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人殺し....なぜ俺のことを知っている?
いや聞き間違いだと自分に言い聞かせるものの、疑問は頭の中でぐるぐると円を描いていた。
しかし、そんな疑問も牛丼の大盛を前にすると薄れていき、
完食する頃にはきれいさっぱり忘れ去っていた。
「ああ旨かったー。やっぱり肉は正義だ!」
嬉し涙を浮かべた目元を押さえ絞り出すように口にすると
店員や他の客たちから奇異の視線を向けられる。
が今はそんなことよりも食べ物にありつけた幸福感の方が勝っていた。
牛丼は初めてじゃないのに、この幸福感...!
やはり最高のスパイスは空腹か....!?
心でそう呟くとコップに注いだ水を一気に飲み干して席をたった。
ありがとうございましたー
背中で店員の声を受けながら、店をあとにした。
また来るぜ。
殺した男と出会ったのは、五日前の夜だった。
その日はめんどくささからバイトにいくのを止めて、暇を潰すために繁華街へと繰り出していた。
赤、ピンク、紫。怪しい色に輝くネオン。
立ちのぼる据えたような臭い。誰かの叫び声とホステス達の嬌声。
裏の路地では若者たちが殴りあっている。
泥酔したサラリーマンが道端でゲロを吐いていて
胸元をはだけさせた女たちはそれを尻目に、道いく人を誘惑している。
途中何度かホステスに誘われたが、自分が金のない未成年だと伝えると、みな態度を変えて、ガキは帰れと口々に言われた。
そうして一通り女というものの怖さを感じながら
歩みはある場所へと向かっていた。
持ってきた封筒を確認しようと
右側のポケットの中をまさぐると、手に金属の冷たさを感じた。
間違えた左だ。
今度は左のポケットをまさぐると手に封筒の確かな感触があった。
これには先週の分の給料が入っている。
光るネオンの文字が店の入り口に輝いている。
今日この街へ来たのは他でもない、ゲームセンターへ行くためだ
ゲームセンターへは今までに何度か来たことがある。
けたたましい音がいつも鳴り響いている
あそこはちょっとしたカオスの世界だが、淡はそこに独特の居心地のよさを感じていた。
それに二階にはカフェもあるし、退屈しのぎには最良の施設だ。
入り口を見ると、ガラス張りの自動ドアの向こう側に
未成年は午後六時まで
と書かれた文字が見える。
しかしそれで帰るほど淡は真面目ではなかった。
自動ドアが開き意気揚々と店内へ入ろうとした
次の瞬間
目の端に映った、何かに釘付けになった。
目線の先には道を歩いているスーツ姿の男性。
どこにでもいるような平凡なビジネスマン。
その姿を見て淡の思考は突如におぞましいものへと変わっていった。
殺意、殺意、殺意殺意殺意殺意殺意―――――――――
止めどなく溢れ出てくる感情。
押さえきれそうに無い感情は淡の表情を獰猛な肉食獣のように変化させる。
脳からはアドレナリンが出て、心臓は早鐘を打っている。
すでに体は狩りができる体へと移行していた。
今にも走り出していかんばかりの衝動を抑え
淡は男の後ろへぴったりとつき後をつけた。
ある仕事を終えて帰路についた男は繁華街を抜けた辺りで、
自分が後をつけられていることに気がついた。
彼は職業柄、後をつけられることは日常茶飯事だったので、背後からの気配には敏感だった。
男は心の中で舌打ちをした。
いつもならば護衛に任せるものの、
間が悪いことに今日は他の仕事でついていない。
男は自分の迂闊さに腹をたてた。
なるべく人気のある道を選んで進み、冷静に思考を巡らせる。
追手は....素人ではない。
それはこちらを見失わず一定の距離を保ち続けていることと、
並々ならぬ気配の鋭さから明らかだ。
であれば、組織内の誰かの差し金か?
いやあの事については誰も知らないはすだ。
だがもし詳細が露呈すれば、いよいよ自分も年貢の納め時だ。
ただ後をつけられているならまだ弁明の余地はあるか?
