表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
23/41

五章 中年男と青年と海(4)~仲直りをしよう~

 仲村渠(なかんだかり)が帰った後、萬狩は予定の時間までゆっくりと過ごした。


 昼食時間ぴったりに老犬シェリーと共に食事をとり、その後は特に何をする訳でもなく、しばらくリビングに座って昼間のニュースを眺めた。萬狩が煙草を吹かせば、シェリーはそれが見える窓辺に寝転がって縁側を見る。彼が拙いピアノの練習を始めると、彼女は楽譜棚の横で丸くなって聞き耳を立てた。


 ピアノを弾く萬狩の足をシェリーが鼻でつつくと、萬狩はポケットからクッキーを一つ出して、彼女に手渡しでくれてやる。萬狩と老犬の関係は、出会った当初と何も変わらず、それ以上の触れあいはない。


 午後三時の間食の時間、シェリーはいつも通りの量を食べ始めた。シェリーのご飯皿は、衛生面を考えて必ず毎回洗うのが日課になっているから、外出着に着替えていた萬狩は、珈琲を淹れ、煙草を吹かしながら彼女の間食に付き合った。


 これは気遣ってやっているわけじゃない。

 俺は、余計な手助けだってしていない。


 家と土地を購入する際の条件として、渡されたマニュアルに従って行っている。それだけの事なのだ。だから――


「――だから、これは同情でも何でもないわけで、俺とお前は、一人と一匹の生活をそれぞれ送っているに過ぎないんだ」


 萬狩が自分に言い聞かせるように告げると、シェリーは、知った顔で「ふわん」と鳴いた。そういう事にしておいてやろう。そんなニュアンスを覚えて、頑固者の彼は、憮然とした顔で頭をかいた。


 何度目かも分からない仕草で、壁にかかった時計を見やった。


 そろそろ出発の時刻だ。萬狩は、仲村渠(なかんだかり)からもらった走り書きの地図をポケットから取り出し、再度道のりを確認してから、待ってましたと期待の眼差しをする老犬をチラリと見降ろした。


「あ~……その、なんだ。俺は、食後の散歩でもしようと思う」

「ふわっ、ふわわん!」

「おいおい、尻尾で皿を転がすのはやめろ。別に、お前のためじゃないんだぜ」


 萬狩は自分に告げるように言い聞かせて、老犬シェリーのご飯皿を丁寧に洗ってから、家の戸締りを行った。



 外出に必要な用意を済ませ、萬狩は、老犬を車の後部座席に乗せて自宅を出発した。彼女はドライブに慣れているようで、付添い人がいなくとも、シートの上に優雅に腰を降ろし、静かに車窓を流れる風景に目を向けていた。



 しばらく、萬狩は車内にラジオも流していない事に気付かなかった。車内の冷房が効き始めた頃、何気なく後部座席に向かって「なぁ」と声を投げた。


「お前の、前の御主人様は、どんな人だったんだ」


 サイドミラー越しに後部座席を確認すると、老犬のやや白く濁った、それでもきらきらと濡れて輝いて見える、どこか大人びた愛嬌のある目と合った。


「相当、お前の事を可愛がってくれていたんだろうな」

「ふわ」

「……こっちに来てから、気付かされる事が多いばかりの俺には、到底無理な事なんだろうな……」


 萬狩は思わず、独り言のように口の中で呟きを落とした。様々と気付かされるのだ、俺には出来そうにもない多くの事だ、と。


 犬との会話も、最近は違和感が薄れたな。萬狩は、そう思って苦笑した。信号待ちの際、ようやく思い至ってラジオをかけると、陽気な男性の声がリスナーからの便りと共に曲を紹介し、それが車内に響き始めた。


 ラジオから流れ出したのは、幼さの残る声で歌う女性の曲だった。あまり音楽を耳にする機会もなかった萬狩にも、それは耳に沁み込む良い曲だと思った。



――その手の温もりを忘れていないわ。夢見るほどに、ずっと覚えているの……



 不思議と耳に心地よいその曲の歌詞が、やけに萬狩の耳にこびりついた。


              ※※※


 車はここに停めておくといい、と仲村渠(なかんだかり)が教えてくれていた駐車場は、民家の間にぽっかりと存在している空き地の一つだった。雑草と砂利があるばかりの小さな土地で、他には三台の軽自動車が駐車されていた。


