好きでいたい
「こんの、クソガアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア」
火蟻は必死に感情をコントロールしようとする。だが、どうしても、正気……いや狂気に戻れない。
黒龍を消したとき、蛇の姿はすでになくなっていた。あったのはたった一枚の手紙。蛇が蜏にさらわれた。どことも知らぬ場所で今、彼女は恐怖で震えているに違いない。
シャルロットが火蟻の頬を張った。
「あんたが今すべきは、発狂することじゃない! 指示を出すのよ。あたし達はどうすればいいの!」
鋭い痛みのお陰で火蟻の左目の充血が解かれた。右はそのままだが、これなら話ができる。話ができるくらいには冷静だ。
「アア、すまなイ。そウだな。まず、テンペランスはレントと合流。君がいないとバーシニアさんが巨人化から戻れなイ」
テンペランスがうなずく。
「シャルロットと正義子はここで蝟とスカーレットを見ていてくれないか? お願いだ。黒蛾が戻るまででいい」
「林檎は!」
レオナは火蟻を問いただした。
レオナと林檎はもう親友だ。
不思議と息があった。波長が噛み合うとはまさにこのことだろう。
この何日か、誰よりも彼女と過ごした。
楽しかった。シャルロットやテンペランスといるよりもずっと。
何より夕陽の中で思いをぶつけ合った。
それなのに。
大槍の下で、霞む目に写ったのは赤い靴。
「林檎は……すまない……蝟に……」
火蟻はうつむいて答える。蜏の言ったことをもっと素直に聞いていれば、あるいはもっと火蟻が強ければ、林檎は助かったかもしれない。
「あいつかアアアアァァァ」
レオナは蝟とスカーレットが封印されている箱に向かって爆走する。地を蹴り、砂煙を巻き上げる。
レオナは蝟を許さない。
友達を生きたまま喰われたのだから。
「ごめん……レオナ……」
レオナの後ろ姿を見ながら、後頭部に鎖を突き刺す。レオナがバタリと倒れた。
火蟻は彼女のそばに歩み寄った。
「この子は僕と一緒に連れてく。イイかな」
火蟻はレオナを肩に抱える。金色の髪が重力に従って垂れ下がる。
「兄様。あいつは悪人だ。殺すべきじゃないのか?」
正義子はあっけらかんとして聞く。あいつというのはもちろん蝟のこと。人を生きたまま喰って悪人じゃないなら、いったい誰が悪人であろうか。正義子はそう言いたいのだ。
それでもーー。
「蛇を取り戻すまで待ってイてくれないか? お願いだ。正義子」
「承知だ。兄様。私はまだ未熟である。不甲斐ないが自分で判断することができない」
正義子は姿勢を正す。
「それから正義子。今から無理なお願いをする……いや、やっぱりいい。こんなことは口が裂けても言えない」
「なるほどわかりました。そうですね。それはあまりにも“酷すぎます”」
わかったのはテンペランスだけ。シャルロット、正義子にはわからない。その要求はひどく身勝手なものだ。正義子の存在を軽く見ているといってもいい。
「私も無理強いをしない。なぜならね、正義子。あなたはきっとそれをやってのける。だから火蟻も私も何も言えないの」
ますます首をかしげるシャルロットと正義子。
「それに、正義子がうまくいったとして、シャルロット。君にはできないことだ。だから……何でもない」
火蟻の言葉にシャルロットが地団駄を踏む。
「何よ! 私を馬鹿にしているの? 正義子にできて私にできないことってなんな訳!?」
それはーー。
「正義のために人を殺せるかということよ。そして、死ねるかということ」
テンペランスが告白し、シャルロットは唖然とする。
「つまり、何かあったらあいつを目の中にいれてくれってことだよ」
蝟、スカーレットと心中しろといっているのだ。それに対して正義子は、動揺を見せなかった。
それが聖 正義子である。
「そうか。わかった兄様。私の命一つで、あの暴食が解き放たれるのを阻止できるなら、全く問題ない」
「ちょっと!」
シャルロットが正義子に詰め寄った。シャルロットにとって、正義子は大切な仲間なのだ。正義子がそうやって正義のために自分の命を使うことはわかっている。わかっているからこそ、引き留めないわけにはいかない。
「大義のために死ねるなら、私の本望だ」
「そういう問題じゃないわ! どうして正義子が!」
「だから、正義子。そんなことはしなくていい。言ってみただけだよ」
火蟻が申し訳ない顔をする。
「そうか、わかった。では自爆以外で何とかしよう。だから兄様は安心してお姫様を助けにいくがいい」
正義子は嘘が下手だった。目が一点を見つめて動かない。言葉も単調で抑揚がなかった。それでも、シャルロットにはばれていないようだった。
「シャルロット、正義子を頼む」
火蟻は正義子にそんなことしてほしくない。だから頼るのはシャルロット。
「わかったわ。だからあなたは振り返らず、蛇を助けに行きなさい」
