三章 その光景と音と、目に沁みる満天(1)
日曜日にあった老犬シェリーの外出は、萬狩がここへ住むようになってから初めてという事もあったせいか、翌日の月曜日の定期訪問で、獣医の仲村渠が午前九時前という早い時間にやって来た。
しかし仲村渠老人は、老犬の体調面を気にしているのだろうと思っていた萬狩の推測を裏切るように、何度も「いいなぁ、海の散歩」と羨ましがった。自分の愛犬の如くシェリーを撫で回した後、なぜか食卓に腰かけて、持参してきた熱いお茶を飲み――
あれから長い事、現在も引き続き散歩の話題をしつこく口にしていた。
「シェリーちゃんの体調が良いときは、一緒に散歩に連れていく事もありましたよ。仲西君ったら、前日にメールを寄越すんだもの。あれ、絶対に忘れていたんでしょうねぇ。都合が合わなくて、本当に残念に思いました。シェリーちゃんは利口な子だから、リードを引っ張る事もしないでしょう?」
仲村渠はリビングでお茶を飲み、勝手気ままに話した。シェリーは飽きたように縁側で横になってしまい、時刻もとうに十時を過ぎようとしていた。
「えぇと、ナカンダカリさん? つまり、何が言いたいんだ?」
萬狩は堪え切れず、持参してきた水筒のお茶を仲村渠老人が飲み干したところで、失礼がないよう慎重に問い掛けた。
すると、仲村渠が途端に「察しなさいよ~」と、拗ねた子供のような目で萬狩を見た。
「つまり、私も呼びなさいという事ですよ」
「……仕事があるのでは?」
「あなたも、お仕事はされているでしょう? それと同じ事です。私だって、一週間毎日ずっと忙しい訳ではないのですよ」
「はぁ。散歩の際には、都合の良い日を尋ねて欲しい、というわけか?」
「そういう事です」
仲村渠は、己の主張が伝わった事にようやく満足した様子で「ふぅ」と息を吐いた。
呆気に取られた萬狩は、少し前から気になっていた老人獣医と青年の関係について、ここで尋ねてみる事にした。
「あなた方は仲がいいようだが、以前からの知り合いなのか?」
「彼が小学生の頃、私が犬を診てやった事がきっかけですね。児童会や町内会のイベントによく呼んで、――ああ、ビーチパーティーで海に放り投げてやったのは、楽しかったですねぇ。まぁそのようにして何かと付き合いが続きまして、しばらく那覇の学校にいっていたと思ったら、いつの間にか立派な大人になって戻ってきまして」
「…………なるほど。それで今に至るというわけか」
萬狩は、仲村渠老人が喜々として少年を海に放り投げる想像が止まらないでいたが、そこについては深く考えない努力をした。
妙な人達だ。本当に、なんというか、変な人達だと思う。
シェリーが顔を上げて、大きな欠伸を一つした。仲村渠がそれを見て、「いい感じに疲れたのでしょう」と柔和に笑った。
「恐らく、二、三日は大人しいと思います。昨日の疲労が残っているために、朝の食事量も少なかったようですが、一度に食べられないのなら小まめに分けてあげれば大丈夫です」
最後は獣医らしい事を言うので、萬狩は、そのアドバイスに対しては素直に「それはどうも、ありがとう」とぎこちなく会釈を返した。固定電話機の横に立てられている時計へ、ちらりと目を走らせれば、時刻は午前の十時を過ぎていた。
この老人獣医は、一体いつになったら帰ってくれるのだろうか。仲西青年は昨日の別れ際に、「朝は別件があって、ちょっと遅れますッ」と言っていたが、彼の方に関しても、萬狩は何時に来るのか分からないでいる。
なんとも自由な感じの人達だと思う。業者というよりは、知り合いの家にお邪魔している空気感が、日に日に強くなっているのは気のせいだろうか。
萬狩がそんな事を考えていると、仲村渠老人が「そういえば」と思い出したように掌に拳を落とした。
「あなたは、ピアノはお弾きにならない?」
「ピアノ? いや、弾いた事もないが……」
萬狩は契約の際、老犬が健在の間は移動も廃棄も出来ない、例のグランドピアノを思い起こした。
