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淡は頭上に広がる空を見た。
店を出る頃は真上にあった太陽も、今ではすっかりオレンジ色に染まっていて、遠くではカラスが鳴き始めていた。
「フゥー.......」
淡は長い息を吐いて乳酸が溜まった足を揉む。
トレーニングは持久力までは鍛えてくれなかったようだ。
坂道を上がり始めた辺りですぐに足取りが重くなった。
三分ほどその場で休憩した後、再び歩みを進めた。
マンションまでの坂道を一歩踏みしめるごとにあの時のことが
蘇る。
逃げる獲物、追う自分。
あのときは今ほど疲れていなかった。
大昔に存在した武将や剣士達は、戦闘の際に
脳が自動的に体を戦闘用へと変え、一時的に、筋力、反射神経、
思考能力、そのすべてを相手を殺すために最適化することができたという。
あの時はきっと、その状態だったんだろう。
しばらく坂道を上がっているとマンションの入り口が見えてきた。
入り口が近づくにつれて、疲れは消え
代わりに目付きと表情が狩人のものへと変わってゆく。
マンションの入り口の照明は相変わらず明るくあたりを照らし
自動ドア越しに見える数台のソファーには誰も座っていない。
ぎし
パーカーのポケットの中にあるナイフに力がこめられる。
生きているなら、その時はもう一度殺すまでだ
マンションの入り口の前で一人、淡の瞳はオレンジ色の空の下で獰猛な光を放っていた。
意気揚々とロビーへ入ったは良いものの、オートロックの扉を開
ける手段が無いため先へ進めず、
興が冷めて体に現れた狩人はすぐにそのなりを潜めた。
しかたなくソファーに腰を降ろして思考を巡らしていると
一つの方法が浮かび上がる。
早速それを実行に移すべく淡はマンションの裏側へと周った。
裏側から見たマンションは窓が横一列に等間隔につけられてお
り、内側からしか使えない階段の脇からは雨樋がまっすぐ上まで伸びている。
雨樋を目で追うとちょうど六階の端の窓が開いているのが見えた。
雨樋から窓までの距離は近く、伝って行けば窓の中へ侵入できそうだ。
雨樋へ近づくとそれを両足で挟み込み、尺取り虫のように
して上へと登る。
「下は見ない....下は見ない、下は....うっ」
下を見てしまった時にすでに十メートルはあった。
ふと落ちたときのことが頭をよぎり、たちまち恐怖が体へ染み込んでくる。
手足の筋肉は震え、手のひらはじっとりと湿り、極度の緊張から
口の中がカサカサに乾燥してくる。
「下は見ない.....下は見ない....下は見ない」
まるで呪文のように呟きながら、ただ上を目指すことに徹した。
そして体感時間で何十時間にも感じたられた作業もようやく終わりついに窓の近くまでたどり着くことができた。
しかし、その事実をすぐには喜ぶことができなかった。
なぜなら下では近くに見えた雨樋と窓の距離が
実際は少し離れていたからだ。
一難去ってまた一難、引き返そうかとも思ったが
しかしここまで来たからにはそれはできない
そう考えて、先に紙袋を中へと投げ込み、息を整えて、
今にも吐き出そうな恐怖を精一杯飲み込むと
意を決して窓へと飛びうつった。
落下しそうになりながらも、必死に手を伸ばすとなんとか右手だけは窓の縁を掴むことができた。
直後に右手に自分の全体重の負荷がかかる。
「アアア...アアアアアアア―――!!」
言葉にならない叫びを上げて、必死に体を持ち上げる。
ここまで酷使した腕はもはや限界を超えていた。
ぶちぶちと筋繊維が切れるような感覚にさいなまれる。
体が半分ほど上がると、すぐに左手で縁を掴まえた。
全霊の力を両腕に込めて体を持ち上げ、窓の中へと転がりこんだ。
したたかに体を地面に打ち付けたが、今はそれよりも生還したことへの喜びの方が強かった。
「ハァハァハァ....なんとか...生きてるな」
大の字になって息も絶え絶えになりながら呟く。
