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夢を釣る少年、もっけの幸い

作者: 佐矢ゆう

※序章※


いつもと変わらぬ朝のいつもの時間に起きて来るはずの家族が起きてこないので、珍しいなと思いながら起こしに行くと、ベット中で冷たくなり息をしていないことに気づく。家族は慌てて救急車を呼ぶが、すでに死んでおり蘇生を試みるには遅すぎる。このような就寝中の突然死は、原因不明と判断されることがしばしばある。


例えばまだ1歳の誕生日を迎えてないわが子の様子を見ると息を引き取っている場合や、まだまだ働き盛りの三十代、四十代の夫を起こそうと声をかけても反応がない為、肩を揺らし起こそうと夫に触れると既に冷たくなっていたり。一緒に暮らしている家族に気付かれずひっそりと命を落としていた、そんな悲しい出来事は医学の進んだはずの現代でも、どこかの家庭で起こっている。

これらの死に共通するのが、「昨日まで元気だったのに」という周りの証言ではないだろうか。


なぜ昨日まで元気だった幼い子が、なぜ昨日まで精力的に仕事をしていた夫や妻が、翌朝には安らかな顔で死んでいるのか。家族はどうやって原因不明の突然死との診断に納得し、家族の突然の死を受け入れるのだろう。

ただひとつ、家族にとって救いな事は、死んだ者の表情を見れば苦しまず死んだのではないかと想像できる場合だ。もしも苦しみながら死んだと思われる苦虫を潰したような表情で死んでいたのなら、なぜ、自分の子供が夫が妻が苦しんでいることに気づかなかったのかと自分を責め生きていくことになる。


そんな突然死をとげることになった理由は様々あるだろうが、夢の釣り人の能力を持った者は早死という宿命がこの突然死と診断される原因でのひとつでもあるのも事実だ。

さて、夢の釣り人とは、何者か。

夜、眠りに落ちると数分後に別次元の海原の世界で目を覚まし、夢を釣り上げることのできる不思議な力を持った者、というのが一番理解してもらえる説明になるだろうか。異次元の海の上で目を覚ました際に溺れることを防ぐために、釣り人たちは特別なベッドで眠る。

夢の釣り人の為に作られた特別なベッドとは、夢の釣り人が海に放り出されるだろう異変を察知すると瞬時にベッドから船へと形をかえ、釣り人とともに別次元に付き添い、荒らくれた海であっても釣り人が溺れ死んでしまわないよう守る、守護船といえるだろう。


夢の釣り人は血筋で受け継がれることが多いが、まれに血筋でない子が夢の釣り人の能力を備えて生まれる場合がある。また親が夢の釣り人であっても子供にその血が受け継がれない場合もある。要は両親の遺伝子の掛け合わせ次第ではないだろうかと考えるものもいた。両親ともに夢の釣り人でなくても、祖父母や曾祖父母が夢の釣り人の場合、隔世遺伝もよくある話で、夢の釣り人ととして覚醒した時に特別な船を持たない者は、冷たい海の中で溺れ死ぬのだ。

別次元で死んだものは元の世界でも死ぬ。そして元の世界ではその死は原因不明の突然死と判断され処理されるのだ。


夢の釣り人だからといっても毎夜別次元である海に放り出されるわけではない。大抵の者は月に一回や二回程度だ。だが、夢の釣り人の血の濃い者は週に一回や二回ほど海に放り出される。そしてもっと血の濃い者は毎日のように別次元の海にほうりだされる。

だが大人になるに連れて、別次元へ行く回数は減り、三十歳を過ぎる頃には皆無となる。けれど、夢の釣り人の宿命を背負ったものは早死する者が多く、40歳まで生きれない事が多いのだ。能力と引き換えに命を差し出す悪魔の契約でもしたかのように。


海に放り出されることは、そう怖いことではない。船があれば死ぬことなどないのだ。元の世界に戻るまで、船の上で寝ているだけの者もいるし、暇つぶしに釣り糸を垂らし、夢を釣り上げる者もいる。

稀に悪夢を釣り上げてしまったとしても、釣り糸を切ってしまえばいい。

夢の釣り人と言っても、普段の生活においては非能力者となんら変わらない同じ人である。

この物語に出てくる少年は数か月ほど前に能力が覚醒してまった夢の釣り人で、血が濃いのか覚醒してから毎日海へ放り出されていた。海に放り出されることにようやくなれつつも、自分の能力を受け入れきれずいる。そんな少年の物語がはじまる。



※ため息をこぼす少年※


一日の終わりが近づいていることを、生きてるもの全てに対して知らせてやろうしているかのように眩しかった空はゆっくりと赤く染めはじめていた。夕方になると顔を見せる美しい黄昏は感情豊かな人間たちに自然の威厳を見せつけ、そして黄昏の思惑通り人間たちは美しさに魅せられている。人間たちが美しい夕暮れに目を奪われ足を止め眺めていられるのは束の間のことで、あっと言う間に闇が夕暮れをどこかへ押しやるのだ。闇はすっかり街を飲み込んでしまった。

この町に暮らす夢の釣り人の少年は、美しい夕暮れに酔いしれるのに十分な時間もないうちに夜がやってくるという自然の摂理にうんざりしている。

今夜も暗闇にのみ込まれつつある街の風景を、高台にある自宅の二階の窓から眺めながら、「また夜がきた」と呟き、少年はため息をひとつこぼした。

そして、あっという間に闇に包まれた街を睨みつけた。


『闇』という得体のしれないものは、この少年に限らずほとんど全ての子供たちにとっては、怖くて仕方のないものだろう。

闇が自分をのみ込み、一生闇のなかに囚われてしまうのではないかと、子供たちは夜毎に震え上がっている。

闇の奥にどんな恐ろしい顔をした悪魔が潜んでいるのだろうかと創造してしまわずにいられなくなる。子供たちに恐ろしい想像をさせては毎夜のように怯えさせる闇は、なんとやっかいなものなのだろう。

そんなやっかいで、恐ろしい闇が毎日絶えることなく必ずやって来るのだ。

闇に恐怖を抱く者にとっては、闇に包まれる夜にうんざりしないわけがない。


外がすっかり闇に包まれたが、少年は自分の部屋から町並みを見下ろしていた。眼下に広がる家々の明かりや街灯が自分を闇から守ろうとしてくれているようだと感じるからだ。安心を感じるために家々や街灯の明かりを見下ろすのだ。

家々の明かりや街灯がともらない静かな夜があったなら、きっと悪魔がやって来る事を想像してしまい眠れず、朝まで怯えて過ごすだろう。今までは悪魔の顔を想像するたびに、少年は両親の部屋へと逃げ込めばそれでよかった。だが、少年に夢の釣り人の能力が芽生えた日から、父親は少年がベッド以外の場所で眠ることを許さなかった。

少年は月を見上げる。

今日はいつもより明るく照らしてくれていると感じるほど立派な満月の夜だった。明るく照らしてくれるのはありがたいのだけれど、いつもと違う月の明るさというのも、それはそれで不安にさせられる。

少年はぼうっと満月を見つめた。今日の満月はやけに立体的で、CGで描かれたような完璧すぎる代物に見える。それはいつもよりもひとまわり大きくて、濃いオレンジ色をしているからだろうか。

夢の釣り人として覚醒してから数ヶ月が過ぎているが、別次元の海へ行くことへの不安を抱えたままだった。

最初の数回は楽しかった。大好きなウサギを釣り上げウサギと遊んで過ごす事が出来たからだ。だが、釣竿を枕元に置いておくのを忘れ、あの世界に持っ行くのを忘れた日、する事がなくぼんやりと漆黒の海を眺めているうちに、海に飲み込まれるのではないかと怖くなった。底の見えない海が自分を飲み込もうとしている悪魔に見えたのだ。

海へ落ちれば海のモズクとなるのではないか、両親のいる家に帰れなくなるのではないか。

また今夜も海に行って、もしもあの海に落ちたならと、不安で涙がこぼれそうになるのを我慢していると、少年の視界に坂道を歩く男性の姿が目に入った。

父親だ。

少年は手を振ると、父親が手を振り返した。父親が急な坂道を辛そうに歩いて上がって来るのを少年は見守り続け、あと30秒ほどで玄関を開ける距離までたどり着く頃合いを見計らって玄関へ移動し父を出迎える。

ガチャリと扉が開くと同時に少年は父親の腕の中にダイブする。

「おおっ!元気だなぁ。ただいま」

父親は息子を抱きとめ、日々大きくなる息子の重みを確かめた。

「おかえり、パパ」

少年を抱き上げたまま父親はクルクルと回転する。少年は声を上げて笑った。

奥から母親が出てきた。

「お帰りなさい」

「ただいま」

「うちの王子様はパパが帰って来るまで絶対寝ないんだから。困った王子様だわ」

父親に抱き上げられた少年の頬を母親が人差し指で優しく突く。

少年は申し訳なさそうな顔を父親に向け、父親も早く帰ってこれない事を申し訳なく思うのか困った顔をした。2人の困った顔があまりにもそっくりなものだから、呆れながらも母親は笑った。

