四章 想いの名は口にせずに(2)~マイペース二乗の人災~
八月の下旬、夏バテは老犬ばかりかと思っていた萬狩だったが、彼もまた体調を崩してしまった。
当初は夏バテであるとは気付けなかった。気温が三十二度を超えた炎天下で、時間を忘れて庭の雑草を抜いてしまっていた事もあり、その暑さに参ってから食欲が出ていなかったので、恐らくは日射病だろうと萬狩は推測していた。
作業を行ったのは水曜日の事だったが、それから五日経っても彼の食欲は戻らなかった。熱はないのに鈍い頭痛は消えてくれず、まるで二日酔いのようだと彼は忌々しく思いながら、水分と栄養摂取を心掛けた。
そうしている間に、シェリーの方の夏バテは少し落ち着いたようで、二、三日に一回だけ、夜中に萬狩を起こす程度に減ってくれていた。彼は夜空の観賞を気に入っていたので、それに付き合いつつ煙草を吸った。
普段なら日の出よりも早く起床するはずの萬狩は、月曜日の朝、吐き気に悩まされながら遅い時間に目が覚めた。
カーテンの向こうは、すっかり明るくなってしまっていた。胃のむかつきに顔を顰めつつリビングに向かうと、シェリーは、花壇が見える窓辺側でくつろいでいた。
「なんだ、お前。起こしてくれてもよかったじゃないか」
急ぎの用事があるわけでもないが、時間を損してしまった気分だ。萬狩は、気温が少しだけ落ち着いている、僅かに潮の香りを含む沖縄の朝の空気が一番気に入っていた。
朝一番のご飯もねだりに来なかったシェリーは、小首を傾げ、それから欠伸を一つもらした。起こしてくれたのか、起こしてくれなかったのか分からない態度だ。萬狩はこの老犬が、深夜にもご飯を食べているせいで、朝一番に腹が減っていない可能性について考えた。
つまり食事に関わらない場合は、目覚めの共としては頼れない犬――、なのかもしれない。
「……まぁいいさ、睡眠をたっぷりとれて、俺の身体の疲労も取れた事だろうよ」
萬狩は一人そう言い、冷蔵庫から冷水を取り出して口に含んだ。
しかし、睡眠をたっぷり取ったはずなのに胃の辺りに覚えるむかつきに変化はなく、自分の症状が軽い日射病から夏バテへと移行している事を、ようやく萬狩は遅れて察し――「くそッ、老いが憎い……」と一人肩を落とした。
本日は月曜日であったので、午前九時には仲村渠がやって来た。
仲村渠は萬狩を見るなり「若干痩せましたかな」と首を傾げ、手土産だといって、スポーツ飲料水とカロリーメイトを手渡した。
「なんだ、これは?」
「仲西君から、『木曜日の萬狩さんが夏バテっぽい』と阿呆みたいな文章でメールが――おっほん――報告が来ていましたので差し入れです。私の周りも夏バテが流行っているから分かりますが、栄養を取らないと、気分の悪さは長引きますからね」
それはどうも、と萬狩は短く礼を述べた。
仲村渠獣医は、いつものようにシェリーの診察を行った。目を覗き込み、歯茎の色を調べ、首周りと足腰を丁寧に触診し「ふむ」と肯く。
「体調は良さそうですな。毎年夏は大変でしたが、クッキーが効いているのでしょう」
「夏バテが始まってからは、クッキーの数も少しは減っている。最近の夜中の目覚めも、二、三日置きぐらいだ」
「そうですか。なんにせよ、クッキー効果はあると思いますよ。まぁ今年の夏は比較的落ち着いている方ですし、九月の中盤からはもう少し過ごしやすくもなるでしょう」
つまり、それまでは頑張れという事だろう。萬狩は察して「そうか」とだけ答えた。
萬狩は老犬の件よりも、仲村渠と自分が感じている季節感の温度認識について、少なからず衝撃を受けていた。仲村渠老人は、これを落ち着いた暑さだと表現したが、車を運転しているだけで両腕が日焼けする強烈な日光は、他県の人間にとっては並大抵のものではない。
