竜王恋物語
「ん……」
鼻をくすぐるのは春の若草の薫り。
ちょっと好きな匂いなんだけど、内緒にして置こう。ぼんやりとそんなことを考えて、寝返りを打とうとした。
「?」
けれど、寝返りが打てない。
何だか狭いところに押し込められているようで、のろのろと瞼を開けると、
「すー、すー」
やけに大きな青いトカゲが瞳に映った。
……まァ、比喩だけど。
わたしの目の前で寝息を立ててるのは三百センチほどの大きなドラゴン。深海色の鱗に覆われて、瞼を開ければその瞳の色もスカイブルー。ドラゴンにこんなことを言うのもなんだけど、格好いい顔立ちだとも思う。
わたしの寝返りの打てない理由に戻ろうか。
わたしはこのドラゴンに頼まれて添い寝をしてたはずなんだけど、何故かすっぽりと程よく筋肉の付いた腕に抱え込まれていた。
「む。起きたのか、可憐」
「アンタさ。わたしと添い寝するって言ったけど、結構な確率でアンタに潰されるわよ?」
ぐいーっと目の前のドラゴンのたてがみを引っ張ると、
「虚けが。おれが好きなものを押し潰すか」
と、低い声で断言された。
「いやいやいやいや。この格好もかなり危ないってば。ちょっとでもぎゅっと締められれば死ぬわよ? わたし、人間なんだもの。竜王のアンタと違って!!」
わたしがずりずりと竜王の二つ名のあるドラゴンの抱擁から逃れると、
「その竜王に召喚され、気に入られているのだ。光栄だろう?」
いけしゃあしゃあと続けられた。
まずは説明しよう。
この国はわたしの世界とはまるで異なる、そう、 お伽の異世界だ。
ここは、そのファンタジーの世界だと勇者の生まれる人間の国、ユウシャが挑む魔王の居る魔界、そして両方の勢力の属さない者の住む竜の国と区切られた三番目の竜の住処。
ばっさり言うと、こんな感じ。
目の前のドラゴンは力の象徴の生命体・ドラゴンの蔓延る国で唯一、竜王を名乗れる存在、らしい。
「見えない。全ッ然見えないわ」
「可憐よ。何故かお前から悪意を感じる」
だって竜王と言うのに、これは一日丸くなって寝ているか、わたしの傍でごろごろしてるかだ。
ドラゴンに憧れる人間を幻滅させかねない。
まァ、わたしは欠片も憧れて無かったけど。ファンタジーで空想の生き物だと思ってたけど。
そんなわたしはこのドラゴンが居る、竜王の宮殿に召喚された。
召喚。
そう、悪魔を呼び出すあれと同じ。大仰に魔法陣を書いて、怪しい呪文を唱えると異世界から異物を呼び出せるお取り寄せ出来るあれ。ちょっぴり前のバレンタイン当日、わたしは子の竜王様にお取り寄せされてしまったのだ。
※
「ああ、畜生。チョコを貰えた奴死ね」
下校時間に同じ中学生男子が何故か自分の下駄箱に向かってそんなことを漏らしていた、チョコを貰えた幸運な友達に、一斉の呪いの眼差しが向けられるバレンタイン当日。わたしと言えは勿論、誰にあげる宛てもないチョコなんか持って来ない。義理? お金の無駄。
この可愛くない奴が、無花果 可憐。
恋を知らない中学一年生だ。
世界が茜色に染まる、夕方。
唐突で申し訳ないが、帰り道でわたしは軽トラックに撥ねられかけたのだ。曲がり角を曲がった瞬間、物凄い急ブレーキと摩擦音が響き渡る。
ああ、どうせ死ぬなら。誰かと恋をしたかったなァ。
柄にも無く、走馬灯を見る前に変なことを考えたら、
『本当だな?』
そんな声と共に、わたしの体はトラックの前から……、いいや、人間世界から忽然と消えてしまった。気付けば、わたしは巨大な魔法陣の中に座り込んでいた。目の前にはそれはそれは大きなトカゲ。もとい、竜王たるドラゴンが見下ろしていたのだった。
「おい、異世界の人の子よ。おれが貴様を召喚したこの三界の一つ、竜の国を総べる王だ」
「はァ」
「俺はこの生に刺激が欲しくてな。もっとも厄介だとされる恋をしてみたかったのだ」
「はァ」
「……き、訊いて無いな、貴様」
「はァ」
トラックに撥ねかけられて、次に瞼を開けたらお伽噺のドラゴンが居るんだから、反応だってこうなるわよね? 実はトラックに撥ねられて死んじゃったんじゃないかとか色々とショックだったの。このドラゴンが、やッべェ、人間の精神って思ったより脆い!! って気付くまで、わたしは放心状態だった。「恋」を体験する前に竜王様は、丸一週間をわたしの心のケアに努めて、
……しっかりと情が移ってしまったらしい。
これが、わたしとドラゴンの遭遇。
あれから丸一年が経とうとしている。
豪華絢爛な竜王様の部屋の中で、日の出を確認すると、
「じゃあ、学校行くわね」
わたしはぱぱっと制服に着替えるとキングサイズのベッドの隣の学校指定の鞄を手にとった。
そう。わたしは学生だ。しっかりと人間世界の学校には顔を出している。人間界と異世界を行き来する日々。仕事漬けの海外にいる両親には見せられないわたしだけの秘密。
竜王様の部屋には二つの扉が存在する。
ごく普通の屋敷の廊下と繋がっている扉と、人間界のわたしのマンションに繋がっている金色の扉だ。金色の扉のドアノブに触ると、
「可憐よ。貴様、おれとの『約束』は違えぬな?」
竜王様が少し寂びしそうにそっぽを向いて尋ねて来た。
そ、そう言う仕草は止めて。かわいいから……!!