「もう、親子して可愛い顔するんだから〜」

母親は腰に手を当てて頬を膨らませてみせた。

「うちの大事な王子様を寝かしつけて貰ってもいいかしら」

父親は優しく微笑み「かしこまりました」と答え、少年を抱き上げたまま二階へ上がる。

父親は少年をベッドに寝かせ布団をかけてやった。

「ねえ、パパ、あのね、・・あのね・・』

不安そうな顔で自分を見つめる少年の髪の毛を、父親は大きな手で優しく撫でた。

「海へ行くのがまだ怖いのかい」

少年は何度も頷いた。

「パパも怖かったけど、ちゃんとこうして生きてて、君の父親をやってる。海に行ったって死ぬことはないさ。むしろ楽しめばいいんだ」

「楽しめないよ」

「釣竿を持ってるだろ?」

少年は頷く。

「釣りをして夢を釣り上げて遊べばいいんだよ。たくさん楽しめばいいんだ」

少年の瞳から涙が流れた。

「楽しくなんてなかった。釣竿を忘れた日は、海に落っこちたらどうしようって怖かったし、昨日なんてお化けが釣れちゃって」

少年は小さな悲鳴のような声を上げて泣き出し、上半身を起こして父親に抱きついた。

「ああ、悪夢を釣ってしまったんだな」

「もう釣りなんてしないから」

ハハッと父親は笑った。

「笑わないで。ホントに怖いんだ」

「ごめんごめん。パパもそうだったなって思い出したよ」

「パパもお化けを釣ったの?」

「ああ、何度もね」父親は不敵な笑みを浮かべ内緒話をするように少年の耳に顔を近づけ囁き声を発した。「対処方法があるんだ。今から教えるからよく聞いて」

少年は真剣な眼差しでうなづいた。

「釣り上げた時に素早く釣り糸を切ってお化けをまた海の中へ落としちゃえばいいのさ」

「うまく糸が切れなかったら?」

「その時はお化けと友達になればいい」

「え〜、そんなこと無理だよ〜」

「パパはものすごく大きなお化けを釣り上げことがあってね。それは青色の奇妙なお化けさ。しかもそいつは毛むくじゃらで、ツノまであってさ、大きな口の中には見たことないくらい大きなキバが見えた。パパは恐怖で悲鳴をあげると、そのお化けはパパの悲鳴にびっくりして両手で頭を抱え震えながらこう言ったよ「助けて僕をいじめないで」って」

少年は身を細めた。

「それに似た話、ディズニーの映画で見た気がする」

父親は目を見開き驚いた顔をした。

「そうなのか?ディズニーがパパが体験したのと同じ話を作ってるなんて、もしかするとディズニーの社員の中には君やパパと同じ夢の釣り人がいて、その人が釣り上げたお化けの話を元に映画を作ったのかもな」

「もしもホントにそうなら、僕にも映画が作れる?」

「作れるさ。だから、夢を釣り上げてごらん。勇気を出せば素晴らしい経験ができるかも知れないぞ。その経験のおかげでディズニーのような世界の子供達を喜ばせる映画を作れる人になれるかもしれないぞ。その為には、何事も怖がらず見て触って喋って、たくさん経験するのが一番だよ』

父親は少年をベッドに横たわらせた。

「いいかい。何度も言ってるけど、このベッドは特別なんだ。パパが子供の頃、海に行くたびにこのベッドが船に変わって、海へ落ちないようにパパを守り通した勇敢なベッドだ。だから、君のことも守り通すに決まってるさ。このベッドは経験豊富だからね。パパのパパもこのベッドで海に何度も何度も出かけてる。このベッドは誰よりも海の事をよく知っているんだ。それから釣竿も同じだ。優秀な釣竿で、よく手入れをしておけば、楽しい夢を釣り上げてくれる」

少年は枕元にある釣竿を手にとって撫でた。

「さあ、おやすみ。もしも今夜も海に行ったとしても、怖がることなんてない。月が明るく照らしてくれているだろう。パパも何度も海に行ってるけど、月のない海なんて一度もなかった。月が暗闇から君を守ってくれる。だから、怖がらないで楽しんでおいで」

父親がそう言い終わらないうちに少年は寝息を立ていた。

父親は息子のこの愛おしい寝顔をあと何回見ることが出来るだろうと思うと、涙がこぼれた。

息子の寝顔を見つめながら、週末に2人で月を見上げながら自分が釣り上げペガサスの話をしてやろうと思った。楽しい夢を釣り楽しい体験を沢山させたいものだなぁ、そう考えた。



※悲しみをかかえた少年※


夢の釣り人となり数年が過ぎ9歳になった。あいも変わらず少年は部屋にこもりがちで、眼下に広がる町並みを見下ろし、そして月を見上げる。

母親は『毎日毎日見てるのに、飽きないのねぇ』と少し呆れているが、『パパが景色が綺麗と言って買った家だから、仕方ないか』と笑う。

見上げるたびに形を変え、色を変え、大きささえも変わる月。毎夜見上げても飽きない月を少年は愛していた。父親が月を愛していたように、少年も心底愛しているのだ。

夜は大嫌いでも、神々しいたたずまいの月を見るのは飽きる日が来るなど想像も出来ないほどに好きだった。

頬杖をついて見上げていると、ふっと季節外れの花火を思い出した。

9月のとある満月の夜に、「満月と、団子と、花火。こういう夜も、なかなかおつなものだ」と言って口を大きくあけて笑った父の顔が思い出された。

この記憶は去年の夏のことだ。夏休み早々に母方の祖母が死に、祖父が追いかけるように2週間後に死んでしまった。二人の死により、慌ただしく夏休みが終わってしまった。

おかげで、少年の絵日記は悲しい出来事が短い文章でつづられていた。


7月26日、おばあちゃんがしにました


7月29日、おばあちゃんにさいごのあいさつをしにたくさんの人がきました。


7月30日、おばちゃんのおそう式


7月31日、雨。


8月2日、雨。


8月3日、雨。


8月4日、晴れたので、プールに行きたいと言ったら、おこられた。


8月5日、おじいちゃんが救急車で運ばれた。


8月10日に祖父が死んだ事で、プールに行きたいなんて、不謹慎なことを言ったから、神さまが怒ったのかもしれない、ごめんなさい、もう言いません、

と、反省の言葉を心の中で繰り返した。日記は8月6日は日付しか書かず、それ以降も書けなかった。

けれど先生に咎められることはなかった。算数や国語や自由研究もほぼ全ての宿題をやらなかったのにも関わらず、何も言われなかったことを少年は少し得した気分になり、祖父母から贈り物を受け取ったように思っていた。

提出した日記が戻されて、先生のコメントを見たとき少年は少し笑った。

『大変な夏休みでしたね。おじいさまとおばあさまは、お空の上から見守ってくださっていると思います』

大人とは、人の死が関わり傷ついているかもしれない子供をそっとしておく傾向があるようだ。9月に入って、何度か遅刻しても先生は何も言わなかったのも、祖父母の死が関わっているのだろうと、少年は思った。

少年は大人の扱い方をひとつ知った気になった。放っておいて欲しい時、構われたくない時、やりたくない事をやらなくても怒られたくない時は親族の死を悲しんでる振りをすれば良いのだ、と。


夏休みの日記をゴミ箱に放り込んだ9月の十五夜の日の夕方、母親が「曇ってるわねぇ」と空を見上げながら言うので、少年は「曇ってちゃダメなの?」と尋ねた。

母親は「パパがね、今夜を楽しみにしてるのよ。パパは月が好きでしょ?とくに秋の十五夜の月が大好きなのよ」と言いながら、残念そうにまた空を見上げた。

「ふうん」と少年はそっけなく言い、自分の部屋に行った。少年の部屋から見る月が、この家の中で一番眺めがいいのだ。

頬杖をつき、空を見上げるが、雲が空を覆っていて、月なんて見えそうもない。

居間でアニメを見ているうちに、すっかり夜になっていたが、少年はアニメに集中していた。

「あら、すっかり晴れたわ。とってもきれいな月ねぇ」

と母親の弾む声が聞こえてきた。

少年は部屋に行き空を見上げると、あまりにも美しい月に向かって少年は『おおっ』と声を上げ、いつもより近くに感じる月にくぎ付けなった。

最近習った『格別』という言葉が浮かんだ。

当たり前のように毎日見ていた月なのに、今日のは文字通り『格別』だった。


少年は父と月を日常的に見上げて話をすることが多かった。この家を買ったのも、「月に近いから」という理由であることを父から聞かされていた。「ママはスーパーが遠くて大変だってよく文句を言ってるけどね」と申し訳なさそうな顔をする父親の顔を思い出しては笑う。

