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三章 その光景と音と、目に沁みる満天(2)

 紹介された個人経営の小さなピアノ教室は、国道から入った畑道を抜けたところにある古い住宅街の一角にあった。比較的新しいコンクリート造りの建物の一階に入っており、教室内部は白いノリノウムが敷かれ、そこには五台の電子ピアノが置かれていた。


 萬狩が訪問したのは、シェリーに昼食をあげて後の事だったが、午後の早い時間、その教室内に他の受講者の姿はなかった。出迎えてくれたのは三十代ほどの細身の女性で、長い髪を後ろで軽くまとめ、清楚なロングスカートを自然と着こなしていた。彼女は愛想の良い笑みが似合っていて、のんびりとした柔かい空気感が、どことなく仲西に似ていた。


 顔を会わせてすぐ、彼女は「内間(うちま)です」と自己紹介してきた。萬狩もぎこちなく笑い返して「萬狩(まがり)です」と答えた。


 まずは説明と受講契約を済ませるため、内間は萬狩を近くのテーブル席に座らせた。彼女は、教室のシステムや受講の流れを簡単に説明すると、教室内を見るよう萬狩を促した。


 入室時には気付かなかったが、各電子ピアノのうえにはヘッドホンが置かれていた。内間によると、一人で練習する際にはこれを電子ピアノに繋げて練習してもらっているらしく、萬狩は、他の人に音を聞かれる心配がないと察して安堵した。


「――つまり、一通り教えてもらったら、あとは自主練習ということですか?」

「希望があれば、引き続き個人指導も行っておりますので、ご安心下さい。私はいつでもおりますから、自主練習で分からないところや質問があれば、すぐに対応させて頂きます」


 先日電話で確認を取った際に、一曲だけ習う事も可能らしいと聞いていたので、萬狩は内間に、週に二回通いの一ヶ月間の受講をしたいと伝えた。契約書にサインをして一月分の受講料を支払った後で、まずは曲選びから始まった。


 どんな楽曲が弾きたいのかと内間に問われ、萬狩は、自宅にグランドピアノがあるので、それを利用出来るような、初心者でも習得しやすいものはないかと相談した。


 すると、内間が少しだけ驚いたように目を見張り、それから「あの、もし間違っていたらごめんなさい」と前置きしてこう続けた。


「もしかして、サチエさんのお宅に新しく住んだ方って、萬狩さんなのですか?」

「えッ、知っているんですか」


 萬狩が思わず尋ね返すと、内間は慌てたように「違うんです」と言った。


「実は、その家に出入りしている仲西君とは知り会いでして、その、『新しい入居者が来た』と最近ちらりとお話を聞いたものですから。それに、サチエさんの事は私の母が知っていましたし、この辺で自宅にグランドピアノを置いているのは、彼女の家だけなんですよ」


 本当に詳しくは知らないのだと、内間は念を押すように控えめに言葉を続けた。入居者の名前といった情報は『仲西君』も言っていませんから、と庇うような事も言った。


 萬狩は、しばらく返す言葉を失っていた。仲村渠(なかんだかり)の知り合いの娘なので、ある程度横繋がりがある事は想定してはいたものの、まさか、ここで仲西青年の名前が出てくるとは思っていなかったのだ。


「……内間さんは、仲西とはよく会うのですか……?」

「同じ地区に住んでいますし、町内会で活動をしていた頃からの幼馴染なので、顔を合わせれば話す仲ではありますね。彼は私の夫の、仕事先の後輩でもあるんですよ。夫に誘われて、家に来る時もありますから」

「…………なるほど」


 内間の情報源は、どうやら仲西だけではないらしい。老犬シェリーの日用品等の購入と搬入契約を行っている会社先の夫からも、『新しい入居者兼飼い主』の性別だったり、一人暮らしという安易な情報については、世間話の中で気軽に伝えられている可能性もある。


 一体どこまで繋がるんだ。海に囲まれた小さな島とはいえ、限られたこの地域に集中し過ぎていやしないか?


