一章 老犬と始まった萬狩の新生活(1)~萬狩の契約~
萬狩が、谷川に聞いた話の家と、その土地を買い取ろうと思ったのは、ただ酔狂に乗ったわけではない。手元に残った金額から最小限の出費で、肉体的、特に精神的に開放される事に気持ちが傾いたのが理由だった。
遠く離れた南の土地の物件は、彼がこれまで聞いた事がないほど破格な値段だった。条件の一つとして全額一括払いする以外にも、とある約束事が守れる人間に限定されており、前もって一回は必ず、物件の販売先である不動産で実際に足を運び、話を聞かなければならないという括りもあった。
その物件情報は、情報誌にもネットにも載っておらず、口コミだけの情報源しかなかった。現地で話を聞き、オーケーがもらえれば、続いては弁護士からも話を……という流れのため、遠くの人間はさぞ躊躇を覚えるだろうなと思い、萬狩は焦る気持ちも覚えず、その不動産に連絡を取ってから飛行機のチケットを手配した。
高い飛行機代を払い、萬狩は日帰りの予定で沖縄に足を運んだ。
不動産の男は、ふっくらとした背の低い柔和な白髪男性で、沖縄訛りの強いゆったりとした話し方をした。物件の情報について、まずは半分まで説明すると、萬狩自身についてアンケートを取るように、好きな映画や、世間をにぎわせている本などの感想まで質問してきた。
物件情報を聞くためというよりは、まるで面接を受けるような心境だったが、萬狩は、根気強く付き合った。値段の良さと物件の保存状態、そして山の上一体に構えられた土地の広さを現地の資料で知り、余計にその家が欲しくなっていた。
不動産の男は、その後、物件の残りの情報について語った。笑顔で「よろしいでしょう」と頷いたかと思うと、数枚の契約書をテーブルに並べ、こう言った。
「こちらが当社で受け持っている分の契約書類になります。弁護士を呼びますから、ちょうど書き終えた頃には到着するでしょう」
「は……。え、これから?」
「はい。何か不都合でも? 購入されるんでしょう?」
「まぁ、そうなんだが……確か、後日に弁護士事務所を案内されるとか――」
「どうせ近くですし、電話一本で来てくれますから」
萬狩が呆気に取られていると、不動産の男は一度だけ席を外し、本当に電話連絡を入れてしまった。
テーブルに置かれた書類の中で、最終確認のように見せられた『物件購入の条件書』には、谷川から聞いていた内容と同じ事が記されていた。そこには、元家主が弁護士に預けたという原文の写しもあった。
――『愛する家族の一員である老犬を、最期まで大事に見届けてくれる方に、
私の土地と家を、この値段でお譲り致します。』
老犬が健在の間は、土地や物件に対して変化を加える事は禁じられている。もし、その老犬が無事に天寿を全うしたならば、その時は土地と家の両方を、売るなり改築するなり自由にしていいとの事だった。
「前家主様は、我が子のようにその犬を愛していらっしゃいました。お客様の入居後も、その犬にかかる費用は全てこちらから出させて頂く事となっております。生活の中で、老犬に関わる費用が発生した場合は、こちらの方に支払いの請求をされて下さい」
不動産側の書類の記載を全て終えた後、萬狩は、タイミングを計ったようにやって来た、酒井という弁護士の男から詳しい説明を受けた。弁護士の酒井は、疑い深い目を分厚い眼鏡の奥に隠した高齢の男で、淡々と説明しながら、支払い請求先を記した用紙も萬狩に手渡した。
どうやら、元の家主の財産は、全て老犬に相続されているらしい。管理をしている弁護士事務所の代表である酒井は、そう事細かく説明しながら、どこか眠たげな垂れた一重の細い目を細めた。
まるで関心もないといった顔をしていたが、酒井の気だるげな瞳は、抜け目ない眼光も宿しており、気のない振りをしつつも、萬狩の反応を一つ一つ見ては、顔を僅かに顰めるような表情を浮かべたりした。ピンと伸ばした中指で、何度も眼鏡を眉間に押し込み、探るような眼差しで真っすぐ見つめ返す。
萬狩は、人間としての点数を計られているような苦手意識を覚えた。しかも、この弁護士は、わざと苛立ちを煽るような話し方をするのだ。そこも好きになれそうになかった。
「残った財産は寄付される予定ですよ。ご立派だと思いませんか?」
別にそこまでの情報は必要としていないし、問われても特に答えるような言葉も思い浮かばず、萬狩は、何故それを俺に話すんだろうと鼻白んだ。
とはいえ、説明はきちんと聞く義務があるだろうから、萬狩は反論もせず「そうか」と相槌を打ち、下手くそな紙芝居のような弁護士の、淡々とした棒読みの説明に長々と付き合った。酒井の方も、本心では事務的な手続きをさっさと済ませたいのか、萬狩に休憩時間すら与えず言葉早く先を話し進めた。
根気強く聞き手に回っていた萬狩は、説明が老犬の内容にさしかかったあたりで、ふと、当初から感じていた不安を口にした。