父親の困った顔がおかしくて、少年は父親を困らせることをいうのが好きだった。

ふと坂道を小走りにかけてくる人の姿が目に入った。父親だ。少年は窓を開けて手を振ると、父親が気づき、手を振り返した。

少年は月を指さすと、父親は万歳をして答えたので、少年は笑った。

家にたどり着き、甚平に着替えた父が、

「花火をしよう。夏休みにしようって買った花火セットがあるだろう」

少年か飛び上がって大喜びした姿を見て父親は優しく微笑む。

「満月と、団子と、花火。こういう夜も、なかなかおつなものだ」

父親がそう言いながら、ビールを飲み幸せそうに微笑み母親と視線をかわしてまた微笑むのを少年は花火をしながらこっそり見ていた。

幸せな日々の記憶は永遠に薄れることはない。




※夢の中でしかない叶えられない夢があると少年は思う※


大好きな父親が死んだのは少年が10歳の時で、父親の死から一年が過ぎ11歳となった。たった一年で父親の記憶が少し薄れ始めているように思えた。このまま父親の顔さえも忘れたらどうしようと心配になる。父親が生きていた頃の幸せなこの記憶を忘れないんだ、と少年は強く思った。

いつものように頬杖をつき月を見上げていた。父親との思い出にひたり幸せな気分だったのに、雲が月を隠してしまった。闇がこの町を呑み込もうとしているようだった。そしてその闇が自分に襲い掛かって来るのではないかと不安になり、いつの間にか幸せな気分が憂鬱な気分にすり替わっていた。

父親が坂道を歩き帰宅する姿を探すが、死んだ父親の姿があるはずもない。父親の歩いてた坂道は空っ風が吹いているように見える。

闇の恐怖から逃げるように少年は特別なベッドに潜り込み、固く目を閉じた。目さえ閉じてしまえば、何も見なくてすむのだ。この家の中に、この部屋に、闇の中に姿を隠している悪魔がいたとしても、目を閉じていれば気づかずやり過ごせるだろう。

朝がやって来るまで静かに眠るのは、悪魔と目を合わせない為なのだよと言われれば簡単に信じてしまえるほど、夜というものは恐ろしい。

だから少年は、空が赤く染まりは始めると早く家に戻らなければと焦りはじめるし、夜が完全な闇をつれてくるとベッドに逃げ込むのだ。

少年のベッドは父が子供のころに使っていたベッドで、父を守ってくれたように、今は少年を守り続けている。

目を閉じ、眠りの入口に落ちると、少年をのみ込もうとしていた闇は、次第にすぅと消え去りはじめる。

この眠りに落ちる瞬間を少年はよく知っている。空気の微妙な流れの変化を頬で感じ、闇が海へとゆっくりと変貌していくのを特別なベッドの中でじっと待ち続ける。そして、闇が海へと変貌するのと同時に、ベッドは釣り船へと形を変え、少年を乗せて月に照らされた海で夜通し航海し始めるのだ。


そうやって毎夜、闇は少年を別次元の海の中に突き落とし、まだ幼いこの少年を夢を吊り上げる釣り人にしてしまうのだ。

夢の釣り人の血が濃いのか、少年は毎夜別次元の海につきおとされていた。

少年のベッドには釣竿が常備されている。海の上で退屈しないように。

夢の釣り人となった者は、別次元の海で願ったものを釣ることが出来るのだが、何も願わず何かが釣糸にかかるのをそっと待ちつづけ、偶然かかったものを釣り上げるべきものであり、そうすることが夢の釣り人に選ばれた者だけが知ることのできる醍醐味なのだと父親に教えられていた。

けれど、何が釣れるのか分からないということは、少年にとってはつまらないことであり、釣り上げたものがお化けだったりするとひどい目にあうこともしばしばで、何も願わず夢を釣ることに相当うんざりしていた。

それでも願ったものを釣り上げないのは、父親との約束があったからだ。

だが今夜の少年は、願いを込めて釣糸を垂らすことに決めた。今夜どうしても釣りたい夢を思いついてしまったし、この海にただ一人ぼっちの少年が約束を破った事を咎める者などいないのだ。


あの十五夜の日の父親との思い出に浸っていた時、いつだったか父と月を見上げながら話したことを思い出したのだ。

父から聞いた話を確かめるために、それを釣り上げてやろう、そう思ったのだ。

どうしても釣らなければいけないと思う程、少年は緊張をつのらせた。

いつもどおりの穏やかな海に漂いながら、少年は自分の鼓動を抑えることはできずにいた。

釣りたいものを願ってはいけないという父の教えを無視する罪悪感が少年を落ち着きなくさせていた。

海に垂らした釣糸がピンと張り、何かがかかったことを知らせた。少年は後ろめたさを抱え込んだ両手で釣竿をしっかりと握りしめ慎重に、けれど素早く釣り糸を引き上げた。

船が激しく揺れることには気にも留めず、釣り糸を巻き取り、折れそうなほどしなる竿を力の限り懸命に引くと、眩しく輝く物体が海面からほんの少し姿を現せた。

だが、眩しすぎて目を開いて見る事が出来なかった。

眩しさに耐えながら、薄目を開けて糸を巻き取り続け、ようやく釣りあげた。

白い毛並みがキラキラと光り輝き、背中には大きく美しい形をした翼を携えている、なんとも美しい生き物を釣りあげていた。少年は釣り上げたものを細めた目で見つめた。

「ペガサスだ。」と少年は呟いた。

そう、このペガサスこそが少年が願ったものだった。

ようやく眩しさに目が慣れて、釣りあげたペガサスをはっきりと見ることができるようになると、願ったものをちゃんと釣り上げたという喜びで体があつくなった。

空を自由に飛べるペガサスを見事に吊り上げた少年は「やった!」と満面の笑みを浮かべた。

その声に反応したペガサスが少年に視線を向けた。ペガサスと目が合ったとたん、少年から笑顔が消えた。想像していたものとはまるで違う恐ろしい悪魔のような目をしていたからだ。

手をギュッと強く握りしめ、手の震えをペガサスに気づかれないように恐怖に耐えた。そして、少年はペガサスに震える声で問いかけた。

「君を呼んだ僕のことを、怒っているの?」

ペガサスは鋭い瞳を光らせ静かに答える。

「怒ってなどいないがね。」

そう答えはしたが、感情を読み取らせない圧倒的な力のある目が、少年は迷わせた。今夜の夢は諦めようかと。

ペガサスが自分を受け入れないまま一晩一緒に過ごすなんてことは無理だ。もう今日は諦めちゃおうかな、と弱気な事を思い始めたのだが、釣竿を強く握りしめて、「君にお願いがあるんだ」と少年は小さな声で言った。ペガサスに拒否されるかもしれないという不安がとても小さな声にさせたのだろう。

ペガサスの反応がない。自分の声は届かなかったのかもしれないと、ペガサスを見上げた。

ペガサスは少年に 向けた視線をそらし月を見上げた。そして、翼を折り畳み、体を低くした。

「私の背に乗りたければ、乗ればいい」

視線をそらしてそう言ったペガサスは、自分の視線に少年が怯えているのかもしれないと気遣ったのかもしれない。

少年は手を伸ばしそっと折りたたまれた翼に触れた。見た目以上にとても柔らかく、そして輝きを放つ美しいその翼は温かかった。

どうしてこの美しい体にあんなにも似合わない恐ろしい目がくっついているのだろう。もっと優しい目ならよかったのにと、少年は翼を撫でながら思った。

「乗るのか、それともこのまま朝が来るまで、乗らないままお喋りでもしながら過ごすつもりかね?」

とペガサスにせかせれ、少年は慌ててペガサスの背に股がった。

ペガサスは少年が背に跨り終えるのを身じろぎひとつせず待ち、少年が安定した位置に落ち着いた所で、立ち上がり翼を広げてみせた。

背から眺めるペガサスの美しさに少年は「すごい」と声を漏らした。

ペガサスが首をめいっぱい曲げて少年に向かってにぃと笑った。その顔が愛嬌たっぷりだったので、彼への恐怖はこの瞬間に消えた。

このペガサスは父親の話していたペガサスとは違っている。けれど、それでも構わなかったのだ。願ったものを釣り上げることが出来た、この経験も貴重な経験の一つなのだ。

ペガサスが広げた翼を優雅に羽ばたかせ始めた時、この背から落ちたらどうしようと、急に怖くなりギュッと目を閉じた。

目を閉じていてもペガサスが空高く浮かび上がるのが分かった。少年はペガサスの真っ白で太い首に必死にしがみついた。

風が少年の髪を揺らした。母親に髪を優しく撫でられているような心地のよい風だった。

少年がそっと目を開けると、ペガサスの後頭部越しに、濃い紺色の海と、無数の星が光を放つ空に、オレンジ色のいびつな形をした月が浮かんでいる光景が見えた。

後ろを振り向くと、広大な海に頼りなく浮かんでいる少年の釣り船が、すでにはるか遠くにあるのが確認できた。

少年の釣りあげたこのペガサスは、どうやらとてつもない速度で飛べるらしい。

ペガサスの飛行にもなれ、風景を落ち着いて見ることが出来るようになると、いびつな形の大きな月が、闇の海をキラキラと美しく照らしだしているのだと気づいた。ペガサスは海を一回りし、船のそばまで戻ってきた。

