雪原の女帝
欧州連邦 ブレーメン エーゼル宅 アリスサイド
その後、蜏はレントとともに姿を消した。
三人はエーゼルに対し謝った。いきなり駆け込んで、因縁に巻き込んでしまった。
エーゼルも複雑な顔をしていたが、今日はここに泊めてもらえることになった。火蟻は地下室にこもり、日記を読むと言って出てこない。
エーゼルーーというよりアスタルテ、蛇、アリスの三人はソファに座りながら話をする。
『なるほど、アスタルテさんは多重人格なのですか。それで読みにくいわけだ』
アリスがスケッチブックを掲げた。
「エーゼルさんは、アスタルテさんのことをどうしてそんなにも憎むのかしら」
蛇が不満の声をあげた。
「いや、エーゼルは……なんでもない」
アスタルテの長いまつげが沈む。こうしてみると美人で、今まで男だと思って接してきたのがおかしいくらいだ。これだけ美人なら、エレミットが黙っていないだろうと、笑ってしまう。
「火蟻くんはハングドマンの前でレントくんを殺すつもりなんだろう。なら、彼には大事なことがわかっているはずだ」
大事なこと……。大切な人……。
「火蟻くんは何があっても大丈夫だと思うよ」
大丈夫……何がどう大丈夫なのだろうか。
『それは神父としての判断ですか?』
アスタルテがフッと笑い、長いまつげの片目をつむった。
「いや、聴こえるから」
(エーゼルはーー強い人だよ。魂を犠牲にしても彼は祓魔師として人々を救おうとした。誰一人救えなかったとしても、その方法では誰一人救えないとわかっていたとしても、エーゼルを責めることができる人なんているはずがない。エーゼルはただ罪だけを憎み、人を憎まなかった。誰がなんと言おうとそれは悪を野放しにするのとは違うに決まってる。)
アリスにはなんのことだかわからなかったが、それでもアスタルテはエーゼルを大切にしていることだけはわかった。
○○○
欧州連邦 レグルス・ネクロフィリア総帥の城 火蟻サイド
アスタルテと別れた三人は蜏の指定通り蘭央がいるというレグルスの城に来た。
大霊園の中心、昼間だと言うのに、日が射しているというのに、どことなく暗い。その城は城と言うよりも巨大な墓であった。その黒く炭化したような城ーーその入り口。蘭央が体育座りをしていた。
「ふええ、女王さま。この中に、スノーちゃんが囚われちゃいました。私、私怖くて……」
蘭央は震えていた。囚われたとはどういうことか。怯えきった蘭央ではあてにならず、アリスに目配せすると、スケッチブックが掲げられた。
『スノーがここの総帥に助けを求めに行き、案の定、捕獲される。さらに、毎晩、スノーの悲鳴がするーーあのロリババアは馬鹿なのか。欧州連邦の総帥は悪趣味も悪趣味。夜毎、墓を暴いて、死体と結ばれているという噂もあるのに。しかも、死体を作るために人を殺しているというのもある。何でそんな後ろ暗いところに行ったんだ。あの馬鹿が』
なるほど、レントを待つ間、スノーを救ってやりましょう。これも、蜏の策略の一部か? いったいあいつは何がしたい。
「じゃあ入ろうか」
城の中は本当に暗く、隣の蛇とアリスの顔がよく見えない。
ちなみに蘭央はアリスの後ろにくっついている。
時より黒いローブが襲ってくるが、人間ではないようで、鎖でとらえて地面や壁などに張りつけると土になって消えてしまった。
足元をわずかな火で灯しながら歩いていき、少し広い場所に出る。
その瞬間、ばたりという音が三つ。フラフラとするこの感覚は、雪色の毒。
「どうイうつもりだ、スノー」
蝋燭ほどの灯りの中、目の前にいるのは雪のなかにいる小さなスノー・ホワイト。その雪は毒。
「こうしないとまた殺される。怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い」
スノーは雪の中で震えているが、その毒は冷たくなどないし、震えは恐怖のせいだろう。
問題はその恐怖がどこから来ているのかということだ。
「また殺されるって、どうイう意味だ」
「切り刻まれて殴られて絞められて潰されて刺されて溺れさせられて痛め付けられてーー」
スノーが震えながら口を開いた。
「あいつは!あいつは人間じゃない!あんなの人間のできることじゃない!」
喉がひきちぎれるほどに痛ましく。
「私が死なないとわかって、あいつは私を殺し続ける!」