その顔には安堵の笑みが浮かんでいた。
しばらく休んだ後、立ち上がり背中についた砂を払うと、階段を上がって例の部屋へと向かった。
重々しい扉の前に立った。
インターホンは...鳴らさない。
相手は自分の顔を知っているはずだから、見られればすぐに扉を施錠されるはずだ。
鈍く光る冷たいドアノブをゆっくり引くと、鍵がかかっていないらしい、扉は以外にも簡単に開いた。
外から見た家の廊下には明かりがついておらず、リビングへと続く廊下の先の、すりガラスの扉の奥までもが暗い闇に覆われている。
家の廊下には自分の背後の照明からの光が延びていて、影法師をフローリングへと落としていた。
人の気配はない。
一歩、家の中へと踏み出す。
そこで気がつく
あるはずの死臭がない。
もし死んでいるのならば、いくら春前だからといっても
とうに腐乱していて、独特の臭いがするはずだった。
けれど匂ったのは、なんの異常もない無機質な香りだった。
壁をまさぐると電気のスイッチらしきものを見つけた。
しかし押しても明かりは付かなかった。
扉は開けたままにしておき、土足のまま玄関に上がると、死体があるリビングへと一歩ずつ前へ進んでいった。
寝室の扉の前を通りすぎ、バスルームの扉の前に差し掛かかった時に
ある違和感を感じた。
その違和感の出どころを探ろうと、開いている扉の中へ目をやるが中は暗すぎて見ることができなかった。
気のせいだろう――――――
その瞬間、
顔の数センチ先を白い閃光が通りすぎた。
とっさに身を引いていなければ今頃顔を切り刻まれていただろう。
「おいおいなんだぁ!? お前はぁ!」
初撃をかわした後も黒い影は二撃、三撃とすばやい身のこなしで続けざまに攻撃を仕掛けてくる。
淡は玄関から漏れる光を頼りに迫り来る刃物を避ける
あたりに空を切る音がこだまする。
こいつ動きに無駄がねえ、明らかに常人じゃない――――
懐へ潜り込まれ、影の踏み込んだ足で淡の足の指は強く踏みつけられる。
するどい痛みが走り、一瞬、淡の動きが怯む
その瞬間に影は淡の正面へと切りかかった。
その一撃を淡は手に持っている紙袋で受け、破れた袋の中から肉包丁を取り出した。
肉包丁で影の首もとめがけて斬撃を放つ。
しかし放たれた斬撃は空を切った。
影は後ろへと跳躍し、着地するやいなや一気に淡へと突進してきた。
足踏みからの斬撃――――
しかし淡の思惑に反して影は急に立ち止まると、
その姿が視界から消失した。
まずっ――――
ドスン
鈍い痛みが腹部へとはしる。
「ぐっ.....!」
だがこれでいい、この間合いなら...!
淡は膝蹴りを入れられた直後に影の左手を掴む。
掴んだ腕のその細さに少し驚いた。
「捕まえたぜ」
小柄だった影は案外簡単に捕まえることができた。
すぐに肉包丁を振り下ろす。
もらった――――!
キンッ
金属音と共にそれは相手の刃物によって防がれた、
沈黙の中でつばぜり合いが続く
刃物をもった影の姿を玄関からの明かりが照した。
徐々に明らかになったその人物は十歳ほどの女の子だった。
金髪でストレートのショートカットの少女。
まるで人形のように整った顔のなかで、その目だけは殺意の炎を
烈火の如く燃やしている。
淡は自分の中で先程までの高揚が萎えていくのを感じた。
ポリシーに反するからだ。。
「なあ、俺はお前を殺したくない。女を殺すことは俺の流儀に反するんだよ。なあ、わかるか? ここでひいてくれない?」
「................」
彼女は返事をするどころか、つばぜり合いを解いて再び切りかかってきた。
これは、動きを止めるしかなさそうだ。
淡は迫り来る刃物を包丁で受け、左手でポケットに入ったナイフを取り出して相手の太ももへそれを突き刺した。
「ッ――――!」
太ももから血が吹き出て少女の顔が苦痛に歪み、その動きが一瞬怯んだ。
その一瞬をついて淡は玄関へと走りそのまま街の方へと走り去った。