(4)
これより、ヒーローの崩壊が始まります。
泣き出してしまいたいのを、瞼をきつく閉じることで耐える。
「お願いでございます。どうか、どうか、お放しになって……」
無礼を承知で、彼の胸を手で押しやった。
ところが次の瞬間、息が止まりそうなほど強い力で抱きしめられる。あまりの締め付けに、思わず「ぐふっ」と、伯爵令嬢らしからぬ声を上げてしまった。
――え、ええと。どういうことなのかしら?
突然の展開と息苦しさに目を白黒させてネルガスト様を見上げれば、射抜くような視線を向けられた。
先ほどよりも鋭い目つきでヒタリと見据えられ、ビクリと肩が跳ねあがる。
無意識のうちにふたたびネルガスト様を押しやれば、いっそう容赦のない力で抱きしめられた。
なにがなんだか理解できない。そして、苦しい。
とりあえず抵抗をやめて体の力を抜くと、ネルガスト様も腕の力を緩めてくださる。
ホッと安堵の息を漏らせば、これまでとは打って変わった穏やかで響きの良い声が降ってきた。
「サーシェ、話は最後まで聞くものだよ」
「そ、それは、大変失礼致しました?」
どうやらわたくしに非があるようなので、すぐさま謝罪する。
しかし自分が置かれている状況と、ネルガスト様の態度の変わりように順応できず、妙に尻上がりの謝罪となってしまった。
すると、彼は軽く肩を竦める。
「まぁ、私にとっては、嬉しい反応だったがな。そこまで動揺するということは、私との関係を終わりにしたくないのだと、受け取らせてもらうぞ」
ますます混乱が深まった。
ネルガスト様はわたくしとの関係を終わりにしたいはずなのに、なぜ、そのようなことを仰るのか。
忙しなく「なぜ?」が頭の中を駆け巡る。
混乱が収まる前に、ネルガスト様が話を始められた。
「サーシェの誤解が解けないままだと、私としては非常に困る。今度は、最後まで聞くように」
――誤解って?
上手く働かない頭では、やはり、彼の言わんとするところを察することが出来ない。
首を傾げれば、彼が迷いのない様子できっぱりと告げた。
「私たちがあの日に引き合わされたのは、親たちの都合ではない。私の希望だ」
「……はい?」
本格的に理解が追いつかない。兄ほど優れてはいないが、それなりに秀でたものだと褒められた頭脳なのに。
盛大に首を傾げるわたくしを見て、ネルガスト様の形の良い目がフッと弧を描く。
「サーシェに一目惚れしたから、他の貴族から手を出されないうちに囲い込んでおこうと思ってね。時機を見て父を脅し、まずは許嫁という関係に持ち込んだ。正当な理由でサーシェを私に縛り付けるには、それが一番有効だったからな」
――あ、あの、一目惚れとは、いつのことでしょう?……それより、あの時、ネルガスト様はまだ十歳でしたよね?それで父親を脅したとか、本気で仰ってます?
戸惑うわたくしに構うことなく、彼の独白は続く。
「私はあの時既に、次期公爵家当主としての立場を手に入れていたようなものだが、世間からすれば十分幼く、まだまだ父の保護下にあった。だから、私たちの関係は家同士の繋がりを保つためであり、父親同士が取り決めた許嫁なのだと、サーシェはそのように考えたのではないか?そして、その考えは、今もずっと変わらずに」
貴族社会では、政略結婚が当たり前である。まともな判別がつかないうちに、許婚を持つ幼少貴族は五万といる。自分の意志や想いなど関係なく、許嫁となり、いずれ結婚する人も多い。
わたくしは運のいいことに許嫁であるネルガスト様に恋をしたから、今日まで否はなかったけれど。
「ええ、まぁ。そう考えるのが当然のことかと」
ポツリと漏らした答えに、ネルガスト様が深く頷く。
「やはりな。だから、許嫁を解消すると言ったんだよ」
――なにが『だから』なのでしょうか?
