四章 想いの名は口にせずに(1)~仲西と犬~
仲西青年は仕事先の上司に早速申告したようで、先日共に昼食を過ごした際に宣言した通り、月曜日だけでなく、木曜日も萬狩宅を訪問するようになった。それは現在の家主である萬狩が、ピアノ教室に通う曜日であるのだが――
結局のところそれは言い訳で、シェリーと遊んで過ごしたいからだろう、と萬狩自身は踏んでいた。
獣医の仲村渠は変わらず、月曜日の午前中にシェリーの診察にやってくるが、最近は、その後に茶を飲んでゆくようになった。早い時間の仕事が待っている場合には、仲西が訪問する頃に「よいしょ」と席を立ち、「じゃあ後はよろしく」と若い弟子に言い聞かせるように去っていったりする。
仲西青年は、以前までは午前訪問だったり、午後訪問だったりと時間帯が割りと不定期だったのだが、最近は午前中には必ず来て、午後までゆっくりしていくようになった。
わざわざ食材や調味料まで買ってきて、仲西は「男の料理ですよ」と自慢げに自前の緑エプロンを身に着け、簡単な自炊なら出来ますからと言って、昼食にミートソースのスパゲティや目玉焼き定食を作ったりする。
そのせいなのか、萬狩は最近になって、互いの味付けの常識に食い違いが多い事に気付かされた。
例えば目玉焼きの場合だと、萬狩は醤油、仲西はケチャップだ。缶のポークを焼いてつけているのだから、ケチャップが普通でしょうと仲西青年は自信たっぷりに主張するが、ポーク缶は沖縄特有のものであって、他県には売られていない商品であるので、萬狩はどちらとも言えず話術に負けて悔しい思いもした。
仲西青年は、どうやら萬狩との味の違いを楽しんでいる節もあるようだった。彼が昼食を用意する時は、テーブルに様々な種類のソースが並んだ。萬狩がどれを手に取るのか、わくわくしている様子が毎回露骨に見て取れるのだ。
萬狩は最近を振り返り、欠伸を噛みしめた。
あいつはソースという楽しみのために、わざわざ昼食を作るぐらいに暇なんだろうな。そう思いながら、やはり堪え切れずもう一度欠伸をこぼしてしまい、二杯目となる朝の珈琲を口にした。
「シェリーちゃん、すっかり夏バテですねぇ」
仲西青年がそう言ったので、萬狩は「そのようだな」と答えた。
「小まめに水分と食事はあげるようにしている。おかげで事は体重に変化もないと、獣医も言っていた」
「うーん、仲村渠さんも大丈夫そうだとは言っていたんですけど、夏バテが続いているらしいし、午前と午後にもマッサージを入れているんですけど、まだ体調が良くならないみたいで、僕としては心配です」
「そうか」
萬狩は新聞を読み進めながら相槌を打ち、ちらりと窓側へ目を向けた。朝の日差しだというのに痛みを覚えるぐらいに眩しく思えて、思わず目を細め、疲労感を覚える目頭を揉み解した。
最近、シェリーは夜中に目を覚ます事が続いており、昨日も結局、萬狩は深夜三時まで起きていたのだ。床に横になっているシェリーも、夏バテというよりは、睡眠不足の顔で半ば眠りに落ちていた。
就寝は午前の三時を回った後だと言うのに、それでも共に早朝五時に目が覚めてしまうのは、互いの老いと、身に染みついた生活習慣のせいだろう。それを知らないから、仲西青年は全てが夏バテのせいだと誤解しているところもある。
そう考えた萬狩は、まぁ仕方がないかと思い直した。若い彼には、どんなに遅く寝ても太陽よりも先に目が覚めちまうんだぜ、という萬狩の年代の苦々しい気持ちは、話し聞かせてもきっと共感出来ないに違いない。
「――それはいいんだが。お前が、当然のように早朝にいるのは何故だ?」
今日は、八月の第二週目の木曜日だ。獣医の訪問はなく、仲西青年だけが『萬狩がピアノ教室に行っている間の留守番役』として来ている。