 誰の土地かは知らないが、昔からあるものらしい。注意書きといった案内板もなく、駐車用の線だって引かれておらず、角には朽ちてて錆も目立つ小型ボートが放置されている。


 勝手に停めていいものだろうかと悩むところだが、萬狩は仲村渠(なかんだかり)の言っていた「短時間なら問題ないはずですよ、私も彼の家に寄る際には使ってます」を信じる事にして車を駐車した。そもそも、歩ける距離内にスーパーもコンビニもないのだ。


 車を停めた萬狩は、シェリーを連れて不慣れな道を歩いた。


 細く荒れた歩道は大人二人分の幅しかなく、電柱があると、向こうからの歩行者が通り過ぎるまで待つ必要があった。


 歩く人々は擦れ違い際、中型犬であるシェリーをちらりと見ていった。買い物袋を下げたエプロン姿の中年女性が、「まぁ、可愛らしいワンちゃんですねぇ」と萬狩に声を掛けてきて、彼はぎこちなく「どうも」とだけ答えた。



 目指す建物は、そこから数分ほど歩いた先にあった。



 この住宅街では珍しい新築タイプのアパートは、建物の表側に全六室分の住人用の駐車場と駐輪場がついていた。薄い桃色の真新しいペンキが目立つ三階建てで、数少ない動物が飼えるアパート物件だという。


 一人暮らし向きの、やや広めの一LDKなのだと仲村渠(なかんだかり)からは聞いた。何度か遊びに立ち寄り、鍋を食べる事もあるという。お前ら、どれだけ仲が良いんだと萬狩は思った。


 萬狩は段差の低い階段を上がって、すぐの部屋の玄関の呼び鈴を押した。


 しばらくすると、内側から扉が開かれた。スウェットズボンとプリントTシャツという、ラフな格好で寝癖をつけた仲西青年が、出て来るなり玄関先で萬狩をむっつりと見つめ返した。寝不足なのか、仲西の顔には僅かに隈もあった。


「……なんで萬狩さんがココにいるんですか」


 そう低く呟いた仲西青年は、ふと、手で顔を押さえて「そうか、今日は仲村渠(なかんだかり)さんも診察に行っていたから……」と途端に腑に落ちたように呟き、自分を落ち着けるように溜息をこぼした。


「すみません。ちょっと体調を崩してしまっていたというか……、だから仲村渠(なかんだかり)さんにも、見舞いはいらないと連絡はいれようとは思っていて――」

「仲直りをしよう」

「は……?」


 開口一番の萬狩の台詞に、仲西が、虚を突かれたような呆けた表情を浮かべた。


 仲西は、萬狩の足元に礼儀正しく座ったシェリーの姿に気付くと、「あれ、もしかして散歩?」「え、萬狩さんが一人でシェリーちゃんを散歩って初めてじゃないの……?」と呆けた。そして、萬狩へ視線を戻すと、どういう事だろうと困ったように眉尻を下げる。


「仲直り、ですか……?」

「そうだ」

「あなたは、何も悪い事をしていないのに…………?」

「そうなのか?」


 萬狩は、顰め面のまま「でも、お前は怒っていただろう」と腕を組んだ。


「俺は生憎、息子達と喧嘩をした事もなければ、怒られた経験もない。だから、年長者に助言をもらった」


 仲西青年が目頭を押さえ、「なるほど」と呻いた。彼は「萬狩さんって、ほんと根が素直というか……」と悩ましげに呟き、数秒ほど黙りこんだ。


 ふっと肩の荷を降ろすような深い、かなり深い溜息をもらした後、仲西は目頭から手を離した。


「僕の方こそ、ひどい事を言ってしまったなと反省していたところです……。どう顔を会わせればいいのか悩んでいたら、本当に知恵熱まで出てしまって。萬狩さんの自宅の番号を僕が個人的に知っているはずもないし、かといって、会社から個人情報をもらうのは間違っているし、電話で言う内容でもないだろうし、と……」


