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「・・・・・・痛って」
疲労を極め、熱っぽくなった身体の半身を冷たい壁にもたれた淡は、時折休みつつ、亀のような足取りで自室へ続く廊下を歩いた。
筋繊維の度重なる収縮と解放に、両股に大量の乳酸が溜まっている。そのせいで彼には一歩進むたびに、脚の重量が増してゆくように感じられた。
そして、全身の骨や関節もまた軋みを上げて休息を訴えていた。
自重によるトレーニングと、従手格闘術の打撃により苛め抜かれた彼の細腕は、身体の横でだらりと力なく揺れ、強かにぶたれた頬は腫れて火がついたように熱くなっている。
味わったことのない全身の鈍痛は、数時間経ったあとでも治まる気配がない。
この一週間としばしの間、彼は睡眠の他にろく暇も与えられず、絶えず壮絶な訓練に身を投じていた。
基本的な筋力トレーニングから、装備を身につけた状態での持久走、市街地戦での移動を想定した障害物を利用して進むパルクール、対人制圧や暗殺のための刃物を使った従手格闘、射撃訓練、人体から地理までの様々な座学、・・・・・・どれも日常生活では体験できない経験でありながら、課せられる量が尋常ではなかった。
組織の大人たちには訓練生の各々の実力に見合った量に調整するような手心はなく、まるで大量生産される製品を扱うように画一的に、定められた水準まで達し得る訓練を貸しているようだった。
これまで特に訓練などしてこなかった淡の肉体ははじめの数日間で歩くこともままならぬほど、早々に限界を迎えた。
今日に至るまでの数日の間は、気力だけで乗り越えたと言っても過言ではなかった。
あれこれと思考する力は失われ、自分が言われた事を忠実にこなすだけの機械になりつつあることに淡は段々と悟ってきていた。
「ははは・・・・・・」
けれども、そんな疲れきった淡の顔には、あの夜と同じ狂気的な笑顔があった。
たとえ肉体が襤褸のように成り果てようとも、その胸は、何か爽快な、得難い歓喜に高鳴っていた。
肉体が限界を迎え、思考力が失われたことで、生まれて初めて人を殺す以外のかたちで、自らの生を実感できたからだ。
他者の肌にナイフを突き立てる瞬間と、破滅的なトレーニングで己の肉体を痛めつける事、両者は他者か己かの違いはあれど共に加虐の要素があり、戦闘における無心の状態があり、死に近づく予感という共通項を持っていた。
命の駆け引きの刹那に緊張する命の感覚、その虜であった彼が惹かれたのも無理はなかった。
しばらくしてようやく自室の扉へたどり着いた淡は、ドアが開くや否や、倒れこむようにして自室へ入っていった。
「――――――――あっ!!」
殺風景な室内の冷たい床に彼がうつ伏せに倒れるや否や、飛び上がったように上ずった甲高い女の矯声が聞こえた。
淡がうつろな頭を持ち上げて声の出所を探ると、奥の椅子に座る銀髪の少女が驚いた様子でこちらを見ていることに気がついた。
目と目の合う瞬間、少女は机の上で開いた彼女のパソコンを、バタンと勢いよく人間離れした早さで閉じた。
その銀髪の少女には見覚えがあった。
確か日隠氷華とか言ったかと、淡は思い出す。
「・・・・・・ヒョウカ?」
彼女の異様な様子を怪訝に思いつつ、自室に彼女が居ることに疑問を感じた淡は、その旨を彼女に問うた。
氷華は少し考えた様子で顎に指を乗せ、おずおずと口を開いた。
「―――――えーと、・・・トンチですか・・・・・・?」
「・・・・・・俺を一休さんだとでも思ってんのか?」
何かをしらばっくれたようによそよそしい彼女の額にはうっすらと汗が滲んでいて、目は泳いでいた。
焦って何かを隠しているという感じである。
「ここ、俺の部屋だろ? なんでヒョウカが居るのかって聞いてるんだ」
淡の質問に彼女はキョトンとした顔で答えた。
「あっ、えーと・・・・・・ここ『教室』です」
『教室』――――正式には第三ブリーフィングルームと呼ばれる場所だ。
日に二度、坐学、および訓練の予定などを伝達するミーティングのために使われる部屋だ。
広い上に訓練が終わったあとと消灯時間までの合間に自由に出入りできるため、他の訓練隊員はこの場所を、――――――等間隔に並ぶ机と椅子、黒板代わりのホワイトボードなど、作りが地上にある学校の教室に似ていることから――――――『教室』と呼び、お喋りしたりする溜まり場としていたのだった。