この日、仲西青年が萬狩宅にやって来たのは、朝の六時半だった。萬狩が朝一杯目の珈琲を飲んでいたところ、来訪を告げるチャイムが鳴り、こんな時間に誰だろうかと重い腰を上げて玄関を開けてみると、そこには早朝を感じさせない溌剌とした仲西が立っていて、元気な笑顔で「おはようございます!」と告げてきたのだ。
当の仲西青年は、シェリーの身体を揉みほぐしながら朝一番のニュース番組を眺めており、萬狩の質問に「へぁ?」と間の抜けた声を上げた。
「萬狩さん、とっくに起きていたんじゃないんですか?」
「まぁ起きていたが、しかしだな――」
言い掛けた萬狩は、やはり説得を諦めた。
仲西青年特有の、斜め上のマイペースさに慣れつつある自分が少し嫌だなぁと思いながら、すっかり冷めた珈琲を飲み干した。すると、仲西が不思議そうに問い掛けてきた。
「暑いのに熱い珈琲って、美味しいですかね?」
息子達が幼い頃にしてきた質問だな、と考えながら、萬狩は「ふん」と鼻を鳴らした。
「大人になれば分かるさ」
「僕、じゅうぶん大人なんですけど……」
仲西は余程犬が好きなのか、萬狩が仕方なくリビングにノートパソコンを持って来て、朝のメールチェックをしている間も、ずっとシェリーの相手をしていた。寝ている彼女に寄り添うように横になり、「冷房が効いていて涼しいねぇ」「柔らかい毛だなぁ」「可愛いッ」と飽きずに声を掛け、撫で、抱きしめたりを繰り返している。
この現場を彼の上司が知ったのなら、サボりだとハッキリ言われるのではないだろうか。
そんな事を考えた時、ふと、仲村渠が話していた「彼の犬を診た事がきっかけで」という交流の始まりを思い出した。仲西は幼い頃に父親を亡くし、母親とは折り合いが悪かったらしいが、犬に関わる出来事とは、一体なんだったのだろうか。
以前は関与しないようにと思っていたが、萬狩は息抜きのようにパソコンから目を離すと、「なぁ」と彼に声をかけた。
「お前は、犬を飼った事があるか」
そう尋ねると、仲西が横になったまま、きょとんとした顔を向けてきた。質問の意味が分かっていないのか、分かっていて巧妙に冷静を装って考えているのか――
それは違和感とも気付かせないほどの自然な沈黙だったが、萬狩は、なんとなく自分から話さなければならないような気がして、パソコン画面に視線を戻して「俺は」と口を開いた。
「親と同居している時代にはペットを飼った事がなかった。結婚して、二人の息子が出来た後に友人から『一週間預かって欲しい』と頼まれて、一番上の息子が面倒を見ていた事がある程度だ。長男は当時六歳で、リードを持つ権利を絶対に譲らなくてな。妻が不安がるんで、俺が散歩についていったんだ」
話しながら、萬狩は「ああ、そうだった」と、当時の様子を鮮明に思い出した。
長男が、反抗期のように自分の意見を強く主張したのは、あれが最初で最後だった。幼かったにも関わらず、長男は我が儘も口にしない子だったから、犬が欲しいとは決して口にはしなかったが。
多分、欲しかったのだろうと、今となってはそう思えた。
幼い我が子と違い、萬狩は生き物が必ず死ぬ事を知っている。萬狩は、生き物の面倒をみたいと感じた事もなかったから、育てる責任能力と覚悟がなければダメなのだという事も含めて、その考え方を子供達にも押しつけていたのかもしれない。
我慢強い長男は、幼いながらに一生懸命自分を納得させて諦めたからこそ、たった一週間のチャンスを手放したくなかったのだろう。友人から犬を預かってくれないかと頼まれた時、息子は「しっかり面倒を見るから預ると言って」と萬狩に初めて、必死な顔で『お願い』してきたのだ。
あの犬の名前は、なんと言っただろうか。