なんという美しさだろうと、少年は息をのむ。

そして、自分の置かれた現状をはっきりと理解すると、「すごいぞ!僕はペガサスに乗って、空を飛んでいるんだ!」と叫んだ。

ペガサスは一瞬少年の大声にびっくりし耳をピクピクとさせたが、にぃと顔を緩め、豪快に笑った。そして、少年も笑った。

少年は空を見上げ、輝く月を見た。手を伸ばしたが、少年の小さな手が月に届くはずもない。

手が届きそうなほど月が近くにあるように見えるのだが、どんなに手を伸ばしても届かない。少年は月を指さした。

「ねえ、月に行ったことある?」

「ああ、数えられる程度だがね」

「ほんと?すごいなぁ。ねぇ、月ってどんなところなの?月で何をしたの?」

ペガサスは目を細めた。

「どうして私から月のことを聞きたがるのかね。そして私が月でしたことを知りたいと思うのかね?」

「だって、面白そうだったら同じ事をやってみたいし、ペガサスという生き物が何をして遊ぶのかにも興味あるんだもの」

「月で何をするかは、自分で決めるべきことだと思うがね」

「どうして?」

「私が月でしたことを聞いて、お前が面白がって私の真似をし、そして満足したとしても、それはお前の夢じゃないことに気づくこともなく、お前は私の聞きかじった話で得た満足感という錯覚に陥ったことになるだけだろう。そういう満足感というものは、お前の成長においての糧の一つにもならないだろう。お前のやりたかったことは、私の真似事だったのかね?君の生きる世界で、もう何百回と月を見上げておきながら、月でやりたいことは、私の真似事だったなんて、ガッカリな創造力だと思うがね」

少年はペガサスの言っている意味がよく分からなかったが、それでもペガサスの言いたいことを心でなんとなく感じることは出来た。

そして、「あっ」と小さな悲鳴にも似た声を発し、月を見上げた。

いびつな月を見つめながら、

「僕のやりたいことあるよ!本当はあるんだ!だって、月を見上げながら、パパとたくさん考えたんだから。」

と、興奮気味に言うと、ペガサスはまた、にぃっと笑った。

「ほぉ、何を考えたんだね?」

「あのね、月はとても殺風景だから、花や草の種をたくさんまくの。それから、ドングリの木とクルミの木を植えるの。うまく花や草が育って、ドングリやクルミの木からドングリやクルミが落っこちてくる季節がきたら、リスやウサギを住まわせるんだ」

「それは最高だ。あの月で、そんな壮大なことを成し遂げたヤツはいないぞ!実現するには時間がかかりそうだな。さあ、月へ急ごうじゃないか」

ペガサスは月へと向かってスピードをあげ上昇しはじめた。

ぐんぐんと空高く登り、エクレアの形をした雲を突き抜けた。

少年は雲に開けた穴越しに下を見下ろした。少年の船は米粒くらいの大きさに見える。月に視線を向けると月がとてつもなく大きくなっていた。再び、船の方を見下ろすと、船はもう見えなくなっていて、まん丸の幻想的な美しい地球を見下ろしていた。写真や映像で見たことのある美しい地球そのものだった。

「僕たちは今宇宙にいるんだね。呼吸ができているのは、君の力なの?」

ペガサスは少し微笑んだだけで、何も答えなかった。

あっという間に月へとたどり着いた。月は思ってたよりも薄暗く、大地はカラカラに渇いた荒野だった。

この月が緑に覆われる風景を創造するだけで、少年の小さな胸は高鳴った。

これからペガサスとともに月の風景をを変えようとしているんだと思うと、少年のドキドキは止まらなかった。

少年がふとポケットの違和感を感じ、恐る恐るポケットに手を入れ、ポケットの中のものをつかみだしてみた

少年の小さな手には、様々な形の種があった。

「種だ!僕のポケットに種が入ってるよ!すごいよ!」

興奮でかすれた声で叫ぶ少年を見て、ペガサスはまたにぃっと笑った。

「さあ、この殺風景な大地に種を蒔こうじゃないか」

少年は頷き、ペガサスの背から見下ろす荒野に種を蒔いた。

ポケットの中の種は減るどころか、どんどん増え続け、少年が大地に種をどんなにたくさん蒔いても、種はポケットからこぼれ落ちるほど増え続けた。

少年を乗せたペガサスは、月の端から端まで飛びまわった。

ペガサスのお陰で、種をまんべんなく大地に蒔くことができた少年は、次に雨を願った。するとどこからか突如雨雲がやってきて、ポツポツと落ち始めた雨は弱々しいけれど、ゆっくりと枯れた大地にしみこんでいった。

しばらくすると、荒れ果てていた大地になんとも頼りない薄い緑色をした芽が顔を出はじめたが、やがて大地にしっかりと根をはりはじめた。

雨がやみ、草花が咲き誇る月に美しい七色の虹がかかった

「虹だ。こんな大きな虹、初めてだよ」

「私もだ。こんなに大きくて、こんなに美しい虹は初めてだ」

ペガサスは目を輝かせているので、少年は嬉しくなった。

「虹のトンネルをくぐれる?」

「さあどうかね。だがここは神秘の場所でもある月だし、君の釣り上げた夢だし、あの虹をくぐれるかもしれない」

そう言い終えると同時にペガサスは虹に向かって飛んでいた。

少年とペガサスが虹に目を奪われている隙に草花たちは、ぐんぐん成長をし始め、薄い緑色の葉は、濃い緑色の葉へと変わり、小さな花たちが大地を彩り始めた。

ドングリの木とクルミの木はにょきにょきと大きくなり、あっという間に地面にドングリやクルミを落としはじめた。

虹に近づくとふっと虹が消えてしまった。

「あ~あ、消えちゃった」

ペガサスは飛ぶのやめて、鮮やかな緑色に変貌した大地の上にふわりと舞い降りた。

少年はペガサスの背から飛び降りて、裸足に草花の感触を感じながら、地球のように、いや地球よりも美しくなった月の大地の上を歩いた。

すると、お腹まわりがもぞもぞしはじめたので、少年がパジャマをまくり上げると、そこからリスやウサギや色鮮やかな鳥が飛び出した。

「うわっ」

少年はびっくりして、尻餅をつくと、ペガサスは豪快に笑った。

リスやウサギたちは耳と鼻を小刻みにヒクつかせながら緑色に染まった大地を楽しそうに駆けまわり、鳥たちは青い空を気持ちよさそうに飛んだ。

少年の目の前に広がる素敵な光景は、父親と話したそのものだったせいもあり、豪快に笑うペガサスが父親が笑っているようにも見えてきて、少年は嬉しくてたまらない気持ちになった。

そうやって、この夜、ペガサスと少年は親友になった。

ペガサスは蓮華の絨毯の上に横たわり、羽根の毛づくろいをしながら、少年がクルミをリスに手渡しする姿を優しいまなざしでちらちらと見ていた。

耳の垂れた茶色のウサギを抱きかかえた少年がペガサスのもとに走り寄った。

「ねえ、次は土星へ行こうよ!土星にかかっている輪っかを大きな川にするの。そして、パパと考えた海賊が乗るようなクールな船に乗って輪っかの川をぐるぐる航海するんだ」

ペガサスはゆっくりと目を閉じ、首を振った。

「今日は無理そうだ」

少年は朝が近づいているのだと気づき、残念そうに頷いた。そして、抱き抱えていたウサギを野に放ち、ペガサスの背に乗った。

月を背にしてペガサスは飛びはじめた、少年の船へと向かっているのだろうか。

朝になれば、この親友と別れなければならないことをすっかり忘れてしまっていた。

言葉に出さず、夜明けが来なければいいのにと、心の中でそっと強く願った。

「どうして私を呼び出したのだね?」

ペガサスが少年に静かに問いかけた。

「パパも夢の釣り人で、ずっと前にパパが君の話をしてくれたことがあったんだけど、ふいにその話を思い出したんだ。そうしたら、どうしても君に会いたくなったんだ」

「洋二郎か?」

「そう!そうだよ!パパを覚えていたんだね」

「忘れないさ。あの夜は最高の夜だった。洋二郎は変わらず元気かね?」

少年はペガサスの背にほほをつけた。

「・・・死んじゃった」

「・・そうか。もう一度会いたかった」

「パパも同じことを言っていたよ。でも、パパは君を釣ることを願わなかったんだ。君ともう一度この海を旅したいって、懐かしそうに話してたよ。君のおかげで夜の海が怖くなくなったんだって。パパが立派な夢の釣り人になれたのは君に会えたからだって言ってた。君に会いたいなぁってよく言ってた。あんなに会いたがってたんだから、願えばよかったのにね。でもパパは、また偶然に君を釣り上げて逢えたらいいなって言うだけだった。大人になったパパはこの場所に来ることができなくなってたけど、もしもまたここに来ることがあって、偶然君を釣れたらいいなって。本当に会いたいと思うなら、願えばよかったんだ。僕みたいに。願わずにいたパパはすっかり大人になってしまって、ここへ来ることさえできなくなってしまったんだ。」

