四章 想いの名は口にせずに(3)~萬狩とピアノ教室と理髪店~
青年と老人獣医の二人の迷惑な居候に見送られた萬狩は、玄関から外に出たところで、立ちこめる熱気に一度足を止めた。
ここ一週間は雨も降っていないせいか、日差しは肌に刺ささるのではないかと思うほどに暑かった。恐らく生えている木の種類によるのか、不思議と萬狩宅に蝉はいないのだが、少し下ると、煩いほどの蝉の大合唱が車内まで鈍く響き渡るのだ。
萬狩は車に乗り込んだところで、「それにしても、バーベキューとは面倒事になったな……」と思わず口に滑らせた。ピアノ教室へ向かうため車を走らせたのだが、車内の冷房が効くよりも早く、彼の運転する車はピアノ教室に到着していた。
涼しい教室内には、受付のカウンター席に腰かけた内間しかいなかった。今日も彼女との挨拶から始まり、萬狩はカウンターに置かれている利用者表に名前を書くと、いつも座っている電子ピアノの席に腰を降ろした。
ピアノ教室に通い始めてから七回目を超えていたが、その間に、他の利用者は見かけていなかった。唯一遭遇しているのは、背丈の低い太った例の男ぐらいだ。ほぼ毎回、彼は萬狩が来る頃には既にピアノの練習にのめり込んでおり、顔に大量の脂汗をかいているのだが、今日は珍しく来ていないようだった。
内間が言うには、ここは田舎の小さなピアノ教室なので、午前中の利用者は少ないらしい。予約の大半が午後からで、仕事や学校がある人達は、夕方に足を運んで来るのだそうだ。
内間が見守る中、萬狩は練習の成果を見てもらうべく、まずは楽譜の片面分の音を弾いてみた。彼が譜面を確認しながら、拙い指の動きで鍵盤を確実に叩いていくそばで、内間が穏やかな表情で聞き入った。彼女は一通り聞くと「指の位置を間違えなくなりましたね」と褒めつつ、一つ一つ、改善点を上げていった。
萬狩は、叩いた鍵盤から出る音が『音楽』になってくれる事を目標として練習に励んでいた。自分にリズム感がないと気付いたのは、習い始めてすぐの事だったが、「ここはゆったりと」「ここはテンポ良く」と内間に受けたアドバイスは、何度も口の中で反芻し、楽譜にもメモをとっている。
不向きな事であるのに、らしくもなく彼は頑張っていた。もう少し肩の力を抜きましょう、と内間に言われるのはいつもの事で、萬狩はぎこちなく微笑み返したものの、やはり気持ちは穏やかになってはくれないでいた。
どうして俺は、こんなに頑張っているのだろう。
電子ピアノに向き合うたび、奥歯を噛みしめて全神経を鍵盤と楽譜に向けている自分に気付く。いつも同じ疑問を繰り返し覚える中で、脳裏に浮かぶのは、彼が自宅でピアノを練習している時、その足元に寝転がっているあの老犬の姿だった。
「――俺は、音楽なんて全然知らない素人だ。出来ていないところがあったら、なんでも言って下さい」
萬狩は、先日にも告げた事をもう一度内間に言った。一曲だけでいいから、それを自分のものにしたいのだ、と。
すると、彼女は困ったように微笑み、それからこう言った。
「萬狩さんは、上達が早いから大丈夫ですよ。すぐに今よりも、もっと自然に弾けるようになりますからね」
プロの言葉に自分を励まし、その日、萬狩は彼女に付きっきりで指導してもらった。当初は気恥かしさもあってそんな事は出来なかったが、他に大勢の人の目がある訳でもないのだからと、最近は開き直る事にしていた。
一時間ほど集中して練習に励んだが、やはり、ここ数日しっかりと飯が食えていないせいか、疲労感がやって来るのも早かった。恐らく固形物を胃に入れていないから、余計に胃の辺りがむかむかするのだろうとは分かっていた。
一通り手直しが必要な個所を見てもらった後、萬狩は、早々にピアノ教室を後にする事にした。
車に乗り込んですぐ車内の冷房を強くかけて、蒸し暑さが去るのを待ちながら、しばらく身体を休めた。ピアノに関しては、確認しながらであれば全部弾けるまでになっている。これは素晴らしい成長じゃないかと、萬狩は、内臓の心地悪さを追い払うように自分を褒めてみた。