 細々と話される声は、次第に小さく沈んで聞こえなくなった。


 仲西青年は、先日の自分の暴言に相当ショックを受けているようだ。そう察した萬狩は眉を寄せて、「もういい」と彼の話を遮った。


「俺達は仲直りをしただろう。だから、その話はもう無しだ」

「……萬狩さん、もしかして、仲直りもした事ないでしょう?」

「経験にないな」


 彼が断言すると、仲西は腰に片手をあてて「しょうがないなぁ」と寝癖頭をかいた。しかし、数秒もすると、仲西青年は頼りないほど幼い笑顔をこぼして「良かったぁ」と安堵の息を吐いた。


「僕、もう萬狩さんと友達でいられなくなっちゃうんじゃないかって、すごく心配していたんです」


 俺は、お前達と友人になったとは一言も認めていないんだが……

 というか、いつ友達になったんだ。


 萬狩は目で訴えたが、状況を考えて口には出さなかった。仲西青年が視線の意図に気付かないまま、今は知恵熱のため体調が悪いのは本当の事なので、今日は折角来てくれたのにお茶も菓子も出せないで申し訳ない、という事を言った。改めて遊びに来て下さい、と疲労感漂う笑顔で続ける。


 遊びに来る予定は特にないし、今回も遊びに来たわけではないという萬狩の台詞を聞き流した仲西青年は、久しぶりの再会を喜んでシェリーを「可愛いかわいい」と撫で回した。


古賀(こが)君と、パフェを食べるために喫茶店の梯子をしたのも、まずかったかなと思っているんですよねぇ」


 唐突に、仲西青年の口から例の漫画家である小男の名前が出て、萬狩は耳を疑った。


「ちょっと待て。お前ら、いつの間にそんな仲になった?」

「この前の海で、萬狩さんと別れた後に番号交換したんです。萬狩さんへの愚痴を聞いてもらいながら、一緒に食べ歩きしました」

「濡れたままか?」

「さすがに服は着替えましたよ。僕のシャツを着た古賀君、すごく面白かったです。袖口もしっかり伸びちゃって、律儀に新しいシャツまで買ってきてくれたんですよ」


 萬狩は「ふうん」と答えながら、二人の組み合わせを想像した。仲西に振り回される小さくて丸い古賀が、なんだか容易に想像出来た。


「そういえば、あいつは何か相談事をしていなかったか」

「確か、彼女さんの事ですよね? すごい漫画家さんらしくて、『とにかく当たって砕けてみれば?』って感じで上手くアドバイスしておきました。ちなみに、マンゴーパフェが最高でした!」

「それはアドバイスになるのか? というより、お前はちっとも悩みの根源を理解していないどころか、覚えてすらいないだろう、食うのに夢中で」

「それと、バーベキューにも誘っておきましたよ」


 相変わらず、仲西青年の話はよく飛ぶ。


 今度は、萬狩が沈黙する番だった。人との距離感を間違えているのは、もしかしたら俺の方なのかと、彼は思わず額を押さえてしまう。


「……普通、初対面の人間を、プライベートな用事に誘うか?」

「共にパフェを食べた仲です。あの人、なんか道路に放り出された小動物みたいな感じなんですけど、メールでは凄くテンションが高くて、そのギャップも面白い!」


 仲西青年がそう言い、良い笑顔で指をパチンと鳴らした。


 おい、もうメールをする仲なのか。いや、もしかしたらこれは、世代の違いなのかもしれない……萬狩はそう自分を納得させる事にした。多分、深く考えたらこっちが知恵熱を出してしまう可能性がある。


「木曜日までには回復させておきますんで、ご安心ください!」


 仲西青年が、胸を叩いて笑った。現在は九月に入っており、萬狩が「ピアノ教室は八月までだったから必要ないぞ」と言っても、木曜日に来るという主張は覆さなかった。


 この青年の中では、週に二回の訪問が日課になってしまったのだろう。萬狩は呆れた眼差しを寄越したが、結局上手くいかず、意気込む仲西が何だか可笑しくて、つい口角に笑みを浮かべて「頼む」と答えていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