスを買う羽目になったぜ」

『そりゃいい』


 陽気に笑っても、谷川の声は、相変わらずどこか上品に聞こえる。


 萬狩は、大学時代からあまり容姿の変わらないこの男が、電話の向こうで口笛を吹くような表情を浮かべているのが容易に想像出来て、むっつりと顔を顰めた。つまり、こいつは面白がっているのだ。


『クーラーボックスは役に立つよ。君、一気に捨てちゃったものだから、僕の方でプレゼントしようかと悩んでいたぐらいだよ』

「そんなプレゼントは要らん」

『じゃあ釣り道具でもプレゼントしようか。それとも、サーフボードがいいかな?』

「俺はサーフィンなんて出来ないぞ」

『僕がそっちに遊びに行った時に教えてあげるよ』


 相変わらず幅広い趣味を持った男だ。ほぼ同年代とは思えないほど、谷川は現在も活発的で若々しい。


 萬狩は谷川の話を聞きながら、彼が仲西青年と早々に打ち解けて自分を振りまわす様子が容易に想像出来て、思わず沈黙した。谷川はそれに気付かず、今度バーベキューする時は是非そっちに行かなくちゃね、と楽しげに言う。


『君のとこの、お上品な犬に会えるのを楽しみにしているよ』

「勝手に言ってろ」

『あはは、照れちゃってまぁ』


 谷川は、武藤への礼状の送り先を丁寧に教えた後、メールでも詳細を送ると告げて、ようやく電話を切った。


 萬狩が長い電話を終えると、足元で座って待っていたシェリーが腰を上げた。彼が煙草を吸いに歩き出すと、彼女は尻尾を優雅に振りながら後ろからついて来る。


 出会い頭におぼつかないと思っていた彼女の足取りも、よくよく見れば、実はゆっくり歩いているだけなのだ。他の犬の平均的な歩みについては知らないが、シェリーの足音を聞きながら歩く萬狩の速度も、自然とゆっくりとしたものになった。



 萬狩は煙草を吸った後、楽譜を持ってグランドピアノのある部屋へと向かった。拙いながらも、今では全部の章を止まらずに弾けるまでになっていた。



 けれど違うのだ。まだまだだと思った。

 

 萬狩は、流れるように曲を奏でたいのだ。ピアノ教室は先月で受講を終了していたが、この部屋の雰囲気に相応しい音を出すべく、指がそれを覚えてくれるように、今でもグランドピアノで毎日のように練習を続けていた。


 ピアノ教室で習い続けるかは、まだ検討していない。どんなに焦ろうが、不慣れなものに対して身に習得させるには、相応の時間がかかるものだ。


 積み重ねが大事で、それに近道なんてありはしない。


「俺は、一曲しか弾けないぞ」


 ピアノを弾いている間、聞き耳を立てていたシェリーに萬狩はそう声を掛けた。


 シェリーは、一度だけ顔を上げて「ふわ」と眠そうに鳴いた。前の主人に比べれば、自分が全く話にならない程度の伴奏力だろう事は、萬狩も自覚しているつもりだった。けれど、こう見えて彼も必死で上手く演奏しようと心掛けてはいるのだ。


「ちぇっ。聞き飽きたからって、半分寝る事もないだろうに……」

「ふわぁ」


 そう小さく反論すれば、欠伸混じりの返事をされる始末だ。萬狩は憮然としながらも、睨みつけるように楽譜を凝視し、それでも真面目にピアノの鍵盤を叩き続けた。


 ここへ来て何が変わったのか、何が変わっていないのかは、分からない。


 沖縄で暮らし始めて四ヶ月、自炊の腕前と掃除力は確実に上がっているような気がする。それから、向こうにいた時よりも、時間に余裕がある生活を送っているせいか、苛立ちや怒りを覚える事も減った――とは思う。



 谷川から、別れた家族の話は少しだけ聞いていた。数年前に購入した二番目の一軒家で、相変わらず元妻と子供達は暮らしているらしい。


 何故そう詳しいかと言えば、萬狩の長男と、谷川のところの一人息子は同じ大手企業に勤めていて、息子達経由で自然と情報が入ってくるのだ。それに谷川の妻と萬狩の元妻は馬が合い、今でも親密な交友も続いている。



 萬狩は先月あたりから、息子達にでも手紙を書いてみればいいじゃないか、と谷川には勧められていた。二人とも心底君が嫌いな訳じゃない。話す事が大事だよ、と谷川はそれとなく諭してくる。


 最近は萬狩も「書いてみようか」と考える事はあった。


 けれど、一体何を書いていいのか分からないのだ。


 今でも母親と共に暮らしている息子達に、書いて報告するような事もなければ、父親として彼らに訊く用件も想像できないでいた。あまりにも息子達の事を知らないでいる自分にも気付いていたから、今更手紙を送る事にも気が乗れないでいる。


「……まず、俺の名前を見た途端に、あいつが破り捨てそうだな」


 結婚当初はそうでもなかったが、子供が生まれてから、途端に行動力に拍車がかかった元妻を思い起こした。


 恐らく俺の妻が最強だろう。思わず言葉をこぼせば、足元でシェリーが「ふわん」と鳴いた。いつの間にか止まってしまった手を指摘されているらしいと気付いて、萬狩は苦笑した。


「谷川も、きっとそれを忘れているんだろうな。あいつには、あの女がどれほど強い女性だったか、メールで思い出させてやるか」


 集中力が切れたのだろうと察し、萬狩は立ち上がった。自身の書斎室へと足を向ける彼の後ろを、どこか軽い足取りでシェリーが追った。


 今日は土曜日であるが、翌日の日曜日にはバーベキューが開催される事もあり、木曜日に引き続き仲西青年がやってくる予定があった。仲村渠(なかんだかり)獣医も午後から休診との事で、助手をパシりに自前のバーベキュー台を持ってくるらしいのだ。


 萬狩の本日の予定は、その到着を待って彼らにシェリーを預けた後、会社へ郵便物を送るついでに中部まで車で下り、紹介された安売りのホームセンターで紙皿などを購入する係りを任命されていた。


 購入リストは、これから仲村渠(なかんだかり)と仲西が持ってくる予定だ。仲西青年の「おやつも必要ですよね!」という、木曜日の去り際の言葉が気になっているものの、まぁ腐るものでもないからいいか、と萬狩は若干許容もしている。



「なんだか忙しいなぁ。おちおち休めやしないぜ」



 萬狩は吐息交じりに愚痴り、書斎机に腰を降ろしてパソコンを立ち上げた。


 しかし、彼の眉間の皺は随分と浅くもあった。そんな萬狩の足元に優雅に腰を落ち着けた老犬のシェリーが、笑うように「ふわわ」と優しげに鳴いた。

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