 そんな萬狩の困惑を見て取ったのか、内間が可笑しそうに言った。


「住民の少ない部落だから、皆ほとんど顔見知りなんですよ」


 隣近所も皆見知った仲という事なのだろう。そうすると、ピアノ教室に通い始めたという萬狩の話は、仲村渠(なかんだかり)を口止めしたとしても、遅かれ早かれ仲西青年の耳にも入りそうだ。


 仲西青年が瞳を輝かせる様子が容易に想像できて、萬狩は思わず「なんだかなぁ」とぼやいてしまった。



 しばらく内間と相談した萬狩は、比較的ゆったりとした曲で、彼自身も聞き慣れている『エーデルワイス』を練習曲に選んだ。昔、長男が小学校でリコーダーの授業が始まった頃に、自宅で練習していた事を思い出したのだ。


 最近は、どこにいっても昔の事ばかり思い出しているような気がして、そこでも萬狩は、「俺も歳をとったもんだ」と口の中にこぼした。



 まずは楽譜を一緒に読みながら、曲の調子を教えてもらう事から行われた。始めに見本として彼女に弾いてもらったのだが、それがなかなかさまになっていて、萬狩は思わず感心して見入った。


「確かピアノは、弾きながら足で踏むところもあったようだが、あなたはしないのですか?」

「曲の雰囲気がよく出るようにはなりますが、萬狩さんは、これまでピアノを触った事がないとおっしゃっておりましたでしょう? 難しさを感じてしまうと思いましたので、ひとまず鍵盤だけ。――まずは、曲を弾けるように頑張りましょうね」


 そう言われて、萬狩は「確かにそうだな」と思った。きちんとして伴奏とやらを実演されてみたとしても、彼にその真似が出来るとは到底思えないし、返って苦手意識が増して心がくじけそうな気もする。


 萬狩は楽譜が読めなかったから、内間に丁寧に教えてもらい、そこにドレミ書き記してから電子ピアノに触れた。


 両手で曲を奏でるのは、想像していた以上に難しかった。鍵盤にドレミ表示がある訳でもないから、まずは場所を覚えなければならないし、けれど頭と指の動きも追い付けなくて、思う通りに鍵盤が踏めないという苦戦ぶりに萬狩は顔を歪めた。


 思い返せば、今では難なく使っているパソコンも、初めて向きあった時は指一本で打っていた時代があった。それを長い間すっかり忘れていたらしいとも気付かされた萬狩は、結局のところピアノも、指先が鍵盤を押す位置や順番を覚え、慣れるまで練習あるのみなのだろうと悟った。


「何事も練習を続ける事で上達します。頑張りましょう」


 内間がそういって励ました。ピアノや音楽が嫌いになって欲しくないと訴えるように、萬狩が表情険しく楽譜と鍵盤を睨み付けて没頭すると、たびたび休憩を促して「リラックスですよ、萬狩さん」と笑顔とアドバイスで彼の肩の強張りを解した。


 結局、規定の時間内で進められたのは、曲の出だし部分の少しだけだった。


 それでも、萬狩は絶望していなかった。苦戦を強いられたものの、内間が始めに弾いてくれた曲が耳にこびりついており、その冒頭部分だけでも自分で奏でられたという達成感を覚えていた。


「萬狩さんは、月曜日と木曜日の受講ですから、次は来週の月曜日ですね。ご自宅でも練習が出来るように、こちらの楽譜は差し上げますので、次回いらっしゃる際には忘れずご持参下さい」


 萬狩は楽譜をもらった礼を告げた後、他に受講者の姿もなかったから、もう一度内間に『エーデルワイス』を演奏してみせてくれないかと頼んだ。内間は愛想良く「いいですよ」と言ってくれたので、萬狩は数回耳で聞き、楽譜を見ながらリズムを確認し、それからピアノ教室を出た。


 外に出て腕時計を確認したところで、萬狩は、既に老犬シェリーの間食時になっている事に気付いた。


 予定よりも時間を押している事を察して「まずい」と慌てて車に乗り込み、一息つく間もなく、自宅に向けて車を走らせた。


 車の中ではラジオを聞いていたが、脳裏には、内間が奏でてくれた『エーデルワイス』が繰り返し流れていた。信号待ちの間、萬狩はリズムを忘れないよう、指先でハンドルを軽く叩いてもいた。


              ※※※


 帰宅して玄関を開けると、そこには、シェリーが座って彼を待っていた。こんな風に老犬を待たせたのは初めての事で、萬狩は、思わず玄関で立ち止まってしまった。


 シェリーは、穏やかな眼差しで萬狩を見上げていた。帰りを待っていたにしては、萬狩の顔を見ても、特に目新しい反応は見せず動く様子もなかった。


 萬狩がどうしていいか分からず頭をかくと、シェリーの方も、実に不思議だといわんばかりに小首を傾げた。普通ならそこでする事があるんじゃないの、と、彼女の丸い瞳は語っているような気がして、萬狩は「何かあっただろうか」と考えた。