雨粒が少年の頬に当たった。いや、違う。これはペガサスの涙だ。ペガサスはスピードを上げた。昇ってくる太陽から遠ざかろうとしているようだった。夜明けから逃げて、もっと少年から、少年の父親の話を聞きたいのだろうか。だが、さすがのペガサスでも、夜明けから逃げることは出来なさそうだ。

少年が後ろを振り返ると、空はうっすらと明るくなり始めていた。

「もうすぐ朝だね」

「そうか、もう朝なのか」

「また僕を背中に乗せてくれるかな」

「嫌だ」

とても悲しそうな声でペガサスは答えた。

「またお前を背に乗せ、土星にかかった輪っかを川に変えてかっこいい船で旅したり、それ以外にもたくさんの思い出を作って、今よりもっとお前と仲良くなったあとに、お前の死を知らされる日が来ると思うと悲しいじゃないか。私は不老不死。もう二度と友を失う悲しみを味あわせないでくれるとありがたいのだがね」

少年は再びペガサスの背に頬をつけ、

「うん、分かった。君を傷つけることはしないよ」

と呟いた。

そして、ペガサスを釣り上げることを願わなかった父の本当の思いも知った気がした。

ペガサスの涙が、少年の左腕にあたった。

「ねえ、僕思うんだけど」

ペガサスは何も答えないが、耳が少年の方に向けられていた。

「僕、もう一度、ううん、何度でもいっぱい君に会いたいんだ。今日よりもうんと仲良くなったっていいじゃない。僕が年を取ってパパみたいに死んじゃう日が来たとしても、僕たちの思い出をたくさん残したいよ。だってパパとの思い出は、いつだって僕を幸せな気持ちにさせてくれるもの」

ペガサスの耳がピクリと動いた。

「せっかく友達になれたのに、思い出がたった一つだけだなんて、そんなのさびしいよ。」

ペガサスの言葉を聞く前に、少年は夢から覚めた。涙で枕がぬれている。頬に残った涙を拭うが、少年の目から溢れる涙は止まらなかった。

涙は止まらなくても、少年は嬉しい気分だった。父親を知っているペガサスに出会えたのだと思うと、自然と笑顔になった。


「そろそろ起きなさい」そう言いながら戸を開け部屋に入ってきた母親は、泣いている息子に驚いて「どうしたの?怖い夢を見たの?ママがいるから、大丈夫だからね」と少年を優しく抱きしめた。

母親の温もりはペガサスの温もりとは全然違っているが、どちらも少年を心から安心させるものだった。

少年は母の腕に包まれながら、いつか偶然にペガサスを釣り上げることがあったなら、父がペガサスに乗った日の話をきこうと思った。そして、父がききそびれて知りたがっていたペガサスの名前も・・・・

「ママ、僕はもう11歳だよ。怖い夢で泣いたりしないから。子ども扱いしないでよ」

少年は母親をにらみつけたので、母親も少し睨み返した。

「じゃあ、なんで泣いてるの?」

「パパに・・・・」

「会いたいのに、会えないから?」

「うん、そう。」

「そんなの、ママだった同じよ。ママだって寂しい思いをしてるわ」

「僕のほうがママより寂しい思いをしてるよ!」

母親は微笑んで、おでこを息子のおでこにくっつけた。

「家族にこんなに思われて、パパは幸せね。きっと今、パパが笑って私たちを見てるわね。」



※夢の中での出会いは夢の中だけのものではない※


ペガサスと出会った夜をきっかけに少年は夜がやってくることにうんざりすることはなくなった。

毎夜、闇の海で小さな舟から夢を釣り上げるとき、ペガサスが釣れるかもしれないと思うだけで、ドキドキするし、嫌な夢を釣りあげてしまったとしても、もう怖がることはないのだと知ったのだ。


父親の死から五年後、母親は再婚した。

再婚相手の男はおしゃべりで気のいい人だったので、少年は新しい父を好きになるのに時間はかからなかった。そして何よりも母親が幸せそうに笑うのを見るのが好きだった。

母親を笑顔にするだけでなく、少年の将来を本気で心配し、熱い話を少年にしてくれる素晴らしい父親だった。

再婚から二年半後に、 父親の転勤が決まり母親は父について行くことにした。

両親には「大学も受かったことだし、もう一人だって暮らしていけるさ。僕は大丈夫だよ」そう言って二人を安心させた。


少年は成長するにつれ、夜の海につき放たれる回数は激減していた。

12歳のころには1ヶ月に5、6回のペースとなり、13歳の年には10度ほど行ったものの、14歳の年は一度も行くことはなく、そのまま18歳の誕生日を迎えた。

随分大人になった自分の姿を鏡越しにみながら、「もう行けないのかも。ペガサスの名前聞きたかったな。」と呟いた。

枕元に置いていた釣竿を手に取ると、クローゼットの奥に押し込み戸を閉めた。

だが、ペガサスとの真夜中の飛行を思うと会いたいという未練が勝り、再び戸を開け釣竿を引っ張りだすと枕元に置き直した。

鏡に映る自分を見て、「こういう事を女々しいっていうのかな」と自分に問いかけ、小さく息を吐き出した。そして、釣竿を再度クローゼットへ押し込んだ。

独り暮らしにもすっかり慣れた大学1年生の初夏の夜、ベッドの中で数ヵ月ぶりにあの感覚にとらわれた。

ああ、これから僕はあの海に放り込まれるのだと、薄れ行く意識のなかでボンヤリと思った。

ふっと目をあけると、闇夜の海の上に横たわっていた。いや、船の上に横たわっていた。

右腕だけの力で体を起こし、久しぶりの闇夜の世界で穏やかな海を漂っていることに懐かしさを覚えた。

船の上を見回し、釣竿を探した。数年もの間ここに来ることがなかったのでもう来ることはないのだろうと思い、釣竿をクローゼットにしまい込んでしまったあの日の事を後悔した。

「あ~あ、もう少し置いとけば良かった、ちくちょう。ペガサスに会いたいなぁ」

心もとなさと、手もちぶたさを隠すように、両手を頭の後ろで組んで寝転がった。

釣りができなければ、ここですることはただひとつだ。

船上に寝転び、月と無数の星を眺めること、それだけだ。


空に浮かぶ月を見つめた。半分形を失った月をながめながら、上弦の月だったか、下弦の月だったか、この月をどう呼べばいいのか少し悩んだのち、「どっちでもいいや。月にかわりはない」と少年は呟いた。