音楽や楽器関係の知識はないので、正確な価値については分からないが、グランドピアノが安くないだろうとは理解している。だから小まめに清掃はしており、埃は被っていなかった。
この老人獣医は、以前の家主を知っている事もあり、もしかしたらピアノも弾ける人間なのかもしれない。客人に見せても見苦しくない状態であるので、萬狩は社交辞令で誘ってみたが、仲村渠がすぐに首を横に振って「私もダメなの」と言った。
「サチエさんが他界する直前まで、調律師が来てきちんと管理されていたピアノですし、勿体ないなぁと思いまして。私、そもそも楽譜が読めない人間なんだけど、萬狩さんはドレミも無理?」
「はぁ。ドレミぐらいなら……」
「ギターや三線、リコーダーやオカリナに興味は?」
考えた事もなかったので、萬狩は、首を左右に振って見せた。すると、老人獣医が白衣の襟を整え、にっこりと微笑んだ。
「時間がおありなら、ピアノをちょっとやってみてごらんなさい。実を言うとね、私の友人の娘さんに、ピアノ教室をやっている子がいるのですけれど」
「なんだ、受講者を増やすよう頼まれた口か」
そんな事か、と萬狩が察して肩の力を抜くと、仲村渠が「バレましたか」と悪びれる様子もなく笑った。
「大人向けの、小さなピアノ教室なんですよ。お子さんに教えたいからと通う父親もいれば、なんとなく弾いてみたいと通う人もいるらしいのです。週に二回のセットであれば、受講料金は一ヶ月分が三千円ほどですし、体験がてら少し通ってみてもいいと思うのですけれどねぇ」
「……まぁ、検討はしておこう」
「まずは話を聞いてみるのもいいかもしれませんよ。今度、名刺をもらっておきますから」
仲村渠はそう言い、ようやく席を立った。時刻は、午前十時十七分になっていた。
シェリーはいつものように、客人が帰るのを萬狩と共に玄関先で見送った。動物病院名のプリントがされた白い軽自動車が斜面を下って見えなくなり、萬狩が中に戻ろうとした時、珍しく彼の先へ回り込んで立ち塞がった。
「ん? なんだ」
すっかり癖になった独り言を呟けば、シェリーが踵を返した。少しだけ歩くと、また立ち止まって、もう一度萬狩を振り返り「ふわ」と鳴く。
「ついて来いって事か? すっかり慣れた家の中で、迷子にはならないさ」
リビングへ入ろうとすると、シェリーがもう一度「ふわん」と今度は強めに吠えた。萬狩は不思議に思いながら、導かれるように、彼女の揺れる尾を眺めながら後を追った。
辿り着いた先は、グランドピアノのある部屋だった。萬狩は「賢い犬め」と恨めしそうにシェリーを見下ろした。
「お前、俺と獣医の話を理解しているって感じだな。――まぁ、そんな事はいいんだ。さっきも言った通り、俺はピアノなんて弾けないぞ」
萬狩が話し聞かせている間にも、シェリーは、グランドピアノのそばに腰を降ろしてしまった。
「……どうしたものかな」
思わず呟き、萬狩は頭をかいた。この犬は人間の言葉を理解しているらしいが、それはそれで少しだけ厄介な才能だとも思う。グランドピアノは定期的に埃を拭き払ってはいるが、犬のためにピアノを弾くなんて発想はない。
仲西青年がいつ到着するのかは分からないが、会社から届いているメールの確認もこれからだったので、萬狩は、ひとまず仕事を先に済ませようと考えて、早々にその部屋を後にした。すると、後ろからシェリーがついてきた。
書斎室に戻ってすぐ、シェリーが、腰掛けたばかりの萬狩のズボンの裾を軽く口でつまんで、弱々しく引っ張った。
「何が言いたいんだ。俺は、お前に同情なんてしてやれないぞ」
断言した萬狩は、苛々しながら席を立ち、本棚から一冊の文庫本を取って、真っ直ぐグランドピアノのある部屋へ向かった。
黒塗りのピアノ用の椅子にどかりと腰を降ろせば、シェリーが隣に伏せて、ようやく落ち着いたように目を閉じて静かになった。なんだって言うんだ、全く、と萬狩は苛立ちつつも、犬が完全に熟睡するまでだと自分に言い聞かせて、文庫本を開いた。
