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二章 萬狩と老犬(4)~老犬と青年と歩く海辺~下

 足を踏み入れた砂浜は、予想していたよりも柔らかかった。ビーチなんて十年は行っていなかったせいか、それともリゾート地のそれがあまりにも白く細かい物であったせいか、萬狩は内心では驚いていた。


 歩くたびに靴底が砂に埋まり、「歩きづらいなッ」と悪戦苦闘する萬狩の少し前を、老犬シェリーが、老いを感じさせない軽い足取りで進んだ。


「お前、そんなに優雅に歩けたのか」


 萬狩が愚痴交じりに言葉をこぼすと、シェリーは、振り返りもせずに「ふわん」と、普段より高い声で誇らしげに鳴いた。


 靴は数分後には砂まみれになってしまい、萬狩は砂に足を取られて転倒してしまわないよう、それを睨みつけるように歩いていた。シェリーに波打ち際まで誘導されている事に気付かず、水分を含んだ砂を見て「まさか」と声を上げた時には、タイミング良く彼が打ち寄せて、回避する間もなく足首から見事に濡れてしまった。


 罵倒の一つでもくれてやろうと顔を上げた萬狩は、しかし、眼前に広がる光景に言葉を失った。どこまでも青い海を、地平線から顔を出した朝日が海面をキラキラと照らし出していたのだ。


 もう朝陽が昇っていたのか。そう思って視線を上げると、どこまでも澄んだ青い空と、深い色合いの海、その二つが交わる地平線まで一望出来た。


「陽が昇りましたねぇ」


 サンダルに履き換えた仲西が後方からやってきて、萬狩の靴へ視線を向けた。


「あちゃ~、やっぱり靴で入っちゃいましたか。濡れるし砂が大変だと思って、萬狩さんの分のビーチサンダルも持ってきたんですよ」

「言うのが遅い」


 萬狩が指摘すると、仲西は「すみません」と反省もない笑顔で答えた。彼が片手で見せてきたのはピンクのビーチサンダルで、萬狩は即断わった。


 彼とお揃いの際立つピンクのビーチサンダルを履くぐらいならと、萬狩は靴と靴下を脱ぎ、ほとんど伸びきる事がないリードを片手に、素足でシェリーと共に波打ち際をゆっくりと歩いた。仲西が慣れたように、波が押し寄せない位置に小さなブルーシートを敷いて、そこに持ってきた荷物を置き、萬狩たちに合流した。



 海側から流れてくる潮風は、潮の香りをまとって、時々遊ぶように優しく砂を巻き上げた。シェリーが途中、打ち寄せる波に思い切り前足を入れ、風に押されたその水飛沫が萬狩のシャツにまでかかった。


 シェリーは水を全く怖がらず、海の中に足を浸からせて平気で歩いたので、萬狩も仲西も、気ままに進むシェリーに従うように、しまいにはズボンの裾を膝まで曲げて歩いていた。けれど老犬は、体力があまりないのも事実のようで、その足取りは、十数分ほどでゆったりとしたものになった。


 

 彼女が自らブルーシートのもとへ引き返すように歩き出した頃、仲西が「やっぱり波の中を歩くのはサイコーですねッ」と膝まで海水に浸して歩きだした。彼が、子供のようにざぶざぶと立てる音が、萬狩にはなんだか可笑しかった。


 シェリーの後に続くように波打ち際を歩いていた萬狩は、向こうからやってくる人影に気付いて、思わず仲西青年と揃って緊張した。


 腕に黄色い腕章をつけた若い男が、ゴミ袋を持って歩いてくる。海を管理している人間の一人らしい陽に焼けた肌をしており、シャツとズボンからは鍛えられている逞しい筋肉が覗いていた。


 擦れ違いざま、男は行儀の良いシェリーを見て微笑み、それから萬狩と仲西に向かって「おはようございます」と声を掛けてきた。萬狩は不慣れな会釈を返し、仲西が、安堵した顔で挨拶を返した。


 男との距離が少し離れた後、仲西が萬狩に「良かったですね」と楽しそうに耳打ちした。


「僕らの事を親子と見て、すっかり警戒していない様子でしたッ」

「おい。誰が親子だ。相手もそうは思っていないだろうよ」


 というより何時その設定を発動したかも覚えがないのだが、と萬狩は呆れた。


 一同の歩みは遅くなっていたが、シェリーは押し寄せる波を眺めながら、笑うような顔で飽きずに歩き続けていた。時折、萬狩と仲西が後ろから付いてきているか確認するように、ちらりとリードの先を振り返り、また尻尾を振って海の方へ目を戻した。


 萬狩は、老犬につられるようにして、押し寄せる波の方へ目を向けた。きっとこの老犬は、日差しを受けてキラキラと輝く水が不思議でならないんだろうなと、そんな事を思った。

 

