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夜の帳が降りた頃、毒々しい輝きを放つネオン街には、誘蛾灯に引き寄せられたが如く人間たちで溢れ返っていた。
派手な色のスーツの男が電柱の元で漂わせる嘔吐物の臭い、胸をはだけさせた女達の下卑た矯声、路地裏でいかにもな粉薬を売っている売人の腐ったような視線、ジーンズを腰で穿いた、ニューヨークのギャングを真似たような格好をして群れる若者達の叫び声。
それはどこにでもある、日が落ちた後に訪れる闇の光景だった。
しかし、その中に日常とも闇とも切り離された、正に異常とも言うべき者が、姿を表した。
腰ほどまで伸ばした赤毛に、黒のトレンチコート、内側には黒のスーツを着こんだ、まるで魔女の様に黒い外国人の女。
この場所に外国人がいること自体は、別段珍しくもなんともない。
そう問題はそこではない。
彼女が放つ血腥い雰囲気と容貌が、人々の深層心理に異常を訴えるのだ。
それは、例えるなら、白鳥の群れに紛れ込んだカラス、だろうか。
白鳥が白鳥にどんなに自分を黒く見せようとした所で、種に染み付いた同族意識は拭うことができない。
しかし、その中に紛れ込んだカラスは、集合体の中で明らかな異物として見なされる。
それは、白鳥とは根底から異なる種である、と本能が認識するからだ。
人間も同様に、無意識に異常を見いだしそれを避けるよう遺伝子に組み込まれているのだ。
道行く人々の奇異の視線を受けながら、彼女はしばらく歩き続け、そしてある店の前で歩みを止めた。
それは、この通りではさほど珍しくもないナイトクラブだった。
階段を下りた先の扉から、心臓を打つような重低音と、デタラメな英語の曲がけたたましく鳴り響いてくる。
彼女は、迷うことなく暗い階段を降りていった。
途中外にたむろしていたアベックの間をすり抜け、中へと入った。
薄暗い店内では、緑色の光の束が無秩序に点滅し、一層強まった重低音は、まるで地面も空間も全てが一つの内臓として脈動しているかのようだった。
その薄暗い内臓の中で、人間達が狂ったように蠢いている。
汗ばんだ体をくねらせ、酒と空間に酔った若者達が情動のままにただ踊り続けている。
しかし彼女は加わるでもなく、彼ら彼女らを尻目に店内を歩き、併設されたバーカウンターの椅子の一つへ腰かけた。
彼女の前に立つバーテンダーは、ようやく成年に達するかどうか位の見た目で、まだ新人なのか、焦った様子でたどたどしい英語で女へ話しかけた。
女はにこりと笑うと、流暢な日本語で「いつものを頼む」とだけ返すと、懐からライターを取り出しタバコに火を着けた。
それを聞いた青年は、さらに慌てた様子で「オ、オマチクダサイ・・・・」と言い残しバーの奥へと消えていった。
女が一本目のタバコを吸い終わる頃、奥から青年と、その上司であろう初老のバーテンダーが姿を現した。
そのバーテンダーは女を見、「・・・・かしこまりました」と言うと、数種類の酒をシェーカーに入れ、降り、中身をグラスに注いでカクテルを完成させた。
「ブルームーンでございます」
バーテンダーは、そう言って女の前へ薄い紫色のカクテルを提供した。
ブルームーン、それは密談を意味する。
女は提供されたカクテルを一瞥した後、バーテンダーに感謝を伝え、グラスを手に取り口に含んだ。
飲み干さないままに女は席を立ち、代金も支払わずに何処かへと去っていった。
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「さっきの外人サン、ウチのボスと何か繋がりが?」
カウンターの裏で二人のバーテンダーの内の一人が、冷蔵庫の整理をしながらもう一人に尋ねた。
初老のバーテンダーは、グラスを拭く手を止め、しばらくの間の後に落ち着いた様子で答えた。
「・・・・君は当店のオーナーがイスラエル国籍であることは知っているね?」
「ハイ、たしかユダヤ人の方・・・・でしたよね?」
自信がないのか青年の声は、尻すぼみになったが、青年の答えにバーテンダーは頷いた後、続けて言った。
「イスラエル諜報特務庁」
「えっ?」
聞きなれない言葉に青年は思わず聞き返す。
