幻
「ジャンヌ……何、してるんだ……」
蝗たちが去った後、蝟はスカーレットとともに、ログハウスに戻った。
あの場にはジャンヌがいなかったので、ログハウスで昼寝でもしているんだろうーーそう思っていた。
だが、そこにいたのは、うずくまるジャンヌ。地面にしゃがんで小さな背中を向けている。
「ごめんなさい、兄ちゃん」
泣きながら笑って振り返るーー彼女の指が、なくなっている。
その手には五つの指の痕跡のみ。
血が床に滴り落ちる。水溜まりになる前に血は気化した。傷口から新しい指が生えてきている。食という名の罪を隠すかのように。
「どうしたんだ、ジャンヌ! そんな……どうすれば」
選抜者なので放っておけばすぐ治る。だが、そんなことは重要ではない。問題はジャンヌの顔が涙で歪んでいることだ。
魂が唸りをあげているのが聞こえる。
「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい」
「何を謝ることがあるんだ! どうしたんだジャンヌ。どうして指がないんだ。どうして泣いてるんだ。何があったんだ。誰かにやられたのか」
蝟は叫ぶことしかできなかった。自分の妹を傷つけたやつはゆるさないーーだが同時に、何が起こっているのかを少しずつ理解してきていた。
「ごめんなさい、私、お腹がすいて……」
「お腹がすいてるからどうしたんだ。それでどうして指がなくなってるんだ!」
蝟にはもうわかっている。ジャンヌはお腹がすいて自分の指を食べたのだ。痛みを我慢して。それでも耐えられなくて。
「お腹がすいてるなら、ごはん食べればよかったじゃないか。ここには、お前の好きな唐揚げだって、冷蔵庫の中に。自分の指なんか……」
「嫌、嫌、嫌、嫌。兄ちゃんは今までずっと何も食べなかったんでしょ! 私のせいで! それなのに私だけごはん食べるなんて、できるわけないじゃない!」
「ジャンヌはいいんだ! お腹がすいたらごはん食べればいい。俺は約束したから食べない。食べることができない。それだけなんだ!」
ジャンヌの気持ちになれば、それはできないことだろう。自分がした約束のせいで兄が空腹に喘いでるのだと思わずにはいられない。今の自分の何百、何千倍も兄は苦しんでいるーーそう思っていることを蝟だってわかっていた。
だが、蝟はもう食べるという行為に対し、嫌悪感しかわかない。それはハングドマンと同じ行為である。何よりジャンヌと約束した。約束したのだ。
「じゃあ、兄ちゃんがごはん食べてよ! そしたら私も食べる! 私、お腹がすいてるの。ずっとずっと! それでも兄ちゃんはそれ以上お腹がすいてるんでしょ! なのに私だけ食べるなんてできない!」
「俺はもうお腹すいてなんかないんだ。本当だ。それよりもお前が苦しんでいる方が辛い! だから、食べていいんだ。食べてくれ、頼む!」
そう言って彼は冷蔵庫の中から、唐揚げを取り出す。スカーレットのものだ。ジャンヌをソファに無理矢理座らせ、口に唐揚げをねじ込むように押し付けるーー入らない。口を真一文字に結び、その鳥が口に入ることを拒絶する。
「いや、やめて、私は食べたくなんてないの! 兄ちゃんが食べない限りは!」
「じゃあ、わかった! 兄ちゃんも食べるから!」
蝟はもう何年も食事というものをしていない。むせるほどに生臭いそれを、無理やり口の中に入れて噛む。
気持ち悪い、気持ち悪い、気持ち悪い、気持ち悪い、気持ち悪い、気持ち悪い、気持ち悪い、気持ち悪い、気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い、気持ち悪い、気持ち悪い、気持ち悪い、気持ち悪い、気持ち悪い、気持ち悪い、気持ち悪い、気持ち悪い、気持ち悪い。
自分は今、生きていたものをこの歯で噛み砕いているのだ。この間まで生きていたであろう鳥を。卵から孵り、自分達と同じように食事をし、睡眠をし。恋人がいたかもしれない。子供がいたかもしれない。もしかしたら、今、この口の中にいるのはその子供かも。
いや、おそらくそんな生易しいものではない。火蟻のように施設の中、隔離された状況で仲間の死を見つつ、そして、殺されたのであろう。ただ殺されるためだけに生かされ、死んでいった。
自分と、ハングドマン。いったい何が違うのか……。
ーーは? いま俺はあんな野郎と自分を重ねたのか? クソクソクソクソクソクソクソクソ!
