(3)
やわらかな春の日差しが降り注ぐ今日、わたくしは十六となった。
屋敷ではわたくしの誕生を祝う会のために、忙しなく準備が進められている。
何もせずにいるのも心苦しく、少しでも手伝おうかと申し出れば。
「サーシェ様は本日の主役でございます!お呼びするまで、ジッとなさってくださいませ!よ・ろ・し・い・で・す・ね!?」
鬼の形相をした侍女に、部屋へと押し込まれてしまった。
髪も化粧もドレスも整った状態のわたくしがウロウロしては、かえって侍女や使用人たちの邪魔をしてしまうのだろう。
わたくしがちょっぴり、そう、ほんのちょっぴり同じ年頃の令嬢たちよりも不器用だから、自室に追いやられたわけではないと信じたい。
手持ちぶさたのわたくしは、ソファに腰を掛けて本を読んでいた。
半分ほど読み進めたところで、控えめなノックが耳に届く。
「どうぞ」
こちらの応えに、扉が静かに開いた。
姿を現したのは、招待されたネルガスト様だ。本日も頭の先から靴の先まで麗しく、惚れ惚れするほど凛々しい出で立ち。
艶を放つ濃い茶色の髪は、緩やかに後ろへと撫でつけられている。前髪を上げ、少しだけかっちりとして見える髪形は、十八とは思えないほど大人びた彼によくお似合いだ。
キリリとした眉の下には、二重に囲まれた紫紺の瞳。適度に筋の通った鼻と形の良い唇は、いつ見てもため息が零れるほど絶妙な配置である。
ネルガスト様が素晴らしいのは、お顔立ちだけではなかった。
ハイヒールを履いたわたくしよりも優に頭一つ背の高いネルガスト様は、背丈に見合って御御足が長い。
日頃より武術を修められている彼は、細身に見えても大そう力がある。上品な銀糸で刺しゅうが施された白の上着は、彼の引き締まった体型をさらに素晴らしいものに見せていた。
年を追うごとにネルガスト様の容姿は冴えわたり、芸術品のように素敵な男性となられた。
非の打ち所がない許嫁の登場に、わたくしの胸がトクンと跳ねる。
――ようやく、ようやくわたくしは、ネルガスト様に嫁ぐことが出来る年齢になりました。
この喜びを言葉にしたくて、逸る思いで立ち上がる。
ところが、その直後。わたくしの胸を信じられない言葉が貫いた。
「サーシェ。この場を持って、許嫁を解消しよう」
手を伸ばせば容易に触れられる距離で、信じがたい言葉が降ってきた。
確かに耳に届いたというのに、頭が拒絶反応を起こしている。
――まさか……、まさか、そんな……。ああ、そうだわ。わたくしはそそっかしいから、きっと、聞き間違えただけよ。
そうでなければ、この日、この場所に相応しくないセリフが、彼の口を衝くはずがない。
――確かめなくては。
無様に取り乱してはいけない。わたくしは伯爵家の娘であり、公爵家跡取りであるネルガスト様の許嫁なのだ。
どのような時でも毅然としていなくては、彼の横に立つことを許されない。
必死に笑みを浮かべ、わたくしは目の前のネルガスト様を見上げた。
「今一度、仰っていただけますでしょうか」
自分を落ち着かせるため、噛み含めるようにゆっくり言葉にする。
しかし、わたくしの願いは天に届くことなく。
「許嫁を解消しよう、そう言った」
ネルガスト様は切れんばかりの真剣な面持ちで、先ほどと同じセリフを淡々と告げたのだった。
呆然と立ち尽くすしかできない。
せめてもの意地で、その場に倒れ込まなかったわたくしを褒めてほしいくらいだ。
晴れの日のためにあつらえた薄紅色のドレスを握り締める。
「……なぜ?」
カラカラに乾いた喉を動かし、その一言をネルガスト様に投げかけた。
すると彼は目を逸らすことなく、硬い表情のままで口を開く。
「私の身勝手だとは百も承知だ。だが、どうしてもけじめが必要なのだ」
けじめとは?これまでの関係に終止符を打ち、他の令嬢のもとに行くための『けじめ』というのか?
わたくしは、ネルガスト様に好いてもらっていると思っていたのに。
わたくしと同じほど愛していらっしゃらなくとも、妻に迎え入れてもいいと考えていただける程度には、大切にしてもらっていたと思っていたのに。
それが、なぜ?
ようやく自分の口から「結婚」という言葉を紡げる十六の誕生日に、世界中の絶望が容赦なくわたくしに降り注ぐ。
無様な姿は欠片ほどもお見せしたくないのに、もう、何もかもが限界だった。目の前がグラリと揺らぎ、立っていられなくなってしまう。
床に引き寄せられるままに頽れそうになったわたくしを、ネルガスト様が素早く抱き留めてくださった。
だが、今となっては、その温もりも逞しさも、つらいものでしかない。
「……どうぞ、お放しになって」
お願いですから、優しくなさらないで。そうでなければ、ネルガスト様を忘れることが出来そうにありません。
大切で大好きなネルガスト様を恨みたくないから、せめて、忘れさせてくださいませ。