バーテンダーは、止めていた手を動かして言った。
「――――イスラエル周辺及び特定の国家に対し諜報活動を行う組織のこと。
その構成員には、世界中に散らばるユダヤ人に協力者として協力を仰ぐことのできる特権が与えられているんだ」
「・・・・えっと、つまりウチのオーナーは、さっきの外人サンの協力者ということですね?」
青年はあまりに荒唐無稽で信じられないといった顔で話した。
「正確には、先程の女性のお仲間が、だね。
彼女もまた特殊な仕事であるようだが・・・・おっと、これ以上お客様の素性を追求することはバーテンダーとしての役割を越えてしまうな」
バーテンダーはグラスを棚へ片付けると青年に向き直って言った。
「あの女性に関わる情報は、他の業務同様、ぐれぐれも他言無用で頼むよ加納くん」
青年―――加納は、何度目かの上司からの他言無用の催促に内心飽き飽きしつつも、首を縦に降り、冷蔵庫を閉じた。
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私は、一階のバーで受け取ったカードキーを扉にかざし、室内へと入った。
そこには、スウィートルームと見まごう程の豪華で快適な空間が広がっていた。
毎度のことながら、たった一人が寝泊まりするために、ここまで広い部屋を利用する必要性を疑問に思う。
「あら、ジェーン。お早いお着きね」
部屋の奥の革製のソファーに座った褐色の女が、部屋に入った私に気がつき声をあげた。
顔がうっすら赤くなっている。おそらく酒でも飲んだのだろう。
「待ったかい?」
「いつものことでしょう?」
いつもの彼女の返事を聞いて、私は向かい側のソファーへ腰を下ろした。
ガラス細工のテーブルにはウイスキーボトルと半分まで注がれたグラスが置いてある。
「ところで、一つ聞いてもいいか?」
私は言った。
「良いわよ、なあに?」
マリラは、酔いからか語尾が溶けている。
この様子だと、半日は呑んでるな。
私は彼女の姿をもう一度見て、思っていたことを告げる。
「なんで、チャイナ服なんだ?」
彼女はどういうわけか今日に限り、紫色のチャイナ服を着用していた。
その姿は、彼女の褐色の肌と合わさりエキゾチックなコントラストを描いている。
似合わない、という訳ではないが、どうしても違和感がぬぐえない。
「ふふん、いいでしょう?」彼女は言った。「オーナーに借りたのよ」
彼女は自慢するように、体をのけ反らせ得意顔をした。
「・・・・彼は大した趣味を持っているみたいだな」
あのひげ面のオーナーの顔を思い浮かべる。
普段の彼からは想像できないが、寡黙な者ほど性的嗜好が片寄っている、というのはよくある話だ。
彼女はグラス取り、浴びるように中身をあおると、私に差し出した。
「飲む?」口元を拭きながら女は言った。
「いや・・・・」私はため息をついて足を組んだ。
「マリラ、酒を飲むのは良いが、仕事は終わっているんだろうな?」
彼女の存在は、組織には秘匿している。
そのため極力接触を避け、一週間、長くて一ヶ月の間、個別に行動をとり、その間彼女には主に情報収集をしてもらっている。
淡島を引き入れてから一週間。
私は、彼女にあることについて調べさせていた。
「まずは、あの子犬ちゃんのことね・・・・」
彼女はソファーに仰向けに寝転び、端に足を投げ出した体勢で答えた。チャイナ服のスリットから、しなやか足がこぼれた。
「淡島淡、年齢十七歳、私立燕蘭学園所属の高校生。だけど、去年の秋から、学校へは行ってないみたいね」
彼女は資料も見ずに、すらすらと言った。
「代わりに、近所のホストクラブで働いていたけど、これもすぐに辞めてる。飽き性なのかしらね」
・・・・アイツがホスト、か。
アイツを魅力的に思うやつがいるとは思わないが、まあ趣味嗜好は様々だろう。
元々サイコパスは、往々にして人を引き付ける魅力を持つ者が多い。
その魅力にあてられた者達が餌食となり、無惨な死体となって解剖台に乗せられるのを、私は目に焼き付くほど見てきた。
しかし、淡島は違った。
彼の殺人による被害者はやちるを除き、その全てが男性だった。
女性を殺す機会など、いくらでもあったのにも関わらず、だ。