スノー・ホワイトというのは厚顔不遜で、自信に満ちあふれる女性だったはずだ。
それなのに今の彼女は恐怖にうちひしがれて正気を失っている。
この先にいるのは文字通りの人でなしだ。
地獄に送ってやる。
「スノー、こっちにこイ。もう大丈夫ダ」
スノーは微動だにせず動かない。
「いや、嫌、嫌、嫌、嫌、嫌、嫌、嫌、嫌、嫌! 来ないで!」
小さな体が埋もれるほどに白い雪が舞う。さすがにこの量はきつい。フラフラする。それでも、この子を助けなければならない。
魔王に対するは毒よりも美しい雪色の女帝。
◯◯◯
雪の中、壁がスノーを囲む。
だが、壁のわきには数体のスノー。
雪の毒による分身だろうか。視界は暗い上に、ぼやけているのでよくわからない。
怯える幼女に対し、刃で刺したり火煙で攻撃するのは心理的に無理だった。
一人一人を壁で囲っていくが、甘い判断だったようで、すぐ下にいる幼女に気づかない。
「喰らえ」
虚ろな目と目が合わさった瞬間、雪の塊が顔にぶつかった。
だめだ。さすがにこれは……、
目の前が真っ暗になり、眠くなる。
それでも、倒れる訳にはいかない。先にいる下郎を地獄に送り、この子を救わなければならない。
出会った初めの印象はあまりよくなかったが、この子は蝗の仲間なのだ。守ってみせる。
「大丈夫だ! スノー、大丈夫」
言えることとしてはそれしかない。あとは接近戦で、バーシニアに教わった痛くないパンチくらいしかできない。
まずは懐にいるスノーに拳を下ろすが、この子はダミー。走りこみ、白い雪を一体ずつ殴っていく。
フラフラするし、視界はほぼ真っ暗だ。それでも、手探りで蹴り飛ばす。コツはただひとつ。
『火蟻くん、相手を思いやって殴るんだ。そうだな、例えば、蛇さんを殴るのを想像して』
『そんな無茶な!』
『いいかい。打撃というのはどれだけ力が強いとか、どれだけ拳が重いかとか、そんなんじゃないんだ。魂だよ。魂が魂を殴るんだ。憎い相手と思ったらその打撃は刺すように痛い。けど、魂には届かない。その人を思いやって殴れば、痛くないし、効果的な打撃ができるんだ。例えば』
『「こういう風に!」』
スノーが雪を散らして吹っ飛ぶ。混ぜたのは異異回転処。痛みはほとんどないはずだ。むしろ回復している……はず。
急いでスノーにかけよって、かがむ。
「大丈夫、スノー」
さっきまで恐怖に震えていたスノーだったが、今の表情は溶けた雪のように朗らかだ。
「レグルスは私の王子様じゃ無かったみたいだ」
「痛くなかった?」
「全然。心がほどけたみたいだった」
呪縛から解けたようだ。思いやって蹴れば本当に痛くないどころか、心に触れることさえできるようだ。もっともそれは異異回転処がないとできないだろう。
「なあ、もう一回大丈夫だって言ってくれないか」
「大丈夫だよ、スノー。大丈夫大丈夫」
スノーが火蟻の胸に顔を埋めて、耳を染める。
「ふわあ、うれしい。お礼に女王ちゃまの計画をおちえてやろう」
スノーが火蟻に耳打ちする。その計画はとても口に出せるようなものではない。
今度は火蟻が赤くなった。
「そ、そんなのダメだ。ダメダメダメダメダメ」
「どうちてだ? 男の子ならそういう願望があるらしいし、女の子も素敵な男の子ならみんなで囲みたいぞ。例えば、」
スノーが火蟻の鼻を押し潰し、にっこり笑う。
「アリスがよくても、蛇が許可しない……と思う。だから、ダメだ!」
スノーが目に涙を浮かべる。
「私がおばさんだからか、それとも、こんな体だからか」
「だから、そうじゃないって。だってそんなのは、」
そこで電話がなる。
『もしもし、火蟻さんですか。テンペランスです。火蟻さん、女の子泣かせるなんてサイテー。あと、自己ちゃんのことも泣かせたら許しません。じゃ』
そう言って、一方的に切られてしまった。
「だって、ダメだよ……そんなの不純だよ。よくないよ」
「そうか、火は私のこと嫌いなんだ。助けてくれたのは女王さまの為なんだ。私じゃない……」
ーーいや、幼女に欲情するのは……でも、中身は幼女じゃないし、でも、違う! 蛇が怒る。じゃあ、何でアリスはいいんだ? 蛇は何を考えてるんだ。
「わたし、綺麗?」
その顔はあまりにも蠱惑的で、淫靡で……思わず、
「綺麗だよ」
スノーが火蟻に抱きつく。
「嬉しい! 私の王子様!」
ああ、駄目なのに……。