 そこでふと唐突に、萬狩は「ああ、そうか」と気付かされた。もう二ヶ月になるというのにと、少し申し訳ない気持ちで苦笑して、彼はシェリーに声を掛けた。



「ただいま」



 妻と別居してからずっと、萬狩は『ただいま』なんて口にしていなかったし、そんな当たり前の事があったとも忘れていた。まさか、ここへきて犬に気付かされるとは思ってもみなかった。


 慣れないように呟かれた挨拶言葉を聞くと、シェリーが途端に「ふわん」と満足げに吠えて、ようやく立ち上がって踵を返した。萬狩は「そうか、ここが俺の家だったな」とそんな事を思いながら、靴を脱いで老犬の後に続いた。


 シェリーは真っ直ぐリビングへと進むと、自分のご飯皿置き場の前で腰を降ろした。萬狩は「全く、賢い犬だな」と顰め面で呟き、彼女の間食分のご飯を用意してやった。


 彼女が食べている間に、萬狩は、留守にしていた間のトイレシートを交換した。リビングの大窓を開けた時、一分でも早く戻らなければと急いていたせいで、自分が数時間も煙草を吸っていなかった事を思い出した。


 テラス席に腰かけて、煙草を一本取り出して火をつけた。


 ふと、ライターを操作する手に、なんとなく違和感を覚えた。初めて草むしりを長時間行った時のように、手先のほとんどが強張ってしまっていて、どうやらピアノの練習を頑張りすぎたらしいと分かった。


「指も、筋肉痛になったりするのだろうか」


 萬狩は煙草を吹かしながら、自分の右手をぼんやりと眺めた。電子ピアノの鍵盤は驚くほど軽かったが、あのグランドピアノで弾けるようにならないといけないのだ。もし、グランドピアノで練習したのならば、もっとひどい強張りが現れるだろうと推測された。


 誰かに約束をしているわけでもないのに、萬狩は、早く弾けるようにならなければと焦燥に似たものを感じていた。


 多分、気のせいなのだ。萬狩は仕事に熱中した若い日々を振り返して、そう思った。もとより自分は堪え性がなかったし、目標は早々に達成するのが常だった。時間をかければ習得出来るというのは性に合わず、精一杯努力して少しでも早く身につける、という人生を送ってきた。


 脳裏に過ぎった老犬の姿を振り払い、萬狩は、早々に煙草を揉み消した。歩き出してすぐ、後ろにシェリーがついてきた。


「なんだ。クッキーでも欲しいのか」


 最近は、すっかり板についてしまった独り言を口にして、萬狩はポケットに入れ慣れてしまった犬用のクッキーを取り出した。シェリーは彼の掌に置かれたそれを一口で食べ、萬狩は、手についた彼女の涎をズボンで拭った。


 クッキーを食べて満足したにも拘わらず、シェリーは再び歩き出した萬狩の後ろを付いてきた。


 これからグランドピアノの部屋に向かおうと考えていた萬狩は、それを予測されているらしいと勘繰り、なんと利口な犬なのだろうかと苦々しく思って足を止めた。


「おい。先に言っておくが、俺のピアノは全然なってないぞ」

「ふわ」


 振り返りざま、指を向けてハッキリと忠告したのだが、老犬はまるで、ある程度の下手さだったら全然平気よと言わんばかりに、間髪入れず陽気な返事をしてきた。


 萬狩は「ふん」と唇を尖らせた。


「……おい。ふわふわとした声じゃなくて、『ワン』と犬らしく鳴いてみろ」

「ふわん」


 シェリーは上機嫌にもう一度「ふわ」と吠え、萬狩は、犬らしい鳴き声を聞くのを諦めて、グランドピアノのある部屋へと向かった



 萬狩がグランドピアノの前の椅子に腰かけ、楽譜までを整えている間に、シェリーが足元に優雅に腰を落ち着けた。前足を重ねて首を持ち上げている姿は、まるで賢い忠犬のようで、彼は、こういうのも悪くないな、と思いながらピアノに向きあった。



 しかし、それから数分も経たずに、シェリーが大きな欠伸を一つして、尻尾と耳を項垂らせるという露骨な態度で部屋を出ていった。


 萬狩は悔しい思いで頭を抱え、「あのやろう」と呻いたのだった。

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