『連続殺人鬼』には、二つのタイプがある。
一つが、無差別型。
明確な目的を持たず、本能で目についた者を殺す。
被害者に、一定の傾向は見られず、たまたま通りがかった運の悪い者が死ぬ。
二つ目が、目的型。
性的欲求または復讐など、目的を果たすために行動する。
被害者は主に力の弱い女性、子供が多く、被害者には一定の特徴が共通している。
私は、元々淡島が間違いなく目的型であると判断していた。
しかし、その動機が見えてこない。
死体に性的暴行を加えられた様子は無く、淡が男性に対して特定の感情を向けているわけでもない。
ただ殺したいだけなら、わざわざ男性を狙って殺す理由がない。
かといって、被害者に対する復讐という訳でもない。
「・・・・ちょっと、ジェーン? 聞いてるのぉ?」
気がつくとマリラは、私の顔に息がかかるほど近く顔を近づけていた、
彼女から香るウイスキーの匂いが鼻腔をくすぐる。
「いや、すまない、少し考えていた。続けてくれ」
彼女は、顔を離して私の隣へ座った。
「子犬ちゃんの過去は、孤児院を最後に遡れなくなった。
施設の前に立っていたあの子を、偶然職員が保護したみたい。
だから、両親がどの異端の家系に属するかは、調べられなかった」
おそらく青鬼であることは、間違いないだろう。
やちるに使った力は紛れもなく能力だった。
それも、精神を操る。
加えて、素人にも関わらず、暗殺術に長けたやちると互角に戦える戦闘力を持っていた。
・・・・まあ、それも近距離戦闘に限った話ではあるが。
「そうか、まあいい。いずれアイツから聞く」
あのバカのことだ、その内話すだろう。
「それで、もう一つは?」
「梶間の金の流れを調べているけど、これはダメそうね。
あの男、企業から企業へ金を流して足取りを完全に巻いてる。
本当、典型的な守銭奴ね」
彼女は首を横に振った。
やはり、豚はそう簡単に真珠は出してくれないらしい。
表向きの政府官僚となっているヤツは、政府の息のかかった企業と強い繋がりを持つ。
そのため、利用できる会社などいくらでもあるのだ。
「けど、ジェーンから貰った資料で貴木の金の流れは掴めたわ」
彼女はそう言って、数枚に纏められた資料をジェーンに手渡した。
「芹澤製薬会社、表向きは大手製薬会社の子会社で、委託された薬の製造を行っている工場。けど、親会社は、何年も前に潰れているわ」
資料に目を写すと、そこに『赤派人民解放軍』と書かれているのが目に止まる。
「実情は、革命勢力の隠れ蓑といったところか」
私は言った。
『赤派人民解放軍』、それはこの国に存在する過激派組織だった。
高度成長期からの昭和の人々のエネルギーを象徴するようなこの組織は、しかし数十年前にリーダーの男が獄中で放った解散宣言によって事実上解散状態だった。
しかし、組織が小規模ではあるが、未だ日本の暗部で蠢いているのは、公安を初め一部の人間には周知の事実だった。
彼女は頷いて言った。
「彼らは、貴木が横流した『SIRN―550』を“抗てんかん薬”と称して、海外の闇ルートへ輸出し活動資金を得ていた。・・・・いいえ、“活動資金”と言うのは間違っているかも」
「どういうことだ?」
私は尋ねる。
「赤派人民解放軍は、理想実現のための活動を最早諦めてしまったみたい。今は、純粋に金を稼いで利益を得ることにしか精を注いでないもの。人身売買から、麻薬まで、とても“革命家”には思えないわ」
「まったく最高だな、吐き気がするようなゴミ共だ」
私はグラスに酒を注ぎ、中身をあおった。
ウイスキーが、じりじりと焼くように喉を通過した。
マリラは、それを見て目を擦りながら笑みを浮かべた。
「梶間への資金流入の資料は、おそらく会社内部に保管されてる。でもタイミングが悪いことに、近々彼らの始末の依頼が政府から『亡霊の国』に下りる予定みたい」
「梶間より早く奴らを叩け、ということだな」
マリラは頷き、私の太ももの上へ横になると、あくびをしながら言った。
「資料は私が探すから、あとは・・・・よろしく」
言い終わらない内に、彼女は瞳を閉じ、ものの数秒で寝息をたて始めた。
勝手な女だ、私も大概だが。
私は、マリラの頭を太ももの上からソファーへと移し、それから直ぐに部屋を後にした。