仲村渠獣医は、常備している水筒を食卓に置くと、熱いお茶を飲み始めた。萬狩は、その様子を眺めながら電話機のそばにもたれかかり、もらったスポーツドリンクを口にした。
シェリーがのそりと起き上がり、萬狩の足元に座った。くいと顔を上げ、彼を見上げる。
「なんだ。クッキーでも欲しいのか」
尋ねれば、笑うような顔で「ふわん」と返事があった。それを見ていた仲村渠が「すっかり餌付けられてますなぁ」と呑気に笑った。
ポケットに入れていたクッキーを一枚あげたところで、玄関のチャイムが鳴った。続けて「おはようございまーすッ」「僕ですよ、今日も元気いっぱいの仲西です!」と、余計な情報を含んだ挨拶があった。
仲村渠が首を回して「仲西君ですか」と言いながら、萬狩へ目を向けた。
「相変わらず、元気な子ですねぇ」
「段々と俺への礼儀を欠いているだけだろう」
萬狩は、あんたもだぞ、という思いを込めて仲村渠を睨みつけたが、自由気ままな老人は「礼義は大事ですよねぇ」と知らぬ顔で茶を飲んだ。
数日分の倦怠感を覚えながら、萬狩は廊下を覗き込んで「鍵なら開いてるぞ」と声を張り上げた。ほどなくやって来た仲西は、持っていた荷物の中からレジ袋を取り出し「お粥のパックを買ってきましたよ」と言った。
「これ、皿に移し入れてレンジでチンすればオーケーなお粥です!」
「『レンジでチン』ってなんだ。レンジで温めればいいんだろ」
萬狩は、顔を顰めつつもレジ袋を受け取った。粥の必要はないと木曜日に強く言い聞かせていたつもりだったが、体力が低下している今となっては、若干の有り難みすら覚えるのだから不思議だ。
すると、仲村渠が、食卓から首を伸ばして仲西を見やった。
「あらあら、仲西君わざわざ買ってきたの? キッチンでパパッと簡単に作ってしまえばいいじゃない」
「僕が作ると、殺人粥っぽくなるらしいんですよ。友人から『余計に病気が悪化する』と不評だったので、作らない事にしているんです」
「難儀な特技だねぇ」
それなら今度一緒に作ってみようよ、と仲村渠が言った。男同士で粥を作って何が面白いんだと萬狩は思ったが、どうも胃腸の調子が悪いせいか、そう突っ込む気力も湧いてこなかった。
仲西青年はリビングの床に腰を降ろすと、早速とばかりにシェリーのトリミングに必要な一式を取り出しながら、「萬狩さん」と呼んだ。
「体調はどんな感じですか? 昼食は冷やしソーメンにしようかと思っているんですが」
「お前は俺の息子か何かなのか?」
ここ最近の月曜日と木曜日は、いつもこのような調子だ。萬狩がこの家の主であるというのに、仲西が率先してキッチンに立っている。
萬狩が胃腸の悪さと、現在の立場に苦悩しているそばから、仲村渠が面白がるようにこう言った。
「すっかり仲が良くなって、羨ましいですねぇ。萬狩さんが父親役で、仲西君が息子役だったら、私がお爺ちゃん役でしょうかねぇ」
「想像するだけで、俺の精神の平穏が遠のきそうな構図だな」
「何を言っているのですか、萬狩さん。年寄りに暇は大敵なのですよ」
人生の大先輩が言うのだから確かです、と仲村渠は自信たっぷりに言い切る。そして首を右方向に傾け、老人にしては活力のある茶目っ気の眼差しを萬狩に向けた。
「ところで、ピアノの方はどうですか?」
「この人も結構な頻度で話が飛ぶんだよな……」
その点に関しては、仲西青年と仲村渠老人と同類である。
萬狩は、口の中で苦々しくぼやいた。腹の中で複雑に思いつつも「まぁまぁだ」と答えた際、仲西がシェリーを抱き寄せて「可愛いかわいい」とやっているのが目について、それを見つめながら言葉を続けた。