確か毛色は茶色で、耳がやや長い中型犬であり、全く吠えない躾の行き届いていた賢い犬だった。狩猟犬の種類だといって自慢していたその友人は、その後に家族と、その犬と共にアメリカに渡っていったのだ。
「息子は、散歩ぐらい一人で出来ると言ってきかなかった。賢い犬だったし、俺は大丈夫だと思っていたんだが、妻が駄目だというものだから、散歩をさせる息子に渋々付き合う事になったんだ。あいつは嫌がっていたはずなのに、何度も後ろを振り返っては、まるで安堵するみたいな顔ではにかんでいたっけな」
思い返せば、やはり言葉数の少ない父と子だったと思う。萬狩は、小さかった我が子が、背筋を伸ばして犬を散歩する様子を、少しだけ離れた場所から眺めていた時間を思い起こした。
定時に会社を上がった後、一度家でスーツの上着とネクタイを外し、明るい夏の夕刻の空の下重い足を進めていた。面倒であるその散歩が一週間ずっと続けられたという事実は、自分にとって珍しい事のような気がして、萬狩は今更ながら首を捻った。
あの時考えていたのは、なんだっただろうか。
この散歩という付き合いを、あと六回もしなければならないのかと、そんな事を考えていたような気もするが。
一人で出来ると言い張っていた長男は、翌日も夕刻までには宿題を済ませて、しっかり身支度を整え、行儀よく萬狩の帰りを待っていた。犬のトイレを掃除し、ご飯を用意して風呂も入れ、名前を呼んで「お手」や「お座り」もやっていた。
そこまで考えた時、萬狩は喉元に引っ掛かっていた一つの疑問の答えに見付けた。先日に庭先で仲西青年が「お帰りなさい」と笑った顔が、彼らに重なった理由にようやく思い至った。
長男は一回目の散歩の翌日、犬と共に、玄関先で父親である萬狩を待っていたのだ。萬狩が姿を見せると、黒い瞳に奇跡を詰め込んだような輝きをのせて「お帰りなさい」と言った。だから、萬狩も一周間は残業をしなかった。
面倒だという想いよりも、父親としては、同時にくすぐったいぐらいに嬉しかったのだと、萬狩は遅れて気付かされた。
なんだ。考えてみれば簡単な答えじゃないか、と萬狩は静かに自分を笑った。そうか、俺は嬉しかったから仕事を無理やり定時で切り上げて、らしくもなく重い身体を引きずりながらも、息子の散歩に付き合ったのか。
「多分、息子さんは、一緒に散歩が出来て嬉しかったんだと思いますよ」
不意に、仲西青年がそう言った。
萬狩が思考を中断して彼を見ると、仲西は「僕の想像にすぎないんですけどね」と遠慮がちに笑みを浮かべ、迷うように視線を巡らせた後、記憶を手繰り寄せるようにゆっくりと語り出した。
「僕は、小学三年生の頃に、怪我をした犬と出会いました。家はアパートだったし、とても飼える環境じゃなかったから無人の小屋に隠して、少しだけ世話をした事があるんです」
彼は、穏やかな声色でそう語り始めた。仲西の隣で丸くなっていたシェリーは、聞き耳を立てているようではあったが顔は上げなかった。
「飼った経験と言えるような、ちゃんとしたものではありませんでした。あの頃の僕は、ただの無知な子供だったんです。こっそり給食の残りをあげて、少しの間だけ遊んで、それで何も問題はないんだと、そう思い込んで『無人の小屋で犬を飼って』いたんですよ」
簡単に考えていたんです、本当に無知で愚かで……そう仲西は落ち着いた口調で呟くように話したが、その瞳は僅かに揺れていた。
後悔しているんです、今でも忘れられない。悔やんでも悔やみきれなくて、だから、僕は勉強したのだと――どこか大人びた眼差しで、仲西は囁くような声量で言葉を続けた。
「野犬が出るだとか、狂犬病があって犬にもちゃんと予防接種が必要だとか、そういった知識がまるでなかったんです。ある日、いつものように秘密基地の小屋に行くと、あの子が傷だらけで横たわっていました」
