四章 想いの名は口にせずに(4)~もう、知らなかった頃には戻れない~
結局スーパーで買い物をする気力と体力も湧いて来ず、美容室を出た足で、萬狩はそのまま帰宅した。
昼食時間を少し過ぎた頃の帰宅だったが、緑のエプロンを着用した仲西青年が、キッチンから顔を覗かせて「お帰りなさい、早かったですね」と言った。食卓には既に氷水と、ソーメンが入ったボール、二人分の取り皿と、ポン酢や山葵、千切りにされたキュウリと卵焼きとハムも用意されていた。
疲れていた事もあって、萬狩は短く「ただいま」と諦め気味に答えて食卓についた。内心では、ここは俺が一人で暮らしている家のはずだが、と最近の決まり文句は唱えていた。
シャンプーもマッサージもされたシェリーが、いつものように萬狩の足元に座った。彼女はどこか興奮した様子で口を開けて舌を出しており、足に掛かる吐息は熱い。
「運動でもさせたのか?」
「シェリーちゃんが庭に出たがったので、十分ほど一緒に散策しました。大きなカマキリがいて、それを口で掴んで自慢げに闊歩していましたよ」
仲西は思い出すように答えながら、自分と萬狩のコップを用意し、そこに麦茶を注ぎ足した。
「シェリーちゃん、お嬢さん犬だと思っていたんですけど、カマキリが好きなんですかね。ずこく興奮してました」
「俺が知るものか。付き合いはお前より短いんだぜ」
吐息交じりに苦々しく返した萬狩を見て、向かいの席に腰かけた仲西が「食べられそうですか?」と訊いた。しかし数秒後に、彼は「おや」と小首を傾げる。
「萬狩さん、なんだかお疲れですね。あ、髪も切りました?」
「……ああ、散髪してきた」
先程の一件を思い出した萬狩は、短く答えて、早々に口をつぐんだ。
実は美容室を出る際、以前に仲西青年と老犬の散歩をしたビーチで、例の小男と待ち合わせの約束をしてしまったのだ。今更であるが、萬狩は「俺はなんてことをしているんだろうな」と、今になって後悔が押し寄せていた。
小男はあの時、「相談したい事があるんです」と主張してきた。こちらにはそれを聞く義理はないはずで、萬狩はすぐに断ろうとしたのだが、彼に涙声で「ぼくには友達もいないし、福岡からこっちに移住したから独りだし、誰に相談していいのか分からなくって」と訴えられては、強くも断れなかった。
店内だったので他の人間の目もあったし、その居心地の悪さと、早々に逃げ出したい気持ちが勝って、小男の一方的な約束を了承してしまったというのもある。
約束は午後一時半頃としているが、この炎天下の中を想像するだけで、萬狩は更に気持ちが萎えた。今思い返すと、新手の迷惑極まりない脅迫のような気もしてくる。タイミングが悪いというか、運がないというか、なぜ俺なんだろうなとも思う。
萬狩は、冷やしソーメンを食べながら考えた。
話を聞くだけなのだし、そこまで時間は掛からないだろう。ひとまず、赤の他人である俺に相談したい事とは、どれほどのものなのだろうか?
「……少し出掛けるんだが」
「なるほど散歩ですか!」
「おい。誰もそんな事は口にしていないが?」
本能的な直感で萬狩の行き先を察知したように、仲西が瞳を輝かせた。シェリーも、ついと顔を持ち上げて、期待に満ちた目を向けてくる。
つい老犬に視線を返してしまった萬狩は、彼女から目をそらしながら、罰が悪そうに首の後ろをかいた。
「……その、なんだ……人に会うんだよ」
「ご友人さんですか?」
「同じピアノ教室に通っている、顔しか知らない男だ。少し話したい事があるらしい」
萬狩が唇を尖らせつつ答えると、仲西が、何も考えていない顔で「なるほど」と陽気に頷いた。
「つまり『ピアノ仲間』って事ですね!」
「…………」
正直、嬉しくない表現だ。
すると、萬狩の心境を表情で見て取った仲西が、途端に笑ってこう言った。
「すぐに仲良くなれますよ。萬狩さんって、外見によらず面白いですし」
「おいコラ。どういう意味だ」
「大丈夫です、任せて下さいッ。萬狩さんがお喋りしている間、僕とシェリーちゃんは邪魔にならないよう近くを散歩していますから!」
「お前、俺の話を聞いちゃいねぇな」
萬狩は面白くなかったが、足元に座ったシェリーの尻尾が「散歩」の言葉のたびに揺れている事には気付いていた。
畜生、人間の言葉を完全に理解してやがる。
なんて賢い犬なんだと忌々しく思い、萬狩は、少しばかり悩んだ。しかし、思案は数秒も掛からずに一つの結論へと達し、彼は吐息交じりに決断を告げた。
「……分かった。この前の海岸に行くから、食べ終わったら支度しておけ」
「わーい!」
仲西がバンザイをし、すぐにシェリーを呼んだ。
萬狩は、仲西青年がシェリーの顔をめちゃくちゃに撫で、抱き締める様子をぼんやりと眺めた。やはり体調は良好ではなく、食べたせいで余計に腹の底が重苦しく感じた。本当だったら、もう外出はしたくなかったし、彼らを連れて行くという面倒もしたくはなかった。
けれど、――
ここに閉じ込めておくより、ずっといいだろう。
なんともまぁ、揃いも揃って、実に楽しそうじゃないか。
気付けなかった頃には戻れないのだからと、萬狩は、そう判断するまでの自分の思考にそっと蓋をして、シェリーという名前の老犬から視線をそらした。