「……練習している間、以前のように犬が逃げなくなった」
「おや、それは大きな進歩ですな」
「音の調子はなんとかなっているが、曲を奏でるってのは、思っていた以上に難しいものらしい」
自分が不器用な事を忘れていた。鍵盤を叩く位置は何度も間違えるし、楽譜から少し目を離すと頭が真っ白になってしまうのだ。
萬狩は、自分の短くて太い指先に目を落とした。
これは仕事のためだけに生きてきた、頑固者の手だとは知っていた。仲村渠老人の指も、仲西青年の手も、長くて繊細で、だからこそ躊躇なく老犬を愛して、優しく大事に接してやれるのだろう。
「――歳のせいか力加減も分からないし物忘れもひどいから、指先で音を覚える事がすごく難しい」
「ははは。私が孫のリコーダーの練習に付き合った時も、そうでしたよ。慣れるには、それなりに時間がかかるものです」
「それで、あなたはリコーダーが吹けるようになったのか?」
なんとなしに尋ねてみると、仲村渠老人は少し肩をすくめて「一時はスムーズでしたよ」と白状した。触らなくなったら、すっかり忘れてしまったのだという。
「うちの嫁さんは、今でも孫に付き合ってリコーダーをやりますが。つまり、続けることが大事なんです。その時は、ゆとりを持って気分転換するのも忘れずに」
気分転換といえば、と言って仲村渠がニッコリと微笑んだ。
唐突に話題が変わる人だと最近身に沁みて分かっていた萬狩は、その笑顔が、ピアノの一件や、突然海を散歩したいと主張し出した仲西と似ている気がして、嫌な予感を覚えて思わず身構えた。
「せっかく広い庭があるのですから、バーベキューなんてどうでしょう。水遊びより、きっと、もっと楽しいはずですよ」
「俺は、ここには知り合いもいないし――」
「ここに二人の友人がいるではありませんか」
仲村渠は、自信たっぷりに胸を張ってそう言い切った。対する萬狩は顔を引き攣らせたのだが、礼儀良く座っているシェリーを抱きしめていた仲西が「バーベキューですか?」と、食の話題に反応して振り返った。
「それはいいですね。僕は安月給なので、是非とも肉の御相伴にあやかりたいです!」
「お前、そんな難しい言葉を使うような男だったか?」
萬狩は苦々しい表情を隠しもせず、若さ溢れる青年を横目に睨みつけた。しかし、仲西はそれを何と受け取ったのか、変わらず瞳を輝かせていた。
「大丈夫、野菜なら任せて下さい! ファーマーズで安く大量に買えるんで。あ、花火はどうしましょうか?」
「既に決行する気満々で話を進めるのは止めてくれないか。というより花火ってなんだ。遅くまで居座る気か?」
「仲西君、私の家の倉庫に新品のバケツがあるから、遠慮せず花火を買ってらっしゃい」
何時頃がいいかな、と仲村渠が顎に手を置いて考え始めた。彼は自分の都合を目算しているのか、キッチン側に近い壁にかかっているカレンダーへと目を向け、「ふうむ」と首を捻る。仲西がシェリーの顔を両手で自身の方へと向け、「楽しみだねぇ」と笑った。
誰も家主の意見など聞いていないわけで、つまり、バーベキューは決定事項なのだろう。そう察した萬狩は、一度だけ天井を仰ぎ、それから諦めたように肩を落として踵を返した。
「……ピアノの練習に行ってくる」
萬狩は、電話機の置いてある棚に前もって用意していた鞄を、力なく手に取った。背中の向こうから、それぞれ音程の違う呑気な二つの声が「「いってらっしゃーい」」と告げるのを聞いて、余計に頭が痛くなってきた。
ここは、独り暮らしの俺の家のはずなんだが。
最近は、これが日常茶飯事であるという嫌な慣れまで覚え始めている。なんだかなぁ、という喉元までせり上がってきた台詞を押し留め、萬狩は、深い溜息を吐いて家を出た。