暇をもてあまし、鼻唄を歌っていると、女の子の叫び声が聞こえた。

「ねぇ~!誰がいるぅ?」

女の子の声は、少し怒っているようにも聞こえる。

青年は起き上がり辺りを見渡したが、誰もいない。

いるはずなどない。これまで何百回とここに来たが、釣竿で釣り上げない限り誰とも会うことなど一度もなかったのだ。

青年はもう一度寝転んだと同時に船が激しく揺れた。

驚いて飛び起きると、女の子が船にしがみついてた。

「なんだ、いるんじゃない。返事くらいしてほしいわ」

そう言いながら船に乗り込もうとするが、水を吸った服が体にまとわりつき動きを制限しているようで、うまく這い上がれない様子でもがいている。

「君、誰?」

青年の問いかけに、女の子は青年を強く睨み付けた。

「え、な、何?」

青年は船先に後ずさりする。

「この状況を見て、助けようって気にならないの?質問をするなら、私を助けたあとにしてよね」

青年は3度ほど高速で瞬きをしたあと、女の子の腕に手を回し、船上に引き上げた。

女の子は頭と体を、犬がするみたいにプルプルと振るわせた。

「うわっ、冷たいっ」

水飛沫がかかるのを、両手で防ごうとしたが、全く効果はなく青年は女の子の水飛沫をあびることになってしまった。

「冷たいよ」と言いながらTシャツで顔をふき、女の子を見ると、青年はまた驚いて後ずさった。

あんなに濡れていたはずなのに、髪も洋服もすっかり乾いていたのだ。

「え、もう乾いたの?なんで?なんなの?」

目を見開いた青年が尋ねると、女の子は顔を右斜め上に向け不敵な笑顔を作った。

「夢の中だもの。なんでもありでしょ~よ」

と言うと、女の子は空を見上げた。

女の子はこの世界に慣れていて、青年よりよく知っているように見えた。

青年はこの女の子に質問を浴びせる準備をし始め、頭のなかで質問事項の整理にかかった。

「あの星がいいわ。1番キラキラしてる」

女の子は両手を合わせぎゅっと握りお祈りのしぐさを見せた。

呆然と見つめる青年にほんの一瞬視線を送ると、組み折り畳んでいた人差し指を伸ばした。

どうやらピストルを形どったようだ。

女の子は両手で作ったそのピストルを空に向け、二人の真上にある黄色がかった一番大きく輝く星に向けた。

「ばっっっきゅーーーん」

女の子が銃声を真似て叫び、星を打ち落とすそぶりをした。

青年は数秒空を見上げていたが、何も起こらない。

青年が女の子に視線を移すと、

「目をそらさないで。空を見て。ほら、もうすぐ落ちてくるわ」

「え、何が?まさか、星が落ちてくんの?」

青年は再びのけぞった。

空を見上げる女の子を青年は見た。

真っ白で艶のある肌は、現実味がなく同じ人間とは思えないが、茶色の瞳は確かに生きてると感じさせる光を放っていた。

「ほら、落ちてきた!」

そう嬉しそうに言う女の子の声はどこか遠くに感じ頭に入ってこず、女の子の銃に打ち砕かれた無数の星屑がキラキラ光を放ちながら降り落ち、少年のところまで落ち迫っているのをぼうっと見ていた。

女の子が少年の腕を強く掴み引っ張った。

「しまった!真上を狙いすぎちゃった!ここに落ちてくる。当たったら大変!危ないわ!船を、早くっ」

「えっ、何が?」

「ああっ、間に合わない!海に飛び込んで、船の下にいくのよ」

女の子は素早く海のなかに飛び込んだ。

青年がもう一度空を見上げると、空からキラキラと輝くものが少年めがけて落ちてきていた。

「うわぁ」

あんな高いところから落ちてきた星の欠片に当たったら死んでしまう。少年は海に飛び込み、船の下に移動した。星のかけらが船に穴を開けたらどうしようとそんな心配をしていた。

その刹那、キラキラ輝く大量の物体が次々海の中に落ちた。

黄色がかった物体は光を放ちながら海の底へ落ちていった。

深い海の底へ向かって、黄色い光が遠退いていく。

キラキラ光る星の欠片を夢中で見ていると、女の子が青年の腕をつかんだ。

「ねえ、海の底に行こう」

青年は目を見開いた。

「もう!じれったいわね。ここは夢だもの。想像すれば出来ないことはないのよ。海の中だって息も出来れば喋ることもできるの!」

青年は顔を横に振りながら、鼻と口から体に残ったわずかな空気を吐き出してしまった。とうとう息がもたなくなって、海面に顔を出した。ぷはーっと思い切り息を吸った。

肺に新鮮な空気が入るのをこれほど感じるのは初めてであり、生き延びたという安堵に包まれた。

遅れて女の子が水面から顔を出した。

「もう、面倒くさいなあ。海の中でも息は出来るってばっ」

「無理だよ。死んじゃうよ」

「大丈夫。私はここに来るといつも海の底にに行ってるもん。」

「船は?」

「船なんてない」

「溺れて死んじゃうよ。ここで溺れた人は、もう夢から覚めないんだよ。死んじゃうんだ」

「知ってる。でも、それは想像力がないからよ。ここは何でも思い通りになるのよ。想像すればいいのよ。例えば、海の中でも呼吸ができるって想像しちゃえば、海のなかにずっといたって平気よ」

「まさか、そんなこと」

「だって、私がそうやってやってきたもの。疑われも困るんだけどな。」

青年は目を細め女の子を見た。

「あなたって、心配性なのね。うーん、心配性ってのはなんか違う。しっくりこないわ。そうねえ~、臆病者、小心者、引きこもり、文科系・・みたいな感じ?」

青年はフイと顔を背けた。

「違うの?じゃあ、そうねぇ、何も出来ないくせに、やればできるけど自分はやらないだけなんだって勘違いしてる高飛車男ね!」

「全部違うよ!」

「違わないじゃない」

さっきまであんなに元気だった女の子が、とても小さく呟くように言うので、少年は女の子が泣いてるのかもしれないと動揺した。

「知らなかっただけだし、教わらなかったんだから、仕方ないだろ」

青年は船上に這い上がった。そして目を閉じ、体も服も髪の毛も濡れていいない姿を想像した。風がふわっと体一瞬巻き付いた気がして、目を開けたら。すると、青年は海に落ちる前の姿に戻っていた。

「うっわっ!マジかあ。ホントに乾いた!」

青年はTシャツを引っ張り乾いていることを確めた。

「ホントに何も知らないのね。教わっこ事以外何もしてないなんて、なんて冒険心がないのかしら」

海の中で立ち泳ぎをしながら呆れた顔をしている。

青年は手を差し出し、

「はいはい。冒険心がなくて悪うございました。ねえ、取り敢えず上がって。ここの事もっと教えてよ」

と優しい笑顔を女の子に向けた。女の子は少しドキンと胸が高鳴り、青年の手を握ると頬が熱くなった。

女の子はぎこちなく青年の隣に座った。

「僕はこの世界の事を父さんに教えてもらったんだ。今日は持ってないけど、僕の家に古くから受け継がれてきた釣竿があって、僕はそれを使って、ここで色々なものを釣りあげてたんだ。ここに来る人は皆、同じだと思ってた。たぶん父さんも、おじいちゃんもさ、想像すれば何もかもが叶うなんて思ってもなかったんじゃないかな」

青年はそう言って、俯き加減に笑った。

「何がおかしいの?」

「え、だってさ、釣竿なんて使わなくたって、想像さえすれはここで釣りは出来るってことだろ?釣りの心得というかルールみたいなの聞かされて守ってた自分がおかしくてさ」

女の子は身を乗り出し、青年の顔をじっと見つめた。

青年は女の子のまっすぐな視線を向けられることに戸惑った。

「あなた、釣り人なのね!」

「えっ?」

「ここでは想像すれば何にでも叶うけど、何かを産み出すことも、連れてくることも出来ないのよ!出来るのは夢の釣り人だけ。」

「え、そうなの?」

「ほんと、何も知らないんだから。い~い?ここで私が出来ることは、星を打ち落とすことと、泳ぎ続けて自分の夢と誰かの夢の境界線を見つけて、誰かの夢の中に侵入することだけなの。」

「え、夢の境界線?人の夢に侵入って。じゃあ、僕の夢の中に君が入ってきたってこと?」

「そうよ。あなたの夢の境界線を見つけたの。入ってきたらひビックリ!」

「え、何が?僕の夢は人と違うの?」

女の子が頷いた。

「そう、ぜーんぜん違う。私の夢と同じように真っ暗な海があるけど、ここには月がある。私の海には星がたくさんあって真っ暗ではないけれど、月がないからとても暗いの。でもここは明るいわ。月のある海は夢の釣り人の海なのよ。月のある海に来たのなんて初めて。いつもなら、夢の所有者の通ってる学校だったり職場だったり、景色のきれいな場所だったり、場所は色々だけど、私の海と同じなんてなかったわ、まあ、あなたが夢の釣り人なら、仕方ないわね」

女の子にこんなに羨ましがられると、夢の釣り人である自分を少しだけ誇らしく感じだ。

「ねえ、どうして今日は釣竿を持ってこなかったの?」

「ここ何年もの間ここに来ることはなくなってたから、もう来ることはないだろうって思って、クローゼットの奥にし舞い込んでたんだ」

「残念~、見たかったなぁ。ねえねえ、何を釣った?どんなものでも釣れるって本当?」

「さあ、どうかな」

「焦らさないで教えてよ」

「焦らすとかじゃなくて、混乱してて」

女の子の首を右に傾け、「混乱?」と難しいことを考えるような顔をした。

「父さんが若くして死んじゃって、この海の事を全ての事は聞けなかったんだ。でも本当は故意に全てを話さなかったのかなって思えて。僕が僕自身でここの事を知ればいいって思ってたんじゃないかって思ったら・・。聞かされた事しかしなかった僕は何をやってたんだろうって君の話を聞いてたらさ、父さんの考えてた事とか色々な事が僕の頭の中で混乱し始めたんだ」