そう、火蟻のためではない。火蟻の目をまっすぐ見つめるシャルロット。彼女は友達になれそうなスカーレットと蛇のためにここを守る。そして、正義子が無茶しないように。
この後、火蟻は蝗に電話をした。
○○○
魔女の森
『世界征服は続けてください』
蝗は電話を切った後、七人へ指示を出す。
「いいのかよ? みんなで火蟻の所にいった方がいいんじゃねえのか?」
サンが尋ねる。
ステラ(はあ、馬鹿だな、サンは。そんなの好きな人に心配かけたくないからに決まってるでしょうが。“自分のせいで蝗の夢に迷惑をかけるわけにはいかない”と火蟻に思わせたくないんですよ)
蘭央(蝗様はやはり、世界征服を第一に考えておられる。うー、強くてかっこいいー、大好きー)
エレミット(うーん、私……ここでは……ぐれると火……蟻の……計画……所に行……っ……チッ……た方がい……いと思うけど)
スノー(そんなの女王ちゃまと火蟻。二人きりになりたいからに決まっておろう。蛇がいない今、勝機は女王ちゃまにありだじょ)
へクセ(ざざっ……私は嫌だぞ。仕切るのなんてごめんだからな。魔女は裏方なんだ)
蜜蜂(アリスちゃーん、あなたは自分の欲望に勝てる? 勝って蛇救えるか、負けて火蟻を奪えるか。ハートの女王のほんとの願いはなーんだ)
蝗はサンの質問に答えない。
『私が戻るまで、ステラ、あなたが仕切ってください。困ったらヘクセに頼りなさい』
「どうして私が!」
ステラが叫ぶが、
「あなたが正解だからです」
唇を噛みながら、それでも蝗は自分の言葉で答えた。ステラの顔をまっすぐ見つめる。
「それから、蜜蜂! 私は私に勝ってみせる。吠え面かいて待っていろ!」
蝗は火蟻の所に行く準備をする。
「ヘクセ!」
ヘクセは詠唱を始める。
「我、ヘクセ・パイドパイパーが……」
魔女の森から蝗の姿が消えた。
○○○
聖執行部跡 広場
「蝗。すまない」
(蝗。すまない)
火蟻の充血は解かれている。ようやく、落ち着いたらしい。
『あなたがすべきは謝罪じゃない。何があったかを教えてください。思い浮かべるだけでいいです』
(蛇がさらわれた。ハングドマン赦さない。蜏殺す。蝟が発狂して林檎を食べた。地獄に送ってやる。蛇。ジャンヌが見つからない。蝟と関係があるのか。おそらくはもう。蛇に何かあったら世界を壊す。レオナをどうしていいかわからない)
火蟻の心の中はまさに混沌だった。そして地獄に送ってもまだ、吊るし人を赦してはいない。
『あー、もういいです。とりあえず、レオナさんから何とかしますか』
「ああ」
(あんまり洗脳とかしないでほしい。だけどレオナは蝟を許せないだろうしどうしたらいいか)
怒っていたし、赦せない気持ち、真っ黒な色で染まっていた。それでも火蟻は優しかった。この心の暗闇に隠れる何かが惹かれる原因かもしれない。
「はあ、あなたもお人好しですね。じゃあ、頑張って説得してみますんで、少し離れててもらえますか」
女王の言う通り、火蟻は声の届かないくらい遠くへ行った。
○○○
蝗はレオナの後頭部に刺してある鎖を抜く。
「ぷふぁー、私は、そうだ、林檎! クソが!」
「動くな!」
女王の命令には逆らえない。たとえ獅子であっても。
(林檎があのクソネズミに! 許さん絶対に!)
「私の話を聞いてください。まず、私たちは蛇を救いにいきます」
(そんな女、どうでもいい! 林檎が!)
冷静さを失っているレオナ。蝗はまず、火蟻の話をする。
「レント君を誘拐されたらどう思いますか? 今の火蟻はそれと同じです」
(知るか!)
次に自分の話を。
「じゃあ、私の話をします。シャルロットを誘拐されたらどう思いますか」
(どういう意味だ、クソ、心が……シャルロットが誘拐されても私には関係ない! むしろ、彼女がいなくなればいいとさえ思ってい……私は、何て醜いんだ! バカ女、私に何をしている!)
蝗はレオナの心の奥を開いた。必死の抵抗もむなしく、一番醜いところがさらけ出される。そして、それを憎む美しい心も。
「それが私の気持ちです。私は自分に勝つためにここにいます」
(だから何だ! 林檎とは何も関係ない)
『ええ、ですから、蛇を救ったら、蝟を好きなようにしていいです。火蟻は私が食い止めます。しかしあなたが今、蝟を狙うなら、私は火蟻を止めません』
これが本題だ。だから、これだけは女王の言葉ではない。火蟻が洗脳をしたくないと望むのだから。
(脅しか?)
「ええ、脅しです」
(わかった。しかたない。おとなしく従う)
「じゃあ、もう動いていいですよ」
女王の言葉を解く。
「聞きたいことがあるんだが、いいか?」
「ええどうぞ」
「最初から、蛇を救ったら蝟を好きにしていい。しかし今、蝟を狙うなら、火蟻を止めない。と脅せば良かったんじゃないのか? 火蟻の気持ちとかお前の気持ちとかは何の意味がある?」
「はあ、それはですね」
もし、約束を破れば、私がどう思っているかを火蟻に伝えればいいってことですよ。
「お互いに脅されているんです。いいですね」