「申し訳ございません。わたくしには、まったくお話が見えないのですけれど。結局のところ、許婚を解消なさるのは、わたくしがネルガスト様のお眼鏡に叶わなかったということでしょうか?」
ネルガスト様のお話を信じるのであれば、彼はどこぞで出逢ったわたくしを見初めてくださり、許婚を申し出た。
ところが時を経て、わたくしが自分の妻にふさわしくない人物だと判断し、許婚を解消しようという運びになった、と。
その考えをオズオズと告げれば、ふいに額にやわらかいものが押し当てられ、同時にチュッと可愛らしい音がした。
ギョッと目を見開く。
立て続けに起こる事態に、理解が追いつかないどころか、完全放棄の構えである。
はしたなくもポカンと口を開けるわたくしを見て、「最後まで聞けと言っただろう」と、苦笑するネルガスト様。
「サーシェに私以外の者が近づかないようにするための許嫁関係は、実のところ不本意でもあった。そこに私の意志などないと見なされる可能性があったからな。だが、家格が高い公爵家の者としては声高に自分の想いを告げたり、仮成人前に『結婚』を口にして、品位を下げる訳にはいかなかった。サーシェが他の貴族に攫われてしまわないために、ほんの僅かな隙さえも突かれる訳にはいかなかったんだ……」
ネルガスト様はいったん目を閉じ、ややあってから、ゆっくりと目を開けた。
「しかし、このもどかしい関係も、今日で終わりだ。私は真成人であり、サーシェは仮成人となった。つまり、家同士の繋がりが前提である許嫁関係を解消し、改めて私個人がサーシェに結婚を申し込んでも問題ないというわけだ。これが、サーシェを妻に選んだのは私の意志だと示すためのけじめだよ」
視線を合わせて「分かったかい?」と尋ねてくるネルガスト様に、だいぶ間を空けた後でコクンと小さな頷きを返す。
「で、では、わたくしは、ネルガスト様と結婚するのですか?本当に?」
途端に、彼の秀麗な眉がグッと中央に寄った。
「不服か?それとも、他に結婚を望む男がいるとでも?」
地の底から響くような低い声。さらには、ものすごく怖いお顔である。美形が怒ると、これほどまでに恐ろしいのか。
――あ、あの、ネルガスト様はわたくしを好いていらっしゃるのですよね?好いた相手を、親の仇のように睨み付けるものでしょうか?
カタカタと全身を小刻みに震わせれば、ネルガスト様が謝ってこられる。
「ああ、怖がらせてすまない」
ビクビクと怯えるわたくしを見て、ネルガスト様がゆるりと口角を上げた。
その表情は笑顔に見えなくもないけれど、目の奥が少しも笑っていない。かえって怖いだけである。
いっそう震えるわたくしに向けて、ネルガスト様が宣言する。
「たとえ不服に思っていようが、私はサーシェを手放さない。万が一にも私以外の男に嫁ごうと考えているのであれば、その男を『いっそ殺してくれ!』という方法で追い込んでやる。そして、サーシェを屋敷から一歩も出さない」
事態がとんでもない方向に転がり始めているのを察し、わたくしはとっさに声を上げた。
「なりません!公爵家の跡取りであるネルガスト様が、そのようなことをなさってはなりません!」
ところが、わたくしは言葉の選択を間違えたようだ。
ここで言うべきは、『わたくしは、ネルガスト様以外の方に嫁ぐつもりはございません。あなたを心から愛しています』だったのだ。
先程の言い方では、わたくしが彼との結婚を不服に思い、しかも、想い人が他にいると取られかねない。…………取られてしまった。
おかげで、一段と怖いセリフを聞かされる羽目に。
「心配するな、こういう時のための権力だ。私とサーシェの仲を邪魔する者は、容赦なく叩き潰す。それにサーシェを屋敷から出さなくとも、退屈させない娯楽を用意する財力もあるぞ」
――いえいえいえ、公爵家のお立場を激しく間違えていらっしゃいますよ!!
自分の顔が青ざめていることを感じながら、震える唇で必死に想いを紡ぐ。
「わ、わたくしは、ネルガスト様をお慕いしております!他の誰でもなく、あなた様の妻となる日を、ずっと、ずっと、待ち望んでおりました!」
仕立ての良い上着に両手でしがみつき、心のままに彼に訴えた。
ネルガスト様の暗黒面は正直恐ろしいけれど、三年に亘って育った恋心は幸いなことに萎れたりしなかった。
わたくしの言葉に、ネルガスト様は一瞬、虚を突かれたようになられる。
しかし、ハッと息を呑んだ後、ネルガスト様は本当に嬉しそうな笑みを浮かべられた。知り合って以来初めて目にする、会心の笑みだ。
わたくしも自然と嬉しくなり、お世辞ではない笑みを浮かべた。
改めて、ネルガスト様がわたくしを抱きしめてくださる。
「サーシェ、愛している。どうか、私と結婚してほしい」
「はい。ネルガスト様と結婚いたします」
感激のあまり、泣いてしまいそうだ。
化粧が落ちないように必死に涙を堪えていれば、わたくしの額に、瞼に、ネルガスト様の唇が触れる。
やがて、彼の唇はわたくしの唇に優しく重なった。