数分ほどそうしていたのだが、椅子の高さが合わなかったので調節していた。ページをしばらく読み進めたところで、しっくりくる高さにあるピアノがどうも気になって、萬狩はしおりも挟まずに本を閉じた。
文庫本をピアノの上に置くと、鍵盤の上にある重々しい蓋を開けてみた。そこには予想通りのような形で白と黒の鍵盤が並んでおり、そのうちの一つをゆっくり押してみると、予想以上に大きな音が出て驚いた。
しまった、と思いながらギクリとして足元に目を向けると、寝ていたはずのシェリーが、ピンと耳を立てて顔を上げていた。彼女は非難するわけでもなく、静かな眼差しで、じっと彼の目を見つめてきた。
「……俺は、ドレミしか分からん」
思わず愚痴るように告げると、彼女が「ふわん」と、どちらともとれない声で鳴いた。萬狩は「勝手にすればいいさ」と投げやりに手を振って、今度は別の鍵盤を押してみた。
ピアノの鍵盤は、想像していた以上に指に重く感じた。これを流れるように素早く叩いているピアニストは、どれほど凄いのかと考えてしまう。
そういえば次男が中学生の頃、校内合唱コンクールでピアノの伴奏をしていた事を、萬狩は唐突に思い出した。
今思えば、なんでも出来る息子たちだったと思う。どちらも特に手も掛からず育ち、長男は経済学を学び、次男は法律を学んで巣立っていった。けれど、もしかしたら、それは萬狩が知らないだけで、妻は彼らの教育に苦労した事もあるのかもしれない。
離婚を突き付けられたあの日、相変わらず隙なく着飾った妻は若々しく、刺々しいほどの気品をまとっていた。とはいえ、昔は可愛らしさも少ながらずあったような気がするが、子供を産んでからは、顔付きも変わったような気がする。
「そういえば、あいつはピアノが出来たな」
彼と妻が出会ったのは、会社の事務所が大きい場所へと移ったすぐ後だった。パート・タイムを希望していた彼女は、いつか化粧会社を持つために勉強をしているのだと面接時に明かし、専門学校の夜間部にも籍を置いて、複数の通信教育も受けていた時期だった。
飛び抜けて美しいというわけでもなかったが、小奇麗にしていた事もあり、どうしてか萬狩の目を惹いた。指の動きがどことなくキレイで、二人になった機会に尋ねた時、大学当時までは茶道や舞踊、ピアノや合唱と幅広くやっていたのだと知った。
もしかしたら次男の方は、彼女にピアノを指導してもらったのかもしれない。萬狩が知らないところで、萬狩のいない時に、なんらかのやりとりが行われていたのだろう。
――合唱の発表会があるんだ。僕がピアノを伴奏する事になって……。母さんは来られるっていうけど、父さんは、忙しいなら無理にとは言わないよ。疲れているのなら、僕は父さんには、家でゆっくりしていて欲しいとも思うんだ。
次男は萬狩と話す時、落ち着かないように指先を遊ばせている事が多かった。
子供なのに遠慮したような話しぶりであったなと、萬狩は今更になって気付かされた。次男は礼儀正しさと思慮深さもあって、中学生に上がった頃からは、敬語が板についていた。
「ああ、俺は最近、余計に考えては――過ぎ去った事ばかり思い出しているな」
萬狩は、思わず天井を仰いだ。ここでは、自分に許された時間がありすぎるのだ。過ぎた日々はどうにもならないと知っているのに、萬狩は、らしくもなく思い出して考えてもいる。
良くも悪くも、ここは、とても静かで心地が良い。
暇すぎる事がいけないのだと思い立った萬狩は、仲村渠に連絡を取るため立ち上がった。その拍子に、シェリーの不思議そうな視線が自分に向けられるのを感じ、むっつりと見つめ返した。
「いいか。俺は別に、お前のためにピアノを触ってやるわけじゃないからな。時間があり余り過ぎているだけなんだ」
萬狩は「ふんっ」と顔をそむけ、肩を怒らせて歩き出した。
今度は、シェリーはついて来なかった。部屋を出る際にちらりと確認すると、そこには眠たげな欠伸を一つして顔を伏せる老犬の姿があって、萬狩は「賢い犬め」と苦々しく呟いた。