「犬の一般的な飼い方を知らないわけじゃないが、見聞きした程度だ。生憎、友人の犬を一周間ほど預かっていた経験しかない」
「つまり、ちゃんとした知識も飼育経験はないと、そうおっしゃるわけですね?」
まるで尋問のように、酒井が尋ね返してきた。
萬狩は取り繕う事もせず、正直に「その通りだが?」と犬の飼育経験がない事を断言して、顔を顰めた。
「不動産側にも伝えたが、特に問題ないから、詳細説明をあんたから聞くようにとしか言われなかった。その犬は老いているようだし、余計にどうすればいいのか分からないんだが」
お前、不動産側から話を聞かなかったのか、と萬狩は眼差しで怪訝を露わにした。弁護士をこちらに通す前に、不動産の男は「引き継ぎをしますから」と言って、しばらくの間事務所の奥の部屋にこもっていたはずだ。
酒井は、眉一つ動かさなかった。表情筋がないような顔で、じっくり探るように萬狩の無愛想な目を見据え、器用にも萬狩に聞こえない声量で口の中に「馬鹿正直な方ですね」と、個人的な感想を落とした。
「何か言ったか?」
「いいえ、何も」
酒井は背を起こすと、事務的な説明を行った。
「こちらでも一通り、あなたがするべき内容については説明させて頂きますが、老犬については『マニュアル』もありますので、ご安心ください。それから、老犬は雌犬ですからお間違えなく。彼女のごはんや必要品は全て、週に一度セットで届くように手配されていますが、先程も説明申し上げました通り、他にも何か入用になってご購入された場合は、こちらの宛先まで領収書をお送り下さい。数日内では、契約の口座先へ振り込ませて頂きます」
基本的に、老犬は週に一度獣医の訪問検診を受けており、同じ割合で専属の業者が訪問して、風呂やトリミングやマッサージなど、必要な事は全て行っているのだと酒井は説明した。
家と土地を購入した者から、老犬へ課された最低限の世話に関しては、専属獣医が老犬の身体の状態等をチェックし、常に弁護士側に報告する流れになっているようだ。
つまり食事を与えない、不調が出たにも関わらず獣医への連絡を怠る、虐待など、約束事を破る兆候や症状を監視するための役割も、専属獣医は受け持っているのだ。
それらの違反事項が確認された場合、家と土地の所有権利を失うという誓約書にまで、萬狩はサインをさせられた。しかし彼は、獣医達の出入りによる『きちんと経過観察&監視されているぞ』というプレッシャーについては、微塵も覚えていなかった。
取引の大事さは身に沁みており、約束を破るつもりは毛頭ない。そもそも、飼育に不慣れな萬狩にとって、返って専門家という存在は非常に有り難いものだった。
酒井の説明とマニュアルを見る限り、老犬の生活リズムの中で、萬狩は決まった時間に適量の食事を与え、トイレシートを交換すればいいだけであった。面倒をみるといっても簡単な最低限の手助けだけなので、それなら俺にも出来そうだ、と萬狩は考えていた。
老犬に関しては、前家主が残した財産から全てが支給されており、萬狩の懐から一切費用がかかる事もない。そのうえ、老犬が暮らす家の水道、電気、ガスにおいても五割はあちら持ちであるし、風変わりな『条件付き物件』ではあるが、こんなに美味い話はないだろう。
予想以上に難しくない得な話だなぁ、と一人改めて契約書の内容を再確認する萬狩の様子を、酒井は、しばらくじっと見据えた。
「――今後、家に関わる事、老犬に関わる疑問や相談などありましたら、弁護士事務所までご連絡下さい。老犬の体調や生活に関しては、訪問される獣医へそのまま相談されても問題ございません」
我々は、その獣医から都度報告を受けておりますので、そこはご了承下さいと酒井は続けた。筒抜けなのでしっかり面倒を見ろよ、と遠回しに嫌味ったらしく牽制されているような気もした。
萬狩は、飛行機代と長時間の説明だけで、安く土地と家が手に入ったと満足もして深読みはしなかった。
まるで老犬に関して深い思い入れでもあるような執拗さだが、多分、俺の考え過ぎだろう。こいつは、もしかしたら愛犬家というやつかもしれないし、財産の中から高い契約金でも貰って仕事意識が高くなっている、という可能性もある。
そう考えると、ますます気のせいだと思えた。露骨に面倒そうな顰め面は晒していたが、説明の一つも飛ばさず、義務を果たすように長々と弁護士としての仕事をした酒井を、萬狩は心の中で勝手に労った。
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契約を済ませて出ていった萬狩を、不動産の男と共に見送った酒井が、「第一印象を裏切らないというのも、珍しい方ですね。……意外と単純で呆れます」と呟き、表情なく眼鏡を押し上げた。