「そうなんだ。ごめんね、さっきの私の態度、ひどかったよね。」

青年は優しく笑って見せた。

「別に気にしてないよ」

「優しいのね」

「優しいのかどうなのかはよくわからない。でも、君にこの世界の事を聞けて良かった。僕はここには何度も来てるけど、知らないことばかりだ。ねえ、名前教えてくれない?僕の名前は」

「名前は言わないで」

「どうして?」

「名前って、相手にものすごーく強烈な印象を与えると思わない?よく話してもないうちから、勝手にこの人はこういう人なんじゃないかって想像しちゃうもの」

女の子は名前で嫌な思いをしたことがあるのかもしれないと青年考えていた。

「名前がなければ、あなたは私の、私はあなたのそのものを理解しようとするし、名前にとらわれないあなた自身を知ることが出来る、そんな気がするの」

青年はふうん、そんなものかなぁと小さく2度頷いたが、食い下がった。この目の前にいる女の子に好意を持ったからでもあるが。

「ねえ、やっぱり名前聞いちゃダメかな」

女の子は大人びた笑顔を作った見せた。

青年は自分より年下の女の子だと思いこんでいたが、そうでもないかもしれないと考えをかえた。


目を覚ますとすっかり日が昇り昼になっていた。

学校に向かおうと自転車に股がると、突然雨が落ちてきた。

青年は自転車を諦めて、バスで学校に向かうことにした。

バスに乗ると、闇の海で出会った女の子によく似た女の子の横顔を見つけた。少年は目を細めて女の子を観察した。視線を感じたのか、女の子がふっと視線を上げ青年を見た。

目が合うと「あっ」とお互い声を発し、そして二人同時に笑った。

だがバスの中で二人は会話を交わすことはなかった。

その夜、少年は釣竿を持ってベッドに潜り込んだ。海の上で、青年の船の上で、青年の隣には昨日の女の子にがいた。

「名前聞いてもいいかな」

「るな」

「えっ」

「何、どうしたの?」

「あ、いや、るなってさ、月の女神と同じ名前だから。」

「へえ、そうなの?知らなかった」

「なんか、この世界にぴったりな名前だよね」

るなは月を見上げた。相変わらずいびつな形をした月がある。

「ねえ、秘密にしよ」

「え、何が?」

「ここの事も、私たちがこうしてることも、全部秘密にしてほしいの」

「そうだね。ここの話を誰かに話しても、頭がおかしいって思われるだけだから、言いたくても言えないし、いいんじゃない」

るなはふふっと小さく笑ったがすぐ真顔になった。彼女自身この世界に来ることを悩んでいたのかもしれない。

るなは釣竿を指差した。

「これで夢を釣るのね。」

「そう、父親が・・今の父親じゃなくて本当の父親がさ、残してくれた大切なものだよ。それからこの船も。」

「ふうん。今日は何を釣り上げるの?」

「友達をるなに紹介しようと思って。本当はさ、願いを込めて釣っちゃダメだって言われてたんだけど、会わせたいんだ、どうしても会わせたいって思って」

「友達?この世界の?」

「そう。めちゃめちゃかっこいいヤツで、僕の父親とも友達だったんだ。君を紹介したらきっとまた豪快に笑って喜んでくれるに決まってる」


※遺書ー父からの手紙※


『遺書』と、題名のようなものを書いてみたら、とても大げさなように感じるな。でも、たった1人の息子に伝えたい事を書き残すなら、『遺書』という言葉がふさわしいと思ったんだ。

大人になった君が読んでくれている、そう空想しながら書こうと決めたから。


二十歳の誕生日を迎えた今朝、ベッドの中で17歳の夏に行ったあの日に想いを馳せていたんだけれど、僕の記憶は不鮮明になりつつあるってことに気づいたんだ。

僕はハッとして、僕の記憶を書き遺さなくちゃって思ったんだ。


君はもうよく知っていると思うけれど、夢の釣り人が行く異次元の世界には陸はなく海しかない。月明かりに反射し光る水面はどこまでも続いている。そんな見飽きるほど見た光景さえも僕の記憶から遠のき始めているんだ。だから17歳の僕の話を残しておきたくて、そしてなによりも君に知っていてほしいと思うんだ。

小さい頃から毎夜のように僕は船の上で過ごしていた。僕のベッドは僕が眠りに落ちると船に変貌するんだ。かっこいいだろう?そう、こんなにかっこいいベッドなのでけれど、僕の船はとても小さくて、広大な海に太刀打ちなどできない。

真夜中の海の上で一人きりというのは心許ないので、陸を見つけてやろうと躍起になって船を走らせたな。だがどんなに進もうとも陸地にたどり着くことはなかったよ。あの何もない海の上で僕はどれだけの時間を費やし陸を探し求めただろう。いったい僕はあの海の上でどれだけの時間を過ごしたのだろう。

僕の船はあまりにも小さく頼りないものだから沈んでしまわないかと、ふとした瞬間に不安になるのだけれど、この小さく頼りない船が僕の命を守ってくれていた。どんなに頼りなくても、この船に絶対の信頼を寄せるしかないと言い聞かせてた。そして、僕は海に落ちることもなく、こうして生きていて、二十歳になったんだ。

こうして生きているのは、17歳のあの日があったから。


17歳になった僕は10ヶ月ぶりに異次元の海へやってきた。大人になるにつれ、その場所へ来る回数は減っていた。

夢の釣り人だけが来れる異次元の世界は、久しぶりに訪れるとなかなか良いところだと思ったよ。

真っ黒な海と月とまばらな星があるだけの世界。それでも、良いところだと思ったんだ。

これまでも何度も何度も異次元の世界にやってきて、どんなに船を走らせても陸にたどり着けなかったし、他の船に遭遇することもなかった。それに、釣りをして悪夢を釣り上げた日なんて、本当に最悪だった。こんな風に過ごすのが僕だけの夢の中の世界だ。いや、夢とは違う気がする。僕は眠りに落ち、異次元の別の世界へテレポーテーションしていたのではないだろうか。

僕と同じ夢の釣り人に会うこともないので、ここでする事といえば、陸を探し求めるか、何もしないか、釣りをするかの三択だ。

今日が最後の夜だと確信していた僕は、釣りをすることにした。

どうして今日が最後の夜だと確信していたのかは分からないのだけれど、最後だと根拠なく確信していた。だから最後の釣りを楽しむことにした。

そして、最期の夜に釣り上げたのはウサギを抱き抱えた6歳の少年だった。そう、君のことだ。時空を超えて君を釣り上げたんだ。この遺書を大人になった君が読んだ時、6歳の君の記憶が残っているだろうか。はたまた僕の釣り上げた6歳の君は僕の想像の産物に過ぎなかったのか。僕が17歳の時に出会った少年がこの先現実の世の中に本当に誕生するのか、それは分からない。でも、17歳の僕が出会った少年が僕の息子として生まれてくるって、信じていられるほどリアルだった。

君が6歳になった時に僕がまだ生きていたとしても、たった6歳の幼い君に僕と出会ったかと聞くことはしない。幼い君を混乱させることはしてはいけないと思うから。実際のところ聞きたくて仕方ないのだけれどね。

とにかく、僕は6歳の少年を釣り上げ、人生が一変したんだ。


釣り上げた少年は無邪気で、好奇心旺盛だった。目をキラキラさせながらこう言った。

『わあ、僕と同じ船だ。お兄さんも釣り人なんだね』

僕は驚いた。釣り人が釣り人を釣り上げるなんて、そんなことあるのか、と。

『僕ね、僕も夢の釣り人なんだよ。まだ一度しか来たことないけれど、ここは夢が叶う楽しい場所だよね。僕は釣る側だと思ってたけど、釣り人が釣り人につられることもあるんだね』

少年は抱き抱えたウサギの撫でながら、そう無邪気に話し続ける。

『ねえ、お兄さんは何を釣った?僕はねウサギをたくさん釣ったよ。白いのと、茶色いのと、まだら模様のとかね、色んなウサギと遊んだんだ。まだね、一回きりなんだけどね。でもきっとこれから何度も何度もこの場所に来るんだ』

『一回だけ?』

少年はむぅーと顔をしかめた。

『何回も行ってる人の方が偉いの?』

そう言う意味で言ったわけじゃないのだけれど、少年の目には僕の言い方が、まるで見下しているような、でなければ小馬鹿にしているように見えたらしい。

『ごめん、そう言う意味じゃないんだ。これから君はここで色んなものを釣って、色んな事を考えるんだろうなって。そう、思ったんだ』

少年は笑った。少年の笑顔が自分の子供時代に似ていると思った。

『お兄さんの困った顔、パパにちょっとだけ似てる』

僕たちはどこかで繋がっているのかもしれない。夢の釣り人の血を受け継いでいるのだから、血筋を辿ればどこかの世代で繋がっている可能性は大いにあるのだ。

『遠い親戚かもしれないな。夢の釣り人の血が流れてるなら、親戚でもおかしくないだろ』

『そっか、そうだね。お兄さんをパパに合わせたいな。パパはね、優しいんだ。それにとっても怖がりなんだよ』

『大人の男なのに、怖がりなんだ』

『そう、笑っちゃうよね。僕はウサギが大好きなんだけど、パパは噛まれたらどうしようなんて言ってウサギを触れないんだよ〜。だからね、僕がパパをウサギから守ってあげてるの』

