泉のほとり
まだ肌寒い2月の下旬だったはずなのに、ここは春のように暖かかった。随分、南国のほうにまで連れてこられたのだろうか?
小さなすみれ色の花を咲かせた草原を横切り、楢や栗の広葉樹の林を抜けると、突然目の前が、白く巨大な壁によって遮られた。
自分のいる空間がどのような場所か歩いてみて、少し分かったような気がした。
顔をあげて、巨大な壁を仰ぎ見た。
向かい側の壁の遥か上方に、朝日が当たっている。ということは、この壁は東側に面している。
それにしても、巨大だ。壁の縁が雲にまで届いているんじゃないかと思うほど。よくもこれほど巨大な壁を造ったものだ。それを六枚も使ってこのような空間を、いったい誰が、何の目的で?
自分のことよりも、壁そのものについて疑問と興味が湧いてきた。
壁に触れてみた。
金属のようなひんやりとした感触はなく、強化プラスチックのような手触りと堅さがあった。風化によるほころびや、錆び、傷、ひび割れのような跡も見られない。昨日、今日に造られた新しいものでは無さそうだ。壁の表面には砂埃が付着し、水が流れ落ちたような痕跡が残っていた。 長年の風雨にさらされたような、使用感があった。
雨が、降ったのか?
周囲は六枚の巨大な壁に囲まれてはいたが、空にはフタがない。考えてみれば、この隔離された空間にも草木が生えている。ということは、まったく外界と隔離されているわけではなさそうだ。そういえば、水の流れる音を聞いたな。小川のようなものであれば、外へも繋がっているはずだ。
ぼくは、反時計回りで壁沿いを歩き始めた。
ちょうど、壁のつなぎ目まで歩くと、立ち止まった。
「257歩か」
ぼくの歩幅が60センチほどだから、一辺の壁の長さはおよそ180メートルになる計算だ。すると、この六角形の空間はおよそ8万5000平方メートル。つまり、大きな競技場が丸々一つ、この空間に収まるってことか。
水の流れる音が聞こえて来た。水源は近そうだ。
もう少しこの空間のことを知りたかったが、今日は学校に行かなきゃ。その前に、朝になっても起きて来ないぼくを、母親が心配して部屋にのぞきに来るはずだ。それまでには家に帰らないと。
足早に水が流れる音の方へと急いだ。
「あった!」
腰の高さまである草むらをかけ分け、壁際の水源へと辿り着いたぼくは、愕然としてしまった。
小川の水源は、壁際の小さな泉からだった。澄み切った透明の泉の底で、こんこんとわき水が噴出していた。この時のぼくにはまだ、絶望感はなかった。入り口があるのだからきっと出口もあるはずだ、と、たかをくくっていた。それよりも、のどの渇きを潤す方が先だと思った。地面に這いつくばり、両手にわき水をすくって飲み干した。
美味しい!
水道の水ではこうはなるまい。冷たく雑味の無いまろやかな軟水だ。ぼくは夢中になって何度も両手ですくってはそれを飲み干した。
水中にキラリと光る影が走った。
魚だ。
このわき水に棲息する手のひらほどの大きさの淡水魚だ。後でぼくは、それがニジマスだと知った。
「!」
ニジマスを目で追うと、泉のほとりに光るものを見つけた。
一振りの錆ついた刀が地面に突き立ててあった。
なぜあんなところに? いったい誰が?
のどの渇きが癒され、ひと心地ついたぼくは刀に興味を覚え、立ち上がった。
「!」
その瞬間、背後で気配がして飛び退いた。
振り下ろされた剣がすぐ顔の横をかすめ、地面を激しく叩いた。
避けていなければ脳天をカチ割られていた。背後に忍び寄った人物が殺意を持って攻撃してきたのだ。ぼくは反転して、身構えた。
「ああ……!」
恐怖で身がすくんだ。地獄の赤鬼がそこに立っていた。