 波をかき分けるように歩いていた仲西青年の足が、僅かに遅くなった。


「――実は僕、母との仲がちょっと悪くて、成人してからは一人暮らしなんです」


 不意に仲西が、日差しが反射する足元の波を眺めながら、思い出したように語った。


「僕の両親は、どちらかというと人混みが嫌いで、――随分昔に、数える程度だけ、こうして静かな海を散歩した事を覚えています」


 海からは遠い家だったが、高台に建っていたので海が見えたのだと、彼は静かに語った。ちらりと盗み見たその横顔は物静かで、萬狩は、元気ではない青年の様子に「そうか」と相槌を打つ事しかできなかった。


「母さんとの思い出はあまりないけど、父さんとは朝や夕方に港を歩きました。どこかの小さな港だったとは思うんですけど、ハッキリとした場所は分かりません。父が珍しく僕の手を引いて歩いてくれるのは、いつもその港で、とても好きな場所だったのに、僕は今でもその場所が分からないままなんです」

「探した事があるのか」

「はい。時折無性に懐かしくなって、思い出した時に探してみるんですけど、やっぱり見つからなくて。二十年以上も前の事だから、多分、もうなくなってしまった漁港なんじゃないかって、友達はそう言っていました」


 懐かしいなぁ、と仲西青年が地平線の方へ顔を向けた。


 歩いていたヤドカリを見付けたシェリーが、足を止めて鼻を寄せた。萬狩は、立ち止まるついでに仲西を振り返ったが、掛けられる言葉はまだ出て来ないでいた。


「どうしてなんですかね。似てはいないはずなんですけど、萬狩さんって、なんだか『お父さん』みたいな、懐かしい感じがするというか」


 そう語る仲西青年の眼差しは、どこかぼんやりとしていた。萬狩に話し聞かせているというよりは、自分でもよく分からない疑問を、そのまま海に投げかけているようにも見えた。


「僕の父さんはビールが好きでした。毎日飽きずに飲んでいて、酔うと嫌な人間みたいになるから、僕は父さんの事が苦手だった。でも、酔っていない父さんの事は嫌いじゃなくて……。あの人は、僕が五歳の頃に亡くなったんです。それなのに僕は、未だに彼を忘れられないでいるんですよ」


 多分、僕だけが、彼を忘れられないでいるんだ、とポツリと仲西は呟いた。


 仲西青年は思い出すように話し続けた。父はアルコールが入っていない時は、決して暴言を吐かなかったし、口数の少ない男だった。今思い返せば子供に不慣れで、不器用な男だったのだろうとも思うのだ、とも語った。


 大抵はお酒を飲んでいたから好きじゃなかったけど、不思議と心の底から嫌いにはなれなかった。母と喧嘩ばかりしていた父がいなくなって、どこかほっとしている自分がいたのに、思い出すたびに、もう一度会いたいと願ってしまうのは、どうしてか……


 仲西は、つらつらと思い出を語った。

 しばらく萬狩は、話を聞いていた。


「変な話ですよね、僕は、アルコールを絶ってくれなかった父さんが好きじゃなかった。それなのに、あまり一緒にいられなかった事を、残念に思っているんです……もしかしたら幼かった僕は、父を本当は尊敬して、愛してもいたのかもしれません」


 萬狩は話の内容から、恐らく彼の父親は病気といったものではなく、事故などで唐突に死んでしまったのかもしれないと推測した。心のありようは人それぞれで難しいものがあるが、仲西青年は、確かに父親を愛していて、尊敬してもいたのだろう。


 人はいつか死ぬ。萬狩も数年前に、会社創設時から付き合いのあった、尊敬していた人生の先輩を亡くした。彼の遺体が火葬場に運び込まれ、専用の焼却炉に入れられるのを見届けた際、これが死ぬという事なのだろうなと、漠然とそう感じたのだ。


 ヤドカリの観察を終えたシェリーが、顔を上げてまた歩き出した。萬狩は思考を中断すると、仲西青年の横顔に声を投げかけた。


「もう少し先まで、歩いてみるか」


 すると、仲西青年は我に返ったように口をつぐみ、それから申し訳なさそうに微笑んで「すみません」と謝った。


「なんだか勝手に色々と喋っちゃいました……。そうですね、釣りをしている人達を冷やかしにでも行きましょうか」

「なんだそれは」


 変な奴だなぁ、と萬狩がぶっきらぼうに言って歩き出すと、仲西は「お喋りするって事ですよ」と空元気に声を張り上げた。音を立てながら水中を歩き、手で水面を払って水飛沫を上げる。


「ねぇ萬狩さん、写真を撮ってもいいですか?」

「構わんが、突然だな?」

「シェリーちゃんの散歩って久しぶりだし、仲村渠(なかんだかり)さんにも見せてやろうと思って」


 答えるや否や、仲西は一旦ブルーシートまで駆けて、紙袋の中からデジタルカメラを取り出して戻ってきた。


「これ、写真も店頭でパッと出来ちゃうし、すごく楽でスピーディーなんですよ」

「CMで聞いたような台詞だな」

「CMの宣伝そのまんまですからね」

「なるほど」


 というより、お前らは写真を見せ合うほど仲がいいのか?


 萬狩が、老人獣医と青年という妙な組み合わせを考えている間に、仲西が勝手にシャッターを切っていた。

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