いわゆる普通の教室と違って『教室』には窓がなく、床も壁も打ちっぱなしのコンクリートで出来ており、単なる部屋としても異様なまでに無機質な作りなのだが、ことに学校に通った記憶のほとんどない淡にあっては、たしかに教室っぽいなと早々に納得したのだった。
そんな部屋を見渡して、淡は理解した。なるほど、確かにここは『教室』で間違いない。
どうやら疲れで頭がボーッとしていたようだ。
(ここから帰るのめんどくせぇ・・・・・・)
床の上で仰向けになった淡は頭上で青白い光で冷たく照らす蛍光灯を眺め、汗で背中にはりついたTシャツの感覚に顔をしかめた。
「―――――よっす、くされウジむしやろー。もしかしてお部屋まちがえちったの? 」
・・・マスクか何かでくぐもったような少女の声。それはやや舌たらずで可憐、だがその印象を凌駕するほど汚い言葉づかいをする少女の声が、頭上から降ってきた。
アフリカ系の民族の儀式で用いられるような、サイケデリックでおどろおどろしい色の、奇妙な人面の仮面が、仰向けになった淡の顔を覗き込んでいた。
「みちる、今日はちょっとひでぇな。ひどすぎる。名前を覚える気はねぇのか」
淡は憔然として言った。肉体疲労に加えて、この上精神疲労まで甚だしくなりそうだった。
みちると呼ばれた少女は、仮面の端から飛び出した二つに結った金髪を左右に振って、教室の角へ駈けていった。
みちるは彼の名前をわざととしか思えないほど幾度も間違え、淡はその度に訂正していたのだが、そのうちそれも面倒になり今に至った。
そのバリエーションと、悪口にしか聞こえない呼び方は一つの彼女の個性とも言えるだろう。
しかし、どうやら他の隊員の名前は間違えずに呼んでいるようだった。淡にはそれが何故なのかわからなかった。わからなかったが、ただムカついてはいた。
淡は立ち上がって、みちるを追いかけようとした。
「――――――はっはっは、まあまあそう憤るな!
みちるに悪意はないんじゃないか? ここは寛大になって、呼び方くらい許してやろう、腐れウジ虫くん!!」
学生服に学生帽をかぶった、一見して少年とみまごうような黒髪の、襟足を刈り上げ、前髪に向かって長くなるタイプの、短髪の少女がウンウンと頷いて、淡の肩に手を置いた。
彼女は男言葉を使ってこそいるが、顔立ちは美少女のそれで整っている。
彼女は鈴のように澄んだ声で呵呵と笑っている。
淡は肩に置かれた少女の手をさっと振り払った。
「止めないでくれ麻婆。今日こそは名前覚えて貰わなきゃならねぇんだ。仲良しの第一歩はな、まず名前を呼び会うことからはじめるって孤児院で教わったんだ」
淡は毅然として部屋の隅で氷華に奇妙な躍りを見せている仮面の少女――――――散爪みちるに向かった。
「麻婆、だとっ!?」
短髪の少女が驚きの声をあげる
「訂正!てい、せい!」彼女は空中に正拳突きをして抗議を示した。
「そんな中華料理みたいな名前はイヤだ! 可及的速やかな訂正を要求するぞ!」
・・・・・賑やかな女がまた増えた。もはや賑やかを通り越して、『教室』は騒がしいことこのうえなくなった。
「オレは繭邑麻音って名前があんだよ!父さんがくれた、大事な名前がね!」
短髪の少女――――――麻音はいまにも淡に拳を突き出そうと、身体を半身に捻って力を溜めていた。
自分は人にあだ名を使っておいて、あまりに理不尽である。
姿や口調だけでなく、そういう所も少し背伸びした少年のようだった。
「ああそっか。じゃあ、雑魚ナメクジ。そこ退いてくれや」
しかし、拳程度で引き下がる淡ではなかった。
淡は我流のファイティングポーズをとりつつ、なおも食い下がり徹底交戦の意を示す。
「じゃあって、何!? 雑魚はともかくオレとナメクジにどんな縁があるっていうんだよ!」
「うーん、雌雄の区別がつかないとこ?」
とぼけた様子で淡は答える。
「ばっ、それは時勢的にデリケートな問題というか・・・・・・っていうか、オレはどっからどうみても女だろ!」
麻音は狼狽したように、貧相な胸の前で腕を組んだ。無理がある、と淡は思った。
女と言われればそうに違いないが、声や顔、仕草、起伏に欠ける身体から受ける印象は声変わりの済んでいない中性的な少年といった感じで間違いない。
「――――――はっ、マオン。名前くらいいいじゃねぇか」
意趣返しとばかりに、今度は淡が諭す口調で麻音の肩に手をおいた。
その瞬間、麻音は「――――――うわっ!?」と声を上ずらせた。彼女は目を白黒させて、肩に触れる淡の手をゆっくりて逃れて身を引いた。