懐いてくれていた犬だったが、ある程度の成犬で中型サイズだったため、幼い仲西は、その犬が逃げてしまわないようにと紐で繋いでいた事を語った。そのせいで、侵入して来た野犬に集中攻撃を受けて、その犬はひどい怪我を負ってしまったのだという。
想像するにも痛々しい内容だったが、それは実際に起こってしまった事実なのだ。萬狩は、「そうか」と呟く事しか出来なかった。ようやく口に出来るまでになった己のトラウマを、仲西は力なく微笑んで口にする。
「現場は悲惨でした。恐らく、子供が見たらトラウマになってしまうほどの惨状で、――あの子は既に虫の息でした。僕は後悔して、重いあの子を担いで、無我夢中で近くの動物病院に連れて行ったんです」
少年だった仲西は、その時に、小さな動物病院を経営していた当時の仲村渠院長と出会った。仲村渠は、その犬を見るなり顔を顰めたという。残念そうに首を振り、残酷な事実ではあるが、恐らく助からない事を包み隠す事なく彼に告げた。
傷の様子を見る限り、怪我をして半日は経過している状態だったらしい。襲われたのは深夜から明朝にかけてで、仲西少年が学校を終えて駆け付けた時には、既に体毛にこびりついていた血も固まり、ほとんどが化膿してしまっている状況だった。
「今思えば、息をしているのが不思議なくらいでした。仲村渠さんは、浅はかな事をした僕を少しだけ叱って、けれど、お金もないのに出来る限りの治療を行ってくれました。母親はどうせ深夜まで帰ってこないから、僕も付きっきりで看病して、でも結局は……もたなかったんです」
仲西青年は、そこで深呼吸をした。涙を堪えているのが分かって、萬狩は黙っていた。
ふう、と息を吐き、仲西は先を続けた。
「もう応える事は出来なくとも、声は最後まで聞こえているからと仲村渠さんは言いました。短い間だけど、しっかり愛してくれたから、あの子は僕と会うまではと最期まで生にしがみ付いていてくれているのだと、彼は、そんな事を言うんです」
仲西少年は、その言葉に余計泣いた。けれど泣きながらも、既に視力も失われてしまった犬に「好きよ」と声を掛け、「そばにいるから」と身体を撫で続けた。声だけは気丈に振る舞って「大丈夫だよ」「怖くないよ」と、彼は死の淵で苦しむ犬を励まし続けた。
その犬の最期は、驚くほど穏やかだったという。乱れていた呼吸もいつしか穏やかになり、仲西少年との短い暖かな時間を過ごした後、その犬は眠るように息を引き取った。
「ずっと、犬が飼いたかった。父さんが亡くなる前から、憧れていたんです。今でも犬が大好きなんですけど、今は一人暮らしだから寂しい思いをさせてしまうし、狭い部屋では可哀そうでしょう?」
「そうだな」
「世話を頼まれている動物に構い過ぎると、情が湧いちゃうからやめなって先輩達は言うけれど、だって、しょうがないじゃないですか。相手は生きているし、信頼されれば僕達はそれに応えて、自然と愛してしまうんですから」
萬狩はもう一度「そうだな」と相槌を打った。それ以外の言葉が出て来なかった。子供だと思っていた仲西青年が、しっかりとした考えを持って生きていると知って、当たり障りのない容易なアドバイスは口に出来なかった。
触れあえば情が湧く。名前を呼べば、愛着が出る。
過ごす時間の分だけ思い出も増えて、いつか訪れる別れは、より辛いものになる。それを受け入れるには飼う側にも覚悟が必要で、人よりも脆弱で短命だからこそ儚く、まさに、そこに覚える感情に名前をつけるとしたならば――
ああ、俺はとっくに、もう手遅れなのだろう。
萬狩は考えて、パソコンに向き直る素振りで数秒ほど目を閉じた。瞼の裏の暗闇が、まるで彼が想像する先行きの読めない未来のように広がっていた。