護衛と連絡を取るため、
背後を気にしつつ胸ポケットから携帯を取り出し
電話帳を開いて『v-20』とかかれた人物へ電話をかける。
プルルル、プルルル、プルルル――――――――
いつもなら3コールで応答するはずの彼女に最後まで繋がることはなかった。
「....くそっ! だめか!」
だめで元々だが、わずかに見いだした活路はすぐに絶たれ、幾ばくかの落胆を感じずにはいられない。
こうなれば、相手がこちらを攻撃した場合、家に隠してある銃で自ら応戦するしかない。
そう考えると歩みを自分の住まいへと向けた。
家まであと少しというところである不安が頭をよぎった。
それはこの先の横断歩道を渡った先にある道のことだ。
道は住宅地ということもあって、夜はほとんど人通りがない
しかしその道を除いて、自宅へたどり着ける道は路地しかない。
仮に路地へ逃げたとしても袋小路へ追い詰められたら、もう打つ手がないので、それは不可能だ。
仕掛けてくるなら、確実にその道だ
そう男は確信した。
ならば走り出すタイミングは
横断歩道の信号が赤へ変わる
ここだ
行き交う車の中を構うことなく走り横断歩道を抜ける。
その道は坂になっていて、すぐに足が悲鳴を上げたが、構わずに走り続けた。
道には街灯がポツポツとあり、落とした光はまるで家まで続く道しるべのようだった。
やがてぜえぜえと虫の息になってきたところで自宅であるマンションの明かりが見えてきた。
マンションのロビーから先はカードキーをかざさなければ入れない。
あそこまで逃げてしまえば後は大丈夫だ。
そう思ったところでさっきまで背後にあった気配が消えていることに気がつき、男は立ち止まって後ろを振り返った
そこには人影はなく、ただ暗い夜道が続いているだけだった。
男はほっと胸を撫で下ろし、マンションへと急いだ。
ロビーへ入ると、たどり着けた安堵からかどっと疲労感が込み上げてきた。
体は汗だくになるほど火照っていて、本来なら適正温度のロビーの空調がやけに暑く感じる。
ロビーにはソファーがいくつかおいてあり、そのうちのひとつに腰を掛けた。足は坂道を走ったせいでパンパンだった。
「ハァハァ....慣れないことは.....するもんじゃないな」
息を落ち着け、ようやく余裕が出てきたところで家へ帰ることにした男は
ロビーの最奥にある壁についてある認証装置へカードをかざした。
ピッという電子音と共に家へと続く自動ドアが開く。
扉を通り抜けて、危機から脱したことに再び安堵した、
その瞬間に
ドンッ
背後で何かが閉まるドアへ差し込まれた音がした。
弾かれたように振り返りその姿を見ると
全身が恐怖に硬直した。
全身黒ずくめで長髪の青年が閉まるドアに足を挟めて立っている
手にはナイフが握られており、目は獣のように血走っている。
獰猛な肉食獣を思わせるその顔には微笑が張り付いていた。
ガタン
閉じようとするドアに青年が手をかける。
そこで男は我に帰り、恐怖で固まっていた体を無理やり動かすと
エレベーターの脇にある階段を駆け上がった。
気配をあえて相手に伝え、それが無くなったときに生じる隙を狙うのが淡の常套手段だった。
最も、今回のように気配を読める相手ははじめてだったが。
淡は男がドアへ入る瞬間を待ってロビーへ滑りこんだ。
相手の顔には安堵の表情、術中にはまっていた。
待ちに待った瞬間だけに笑いが止まらない。
ドン
靴でしまりかけたドアに足を差し込む、
相手の顔には恐怖の表情、さあ殺しの始まりだ。
ガタン
なおも抵抗するドアを手で押さえつけると
男は脱兎のごとく逃げ出した。
「くそっ....くそっ! なんなんだあいつは!!』
息もたえだえになりながら必死に登る。
家がある階まではあと六階、こんなとき高層マンションに居を構えたことを後悔する。
タンタンタンタン――――
階下で階段をかけ上がる音が聞こえる、もうすぐ近くまで来ているようだ。
あと二階というところでいきなりヴヴヴと携帯のバイブレーターが振動する。
それに気をとられた男はその場で転んでしまった。
再び走り出そうとしたところで足首の付け根に痛みが走る。
どうやら足首を挫いたようだ。
再び逃げようと前に向き直ったところで、階段の照明が作り出す影がひとつ多いことに気がつく。
階段をかけ上がる度に、疲れているはずの体は研ぎ澄まされていくように感じた。
ただ殺す、その為だけに俺の体は最適化されている―――
手に握られたナイフに力がこもる。
わざと音をたてて上っていると、獲物が階段を上る音が止んだ。
部屋に入られたら、探しようがない
急いで階段をかけ上がるとそこには男が足を痛めたのかなにやらうずくまっていた。
淡は笑って男が気がつくより早くナイフを振り下ろした。
ナイフはジャケットをたやすく切り裂き、男の背中からは血が滴り落ちた。
短い悲鳴と共に、男の顔が恐怖と痛みで歪む。
そして淡は足を引き釣りながら階段を上がろうとする様子を、ただ眺めることにした。
切り裂かれた背中の傷がずきずきと痛む。
すぐ後ろには青年がただ楽しそうにこちらの姿を見ている。
殺される!
頭の中は殺されることへの恐怖しかなかった。
這いずって扉の前へたどり着き、ある提案をした。
「な..なあ、お前が誰だか知らないが、何かをしたのなら謝る
金もやる....だから助けてくれないか?」
心からの懇願、しかし、彼は頷くこともせずただへらへらと笑っている。
部屋の鍵を開けるとすぐに銃が隠してある部屋にむかって必死に這いずった。
もう少し―――
「ゴール!!よく頑張ったねー芋虫君!!」
淡は男に努力を称える声をかけると、ナイフを持った手に渾身の力を込める。
「じゃっもう殺すわ、バイバイ」
それはこれから人を殺すとは思えないほどに軽く、
そして殺される彼にとっては重すぎる言葉だった。
男が最後に見えたその姿は、まるで黒い鬼そのものだった。