しかし、やはり妙な焦燥感は消えてはくれなかった。仲村渠からもらったカロリーメイトを鞄に忍ばせていたので、車内が冷えてくれた頃に、時間をかけてそれを腹に収めた。
時刻は、午前十一時半頃だった。
予定していたよりも随分早く、ピアノの練習を切り上げてしまった。
そう考えながら、サイドミラーに映った自分の顔を見た萬狩は、ふと、髪が伸びている事に気付いた。そういえば、最後に散髪したのは、梅雨の時期の買い出し以来である。
近くに大型スーパーに隣接した小さな理髪店があるのだが、萬狩は以前、仕上がりの速さと値段の安さに惹かれて、一度だけそこを利用した事があった。沖縄に越して来てからは行きつけの理髪店もなかったから、軽い気持ちで利用したのだが、なかなか良かった事を思い出した。
冷蔵庫の食材や飲料水も少なくなっていたので、ついでにスーパーで何か買おうと考えた萬狩は、この地区で唯一の大型食品店へと車を走らせた。
※※※
自宅からだと二十五分。ピアノ教室からだと十分ほどの距離にあるその大型のスーパーは、平日ということもあって駐車場も空きが多かった。
安いその理髪店は、以前寄った時と同じように、四人ほどの客が既にカット席に腰かけていた。狭いながらも清潔な店内には五人の中年スタッフがいて、萬狩が入ってすぐ、一人の中年男性が声を掛けて来た。
「現在席が埋まっておりまして、十分ほどお待ち頂く事になりますが、よろしいでしょうか?」
黒々しい髪にパーマをあてたその中年男性は、彫りの深い顔にあるしっかりとした形の良い眉をそっと寄せて、申し訳なさそうに告げた。一見すると怖い雰囲気をした男だが、声は通っており、物腰も非常に柔らかい。
萬狩は「構わない」と答えた。待ち合い席に設けられているソファに腰かけ、経済新聞を手に取ってしばらく眺めた。数ページほど読み進めたところで、女性スタッフが「お待たせしました。こちらへどうぞ」と、彼をカット席に案内した。
女性スタッフは、萬狩の用意を整えるなり「先程の東風平が担当にあたりますので、少々お待ち下さい」と声を掛け、足早に別の客のもとへと戻っていった。
どうやら、はじめに対応してくれた中年男性が、自分の髪を担当するらしい。萬狩はそう察しながら、彼女が口にした『コチンダ』という名前を頭の中で反芻していた。沖縄の地域名でもあったはずだが、やはり漢字は出て来なかった。
萬狩は鏡に映る自分の気難しそうな顔を、ぼんやりと眺めた。店内にいる客は入れ替わりが早く、腰に黒いエプロンを巻いたスタッフが、鏡越しに右へ左へと忙しなく移動する様子が自然と目に入る。
しばらくそうして待っていると、パーマ頭の中年男性がやって来て「担当の東風平です、よろしくお願いします」と言った。
「本日は、どのような髪型を希望されていますか?」
「全体的に、そのまま少し整える感じで短くして欲しい」
「なるほど。かしこまりました」
東風平は、早速カットバサミで萬狩の髪を整え始めた。全体的に素早く整えられたところで、後方から「店長」と声が上がり、東風平が一旦手を止めて、その女性スタッフと目を合わせ難しそうに眉を寄せた。
しかし、彼は数秒もせず小さな吐息をこぼすと、了承したと答えるようにゆっくりと瞬きし、萬狩へと向き直った。
「お客様、申し訳ございません。少し席を離れてもよろしいでしょうか?」
鏡越しに、東風平が申し訳なさそうに尋ねてきた。彼が店長だったのかと思いながら、萬狩は、ちらりと声のした方へ目を向けた。
三つ向こうの席に、染髪剤をつけて待たされている大柄な中年男性の姿が目についた。萬狩よりも少し年上そうだから、きっと白髪染めか何かだろうとは推測出来た。
萬狩が了承すると、東風平は「ありがとうございます」と言い、機敏な足取りで三つ向こうの席の男の元へと向かった。彼は慣れたように客の髪の染まり具合を確認し、近くにいた若い女性スタッフに声を掛ける。