「ええ。勿論よ。アンタがわたしの恋心を奪ったら、わたし、無花果 可憐は竜王のブルーのお嫁さんになるわ。心も体も全部全部、アンタにあげる」
扉と人間界を繋げること引き換えに竜王様のブルーはわたしに約束させた。
ある意味では竜王らしくないわたしを気遣った、大きなカケ。わたしはこのドラゴンに心を奪われたら、生涯を捧げる約束をしている。
「貴様の為に、俺は俺に名前まで付けたのだ。可憐もおれと一緒になれば玉の輿だぞ? 竜王だぞ?」
「アンタが竜王らしいところ、見たこと無いけど。そうね。そんな仕草はとっても好きよ?」
「そ、そ、そうか!? ほんとか!?」
美しい長い首をぴんと伸ばし、ブルーは目を丸くする。か、可愛いなァ。この仕草!! ……あ、ダメだ。若干ブルーに情が移って来てる。
今日はバレンタインだ。
チョコくらいは作ってみてもいいかも知れない。チョコくらい。
わたしが思い耽っていると、
「ふふん。竜王らしい、か。今からすぐに見せられるかもしれん……。十五分だ。時間をくれ」
ブルーはベッドを降りると、わたしの体を抱えてしまった。
ど、どうしたと言うのだろう。
※
竜の宮殿の前に見の丈ほどの大剣を掲げる一人の青年がいた。わたしはブルーに跨り、青年の前に降り立つと、
「……え、何。人間の勇者?」
「よく解ったな。俺は竜の国に人間が入れば気配で解る」
わたしの言葉に竜王は肯いた。
いやー、解り易すぎるわ。
目の前の青年はシルバーの甲冑と、見の丈ほどもある黄金の剣を担ぎ、ぼろぼろの赤いマントを羽織っていた。昔やったRPGのまんまだった。イメージが。
勇者は竜王の隣のわたしを見ると、
「に、人間だと!? ドラゴンのオーラを感じない。ドラゴンが化けているのではないのか……?」
ぎょっと冷静そうな雰囲気を崩した。
「わ、わたし? わたしは――――、」
「くくくく。これはこの竜王の嫁よ。この竜王がわざわざ目を付け、籠の奥に閉じ込める為に攫った生贄にすぎぬわ!!」
ブルーがノリノリで嘘を吐き出した。
「ちょ……!!」
「何!!? 矢張り、竜王は魔王の右腕に召喚されるだけはある。その心、黒く瘴気に満ちている。魔王との前哨戦に貴様を狩りに来たが丁度いい!!」
「魔王だァ? 魔力を貰う代わりに戦ってやっているだけだ。あまり図に乗るなよ。勇者ごときがァ」
ブルーはにィィ!! っと嘲笑した。
成る程。わたしはひしひしと理解した。ブルーの竜王たる意味を。
……何時もはわたしを怖がらせないようにと、心を穏やかに静めているに違いないのだ。風なんかいっさい吹いていないのに、嵐の中に放り込まれたような感覚に襲われる。
ブルーの嘲笑を見た瞬間にぞぞっと鳥肌が逆立った。
勇者が剣を掲げて飛びかかった瞬間、もう勝負は見えていた。
※
「でもね。これはやりすぎだと思うわ」
「はい」
「象が蟻を本気で踏みに行ったようなものよ? ……わたしは十分解ったわ。アンタは凄いし、十分竜王よ。これ以上はダメだと思うの。強者なら、弱者に情けをかけるのも大事だと思うの」
「そうか。なるほど!!」
「すみません。弱者って俺のことですか?」
勝負は三分で終わった。
ブルーが攻めて攻めて攻めまくった。咆哮を三回ほど飛ばして宮殿の目の前の地形をちょっぴり変えてしまったのだ。
流石に見ず知らずでも勇者が憐れになって来たのでブルーの掌を握り、きらきらモードでお願いしてみると竜王が蒼い尻尾を振った。
「ふふ、お前に竜王だと認めて貰えばいい!」
勝負はあっさり終わったのだ。
「じゃあ、ここ竜の国だし気を付けて帰ってね。その、魔王討伐頑張って!?」
心がへし折られた勇者を応援すると青年は首を傾げて、
「ああ。その、変な気分だが感謝する。しかし、ここ最近竜王が大人しいのはきみの所為だろう? きみは何者なんだ?」
「大人しいの?」
「一年前までは暇潰しに魔王軍を滅ぼしたり、人間の王直属の数千人の兵士達を焼きはらったり」
よし、訊かなかったことにしよう。
「わたしは竜王に召喚されちゃった人間よ。……そうね。竜王・ブルーの花嫁かしら?」
ただし、予定が付くけど。
わたしのイタズラな言葉に勇者の青年は愕然と目を剥いた。
「嫁……!」
「可憐。そんなひ弱なもやしと仲良く喋るな!」
わたしはこの竜王様と危険なカケの真っ最中。しかし、何だろう。
きっと心を奪われても、
……悪い気はしないわね。