彼女の日焼けした褐色の頬が、紅葉を浮かべたように見る見るうちに紅潮してゆく。
彼女は男性に対しての免疫がなく、身体に触れられただけで赤くなってしまうのだった。
そういうところも含めて、思春期の男子中学生のようだった。
「雑魚はこういうとこだ」
勝ったとばかりに、淡がしたり顔をする。
麻音は手で顔を隠しながら、指の隙間から淡をにらみ「バカやろ」と舌を出し、震える声で吐き捨てた。
「熱か?マオンちゃん??」
淡は体勢の崩れた彼女の隙を逃さず、近づいて、すこし俯き加減に麻音の顔を覗きこむ攻撃に出た。
「い、いや近い。それに、ちゃんは止めてくれ・・・・・・」
うつ向いた麻音は、先程までの威勢とは裏腹に消え入るようなか細いしおらしく熱っぽい声で懇願した。
淡は静かに麻音に歩み寄った。「じゃ、マオンくん――――――」
その声に目を光らせた麻音は、すばやく目の前にあった淡の腕をがしりと掴んだ。目にも止まらぬ速さだった。
彼女はその細い指の先を、さっきの仕返しとばかりに、淡の腕の肉にきつく食い込ませ、そのまま握った腕を逆方向へひねりあげてしまった。
さきほどまでのあどけない顔とうって変わり、不釣り合いなほど残忍で冷酷な表情があった。まさに殺し屋である。その殺気に、殺る気だ、と淡は本能で理解した。
「――――――ッ!!」
細い身体から出たとは思えぬ膂力と、元々の疲労により抗う術のない淡は、彼女の腕をタップして、力なくギブアップを表明した。くんでもちゃんでもだめのかと、淡は再び理不尽を感じた。理不尽な人間しかここにはいないのだろうか。
「――――――わかればよろしい」
麻音はそれを合図にさっと淡の腕から手を離した。
「あつつ、力強ェ。ていうか、いま俺に触らなかったか? 平気なのかよ?」
痛む腕をおさえながら淡は言った。
徒手格闘の成績トップの実力は伊達ではないようである。淡は訓練の際の彼女の身のこなしを思い出した。無駄はなく、容赦がなく、遅れもなく、しなやかな動きで相手の急所を的確に攻撃する彼女の動きはまさに暗殺者のそれだった。
「殺すと決めた時には平気なんだ。そうじゃなきゃ、仕事にならないだろ?」
彼女は冷たい無表情な顔で答えた。
(怖ェ、殺す気だったのか・・・)
淡は背筋に寒気が走るのを感じた。
麻音はそれで満足したのか、元いた席へ戻っていった。
「―――たく、次からは止めてくれよ淡島。じゃなかった、アッシマー」
「おい、まだ続けるのかマオン」
アッシマー・・・どこかで聞き覚えのある名称は無視して、麻音との戦いに疲弊した淡はふらつく足取りで部屋の入り口に近い席へと腰かけた。
「お二人はもう仲良くなったんですね」
二人の様子を見ていた氷華が口を開いた。
「ああ、親友さ。 なぁそうだろ?」
淡は皮肉めいた口調で、麻音の方を向いてたずねた。
麻音は、目を合わせると中指を立てて、ふんと明後日の方向へ顔を反らした。
「ウジむしもまおんもバカやろーだから。気があう」
氷華の傍らで踊るみちるが言った。
「なあ、みちる―――」
淡は額に青筋が浮かぶのを感じながら、みちるに問う。
「―――――名前を改めちゃあもらえねぇか?」
淡は名前に固執しているわけではなかった。ただ、バカにされることを許容できなかったのだ。
「アラタメ、アタタメ」
踊りに変な音頭が加わった。淡の目にはこちらを煽っているようにしかうつらなかった。
淡はなおも怒りを抑えてお願いする。
「・・・・・・せめて渾名で呼んでくれねぇかな? たとえば、前のバイト先では俺はYとかって呼ばれてたんだ。そういうのはだめか・・・?」
一縷の望みをかけてみちるに言う。
「ださい、つまらない、かわいくない、ふゆかい」
しかし、にべにもなかった。
「さ、さすがに、不愉快は言い過ぎじゃねぇかなァ!?」
淡は我慢は限界を迎えようとしていた。
(殺そう。次にあだ名で呼んだら殺す)
淡はさりげなくトレーニングウェアのポケットの中に手を入れて、食事の際に盗み隠し持っていたフォークの柄を掴んだ。
「なぁ、俺は本気でイヤがってるんだぜ。冗談ぬきさ」
殺気を悟られぬよう、ゆっくりと近づきながら間合いを計り、みちるの様子を伺う。
何か尋常ではない空気を悟ったのかみちるは踊りを止め、淡の動きをじっと眺めている。
「わたしは、冗談をいわない」
みちるの宣言に、場に西部劇のような、一触即発の緊張した空気が流れた。