『その抱いてるウサギを飼ってるの?』

『ううん。ママがね、家にウサギがいたらパパが帰ってこなくなっちゃうかもしれないからダメって言うの。だから、動物園に行くんだよ。僕の行く動物園はウサギを抱っこできるの。ウサギを抱っこしてパパの側に行くと、パパは困った顔をするだ』

少年はケタケタと笑った。

でも僕は笑えなかった。なぜなら僕もウサギが怖いからだ。いや、ウサギだけじゃない、動物全てが怖いのだ。意思疎通の出来ない相手を触って、怒らせたら、噛まれたら、そう思うと怖くてならないのだ。

だから少年が抱いているウサギを離して、ウサギが僕に近寄ったら、小さな船に逃げ場はなく、僕は海に飛び込むことになるだろう。

だけど、ウサギが怖いなんて思われたくない。

少年は僕の顔を覗き込んだ。上目遣いの少年は、愛らしくかわいい。

『本当にパパみたいだ。大丈夫だよ。僕はパパをウサギから守るって約束してるの。動物園に行ってね、ウサギがパパに近寄ると、僕はそのウサギを抱き上げてるんだよ。パパは笑顔で『頼もしいなあ。』って僕を褒めてくれるよ。だから、お兄さんのこともウサギから守ってあげるよ』

『ウサギなんか怖くないって』

僕は小さな嘘をついた。どうせ、ここに来るのは最期だし、この少年に会うこともないのだから、こんな嘘くらいどうってことないだろう。

『そっかぁ。なーんだ。パパに似てるから、お兄さんもウサギが怖いのかと思った』

少年はつまらなさそうな顔をした。けれど僕はウサギが少年の腕の中から飛び出さないかとヒヤヒヤしている。

『守ってあげたいなんて、優しいね』

そう声をかけると、少年は顔を左右に振った。

『人にはそれぞれ怖いものがあるでしょ。僕の怖いものはパパは平気だったりするみたいにね。片方が守られてるだけじゃダメなんだよって、ママが言ってた。家族は守り合うんだって。守りあって、助け合って、そうやって暮らすんだよって。だから、僕の家族は仲良しなんだよ』

少年はまるで大人がするような笑みをこぼした。

『いい家族だね』

少年は頷いた。少年の瞳が濡れている。

『どうしたの?僕は何か君を傷つけることを言ったかな?』

『ううん。言ってない』

少年はパジャマの袖で涙を拭いた。

『パパは長生きできないんだって。それから僕も』

『うん、僕もだよ。それは夢の釣り人の宿命だからね』

『パパと僕が死んだらママが可愛そうだって、パパが泣いてたんだ。ママか寂しくないようにするにはどうしたらいいかパパと考えてるけど、どれもいい考えじゃないんだよ。』

『そっか。それは難しい話だよね』

『お兄さんは考えたことないの?』

『うん、考える必要がなかったからね。父さんも夢の釣り人で4年前に死んだよ。でも母さんは再婚して幸せそうだから』

『再婚かあ。それなら一人ぼっちじゃないからママは寂しくないね』

僕は心が痛んだ。僕は母親の再婚を快く思っていなかったからだ。

『うん、そうだね。僕もそう遠くない未来に、母さんより先に死ぬんだと思ったら、母さんの再婚を喜ぶべきだったんだね』

『お兄さんは喜ばなかったんたね。』

『うん、母さんにね、『父さんがかわいそうだ』って怒鳴ったよ。そっか、僕は悪いことしたんだ。母さんの孤独な未来を考えてなかったんだ。謝らなくちゃ』

少年に視線を落とすと、少年は微笑んだので、僕も微笑んだ。

『ありがとう』

『どういたしまして。やっぱりお兄さんはお父さんに似てる』

『そうなの?』

『うん、笑った時のね、目の形もそっくりだよ』

『そっか』

『うん。』

少年は何かを思いついたのか、目を一瞬見開き、次の瞬間には意地悪な笑顔を浮かべていた。僕は少し嫌な予感がした。

『はい』

そう言って少年はウサギを僕に抱くように差し出した。

僕は思わず後ろへのけぞってしまった。少年はニヤリ顔で

『ほら、やっぱりね』

そう言ってウサギを撫でた。

僕は苦笑した。

『僕のウサギは誰のことも傷つけないのに』

少年はウサギの後頭部にキスをした。ウサギは目を細めている。

少年が僕に視線を向けた。僕を父親と重ねているのだろう、なぜなら親しみを感じる視線だったから。

『パパがね、パパのパパに言われた事があって、その答えを僕はいつも考えてるんだ。』

『へえ、それはどんなこと』

『誰かを置いて死んでしまうのと、誰かに死なれて置いていかれるの、どっちの方が辛いのかな。』

そう少年が口にした時、僕はハッとする。父親が死の間際に僕に残した言葉だったのだ。

僕は少年を念入りに観察した。

爪の形が僕の爪の形とよく似ている気がした。

『あ、あのさ、君のパパは他にも何か言ってたかな?つまり、君のおじいさんの話をさ』

『パパのパパも、ウサギが怖かったんだって』

僕の心臓は高鳴った。僕の父親もウサギが嫌いだったから。

僕は今、未来の自分の子供にあっているのかもしれない。

僕は少年を抱きしめた。

『お兄さんどうしたの?』

『僕は、死のうと考えてたんだ。どのみち僕は長生きできないから今死んだって同じことだろう。それに母親は再婚しちゃって、家には僕の居場所はないしさ』

僕は未来に出会うかもしれないこの少年の存在を消してはいけないのだ。僕が死んでしまうとこの少年は誕生しないのだから。

僕は少年を抱きしめたまま泣いた。ウサギが僕と少年の間でモゾモゾと動くのが分かったけれど、もう怖くはなかった。

『僕は死ぬことばかり考えてたんだよ』

『やだよ』

少年はそう言って泣いた。僕は腕の中で泣く少年を抱きしめる腕の力を少し強めたと同時に僕の腕は空を切った。

ウサギを残して少年だけが消えたのだ。

残されたのは僕とウサギだけ。


ウサギは船端に前脚をのせ、鼻をヒクヒクされながら月を見上げた。

『お前は少年にまた会うだろう』

僕はひっと悲鳴をあげた。

ウサギは月を見上げたままだ。

『ウサギだって、喋るさ。少年を怖がらせない為に黙ってるだけさ』

ウサギは視線を僕に向けた。鼻はヒクヒクしている。

『噛みつきゃしないさ。優しく撫でてくれれば誰のことも傷つけないさ』

僕はそっと手を伸ばしウサギの背を撫でた。ウサギは気持ちよさそうに目を閉じた。そしてウサギはふっと消えてしまい、僕はひとりぼっちになった。





この遺書はあの時の少年、そう6歳の息子の君に出会った事で、僕がどんなに救われたかを伝えたくて書いているんだ。息子が分別つく頃、僕は生きていないのだろうな。

夢の釣り人は短命である。そんな残酷な運命を息子にまで背負わせてしまう僕をどうか許してください。

今、この遺書を書いている僕は二十歳だ。先週、僕はステキな女性に出会った。僕は彼女を食事に誘ったんだ。

もしも彼女との間に君が生まれたなら、6歳になった君が17歳の僕に出会うだろう。僕は17歳の時もウサギが怖かったんだ。だけど、6歳の息子に負ける気がして怖くないふりをしたんだよ。

僕は馬鹿みたいに強がってみせたけれどね。でも君と会ったその日にウサギは怖くなくなったし、ウサギに触ったんだよ。


この『遺書』で僕が言いたかったことは、6歳の君に僕は命を救われたんだという感謝の気持ちなんだ。

それから、命を救われた感謝の気持ちほどたいしたことではないけれど、僕はウサギは怖くないってこと。君の抱いていたウサギのおかげで僕はウサギへの恐怖は払拭されたわけだ。

だけれど、17歳の僕と6歳の君が時空を超えて会うためには、僕がウサギを怖がってる大人でなくちゃいけないだろう?

だから、僕はウサギを怖がってるフリをしていただけなんだって事も君に知っておいてもらいたい。

いや、命を救われた事を知っておいてもらえたらそれで満足なんだけれど、ウサギのこともちょっとだけ知っておいてくれたら嬉しい、のかなって。


二十歳の僕は、まだ君の父親にはなってないけれど、遠くない未来には君の父親になっている男の独り言のような遺書をここに残します。



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