待っている間は暇であるので、萬狩は、鏡の台に用意されている雑誌を物色してみた。女性向け、男性向けの両方が用意されており、興味はないが、色合いに引かれて釣りの専門誌を開いて、掲載されている写真の口の尖った魚や、やたらと丸い魚などを簡単に流し見た。
しばらくそうやって暇を潰していると、隣の客が散髪を終えて席を立ち、すぐに新しい客が座った。
隣の新しい客は、中年女性に「どのようなカットを致しましょうか」と言われて、戸惑っているようだった。萬狩は雑誌に目を向けていたのだが、男の慌てぶりが横目に入って、途端に集中できなくなった。
その男は散髪後のイメージを考えていなかったのか、希望する髪型を伝える言葉を上手く見付けられないのか、「うぅ」「あの」「その」と両手を交えて慌てていた。そんなに個性的な髪型なのか、それとも過去の失敗が男を焦らせるのかと、萬狩は少し気になった。
萬狩が雑誌へ視線を落としたまま耳を済ませていると、中年女性が、男性の髪型が載った雑誌を男に手渡した。どうやら彼女は、男が頭の中で思い描いている髪型を写真から探る事にしたらしい。
「こちらの方ですと、お客様ぐらいの若い方に人気ですよ」
「そ、その、耳の上まで刈り上げるのは、ちょっと……。お、重くない方がいいのは、確かだけれど…………」
なんだ、若いのか。
店内に多くいる中年男性の客の一人だと思っていたから、萬狩は少し意外に思った。確認してみたい気もするが、失礼だと思って顔を向ける行動力は出ないまま、隣のやりとりを聞いていた。
余所への好奇心のおかげか、胃のむかつきは少しだけ軽減された。萬狩は、目の端に映る新しい客の足を、チラリと盗み見た。
くたびれたスニーカーに、だぼだぼのジーンズ・ズボンがそこにはあった。サイズは、恐らく萬狩のズボンの倍はあるだろうと思われるが、膝から下の長さはないようだ。若いらしいその男と、中年女性スタッフの相談は、それから数分ほど進展もなく続いた。
しばらくそのやりとりを聞いていた萬狩は、段々と苛々してきた。
つまりこの男は、個性的でも非個性的でもなく、伸びてしまった現在の髪をそのまま短くしたいというだけの事なのだ。しかし残念ながら、焦る男の主張は説明が不十分すぎて、どもりが酷い事も影響し全くスタッフ側に伝わっていない。
これはスタッフの対応が悪いという訳ではなく、男の伝え方が非常に下手であるせいなのだ。中年女性スタッフは心底困っているのか、敬語に沖縄鈍りが出始めていた。新しい客の方は、口籠りが更に悪化している。
口を挟んでしまおうか、と萬狩が胃のむかつき感を強く感じたところで、戻ってきた東風平があっさりと事を解決した。どうやら東風平は、後ろの方でそのやりとりを聞いていたらしく、理解したその要望があっているのかスムーズに確認したうえで、慣れたように話を進め出した。
「白髪染めも希望されているという事なので、まずは軽く整えてから染髪剤をつけましょう。これまでに薬剤が頭皮についた事で、痛くなったりした事はありますか?」
「な、ないです。一度も、多分、なかったような気がするけど……その、去年一回だけ染髪した事があるぐらいで、確かヘナとかいう薬剤でした」
「ああ、オーガニックの方ですね。うちも同じものを扱っていますよ。頭皮に優しいのでお勧めではありますが、白髪染めだと、ちょっと弱いと思います」
女性スタッフに代わり、東風平が話しをまとめた。ヘナの商品ではないが、低刺激の薬剤があるのでそちらを使いましょう。念の為、薬剤を頭皮から若干離す形で染めていきますので、安心して下さいと彼は告げる。
やはり気になる。よし、隣の男を確認しよう。
萬狩は心を決めた。失礼に思われる確率は低いはずだし、ちらりと見るだけなのだから問題ないだろうと考えたところで、東風平が後を女性スタッフに任せて戻って来た。萬狩が顔を向ける暇もなく、後ろに戻った彼がこう言った。
「お待たせしてしまい、すみませんでした」
「別に、それほど待ったわけでも……」
東風平は言うなり専用のカットバサミを手に持ち、萬狩の左右の髪の長さを確認しながら再びハサミを入れ始めた。
髪を切られている最中は、どうしても身動きが取れない。隣の新しい客も、先程の中年女性が対応にあたって髪を切り始めており、そうしているうちに萬狩の方の散髪が早々に終了した。
前回同様に自然な仕上がりだった。東風平は、萬狩に髪の仕上がりを確認させると「整髪剤を取ってきます」と言って、一旦席を離れていった。
隣の新しい客についていた中年女性スタッフが離れていったのも、ほぼ同時だった。どうやら、これから染髪剤の準備を始めるらしい。萬狩が、「よしチャンスだ」とそれとなく隣の席へ目を向けた時、その新しい客も萬狩の方を向いた。
互いに見合わせてすぐ、二人は「「あ」」と揃って声を上げていた。
「……君は、ピアノ教室の…………」
「……あ、あなたは、確かピアノ教室に、い、いらっしゃった……」
白く丸々とした小男が、口ごもりぼやいた。その額と鼻頭には、脂汗が浮かんでいた。
隣のカット席に腰かけていたその男は、同じピアノ教室に通う、例の背丈の低い丸い男だった。今日は教室で会わなかったと思っていただけに、こんな偶然もあるものなのだなと、萬狩はらしくもなく驚いてしまった。
蒼白した小男をまじまじと見入れば、ピアノ教室にいた時と違って必死な形相をしていない表情は、どちらかというと臆病な感じで顔立ちも浅かった。それは、見慣れた他県人のそれで、皺一つなく張りのある顔からも、確かに若いという事が見て取れた。
とはいえ、同じ教室に通う者同士が、偶然にも同じ理髪店で、偶然にも隣同士になったというだけだ。萬狩は、蒼白していた彼の顔が次第に助けを求めるように変わっていく変化に気付いて、思わず、さっと視線をそらしていた。
どうも、嫌な予感がする。
土地柄なのかは知らないが、なんというか、ここで出会い絡んでくる人間は、他人同士の繋がりや距離感に対して、躊躇を飛ばして来るような気がするのだ。
つまり巻き込み体質が多いように思う。しかし、萬狩はただの頑固親父の一人にすぎず、巻き込まれるような体質ではないと自負している彼は、己の平穏のため、一連の出来事をなかった事にする決意を固めた。
この小男が仲西青年より年下だろうが、少し年上だろうが、そんな真実は知らないままでいい。とりあえず、俺は速やかに理髪店を出るべきだ。
タイミング良く東風平が戻ってきて、整髪剤を手に萬狩の髪を手早く整えた。萬狩は短く礼を言うと席を立ち、そのまま支払いを済ませよそうと、後ろポケットに入れていた財布を手に取ったのだが――
「ま、ままま待って下さい! えと、えぇと、そのッ……ピアノ教室のおじさん!」
瞬間、理髪店内が一瞬、ざわりと震えた。萬狩は、胃腸の調子が更に悪くなるような倦怠感を覚え、諦めたように小男を振り返った。
互いに名前を知らないとはいえ、もう少し言葉を探せなかったのだろうか。これではまるで、俺がピアノ教室を経営しているおじさんみたいじゃないか?
「……何か?」
萬狩は心の声を出すまいと努め、眉を顰めつつそう言葉を返した。すると、小男は何を思ったのか、椅子から半ば身を乗り出す勢いで「後で少し、お時間を頂けませんかッ」と叫んで、ガバリと頭を下げてきた。
羞恥に襲われようがこのチャンスを逃せないというように、小男の白い頬は、必死さに駆られて赤く染まっていた。びっくりするような声量と、彼の唐突な行動に、店内にいた客と、特に中年の女性スタッフが何かよからぬ勘違いをしたように目を見開いた。
台詞だけ聞くと、まるで初めてナンパする男のそれのようじゃないか。
相手は五十代の俺なので、絶対にそういう場面ではないとは理解できるが、と口の中で呟きつつ、萬狩は片手で顔を覆った。
逃げるには一足遅かったという事実と、ここへきて自分に悪運が巡ってきているような可笑しな縁を覚えて、萬狩は諦めたように深い溜息を吐きながら「分かったから」と答え、「だから、頼むから頭を上げてくれ」と項垂れたのだった。