どのように産まれ、どのように生き、どのように死んでいったか。考えるだけで吐き気がする。
それでも、蝟は食べなければならない。妹のジャンヌのために。
ごくり、と飲み込んだときにはもう、幻術は解けていた。
幻はーー目の前にいる……ジャンヌだった。
「は?」
訳がわからない。ジャンヌは座らせたはずなのにいない。ソファに置いてあるのは一枚の手紙だけ。
『兄ちゃん、ごめんなさい。私はもう生きていけません。お腹が空きました。それだけです。最期に、これ以上兄ちゃんを苦しめないように、兄ちゃんがもう一度ごはんが食べれるように。おまじないをかけました。さようなら』
目の前が真っ白になる。
○○○
「ジャンヌ……何してるんだ……」
いや、何しているかはわかっている。指を食べてしまったんだ。なぜ、知っている? なぜ指を食べてしまったんだ? なぜならお腹が空いたから。ジャンヌをソファに座らせて唐揚げを食べさせて食べて幻……。
「ぐああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ」
○○○
蝗と蜜蠭がもめているが自分には関係なかった。
その前にすぐさまログハウスに戻り、扉を吹き飛ばす。だが、遅い。致命的に遅い。
「ジャンヌ……何してるんだ……」
いくら戻っても、ジャンヌは自分の身を引き裂いて食べていた。指、腕、胸、腸、太もも。いつ戻ったとしても、彼女の身体は血で濡れていた。
「ジャンヌ……何してるんだ……」
ーークソっ! ここじゃないのか! なら!
隣にはジャンヌ。目の前の広場ではシャルロットの願いでみんながパフェを食べていた。
「ジャンヌ、食べないのか?」
蝟は生クリームを笑顔で口にいれた。もう何年も口にしていないそれは甘くなどなかった。どろどろの生肉の溶けたようなそれを夢中で貪る。
俺は笑っているーーそう思っているのは彼自身だけで、ジャンヌにはわかっていた。自分のために無理をしていることが。だからこそーー。
「兄ちゃん、ありがとう。私のためにあなたが苦しむ必要なんてない」
ログハウスの中。下でうずくまっているジャンヌは幻。
ーーまたここに戻ってしまうのか。どうして、どうして、どうして! 俺はただジャンヌに幸せでいてほしいだけなのに。
幸せでいて“ほしい”。
ーー願いだ……願い願い願い願い願い願い。これならいける。
「スカーレット……お願いがある」
ログハウスの中、蝟とスカーレットの二人。
「ん、どうしたの?」
蝟の必死さをスカーレットはすぐに理解したようだった。
「このステージで勝ってほしい。そして俺の願いを叶えてくれないか。頼む」
願いの内容を聞く前に彼女は了解した。してくれた。
「あなたのためなら頑張ってみますよ」
願いの内容とこの先に待ち受ける顛末を聞いたスカーレット。紅い頭巾を被った彼女のやることは決まっている。
微かに声が聞こえてきた。この先の曲がり角にシャルロットと刺刀がいる。
「何なのよ、私のパフェよりも大事な願いがあるの? 何よそれ」
ーーそんなの決まってる。私の妹になる子に幸せになってもらうために。
足音を消しながらシャルロットの背後に近寄る。シャルロットと対峙している刺刀には口に指を当てて静かにしてと制した。
「眠ってください」
蝟にもらった大針をシャルロットのうなじに突き立てる。
ふっと、シャルロットが倒れた。二房の赤毛が地面で咲いている。
スカーレットはシャルロットの持っている旗を拾い上げようとした。だが、そう簡単にはいかない。
旗に包丁が突き刺さる。
「それ、置いてってもらえますか。私にはーー」
「あ?」
たった一言で刺刀は後ろに下がった。その目は喜びと悲しみで埋まっている。
蝟に頼られているという幸福とこのあと彼に起こる結末。激しい感情のこもった瞳に刺刀は圧倒されていた。
「わ、私は、私には願いが!」
「黙れ」
刺刀は目を見開き、次いで胸を押さえながら倒れた。
紅ずきんの右にはシャルロット、左には刺刀が髪を広げて倒れていた。
二輪の赤い花と二輪の黒い花を脇にして、旗を掲げる紅ずきんはまるでーー女教皇であった。
「私の願いはジャンヌちゃんに幸せになってもらうこと」
「その願い叶えましょう」
ーーこれで大丈夫だ。
蝟とスカーレットは抱き合った。隣のジャンヌもニコニコと笑っていた。
蜜蠭は悪趣味だった。だけど、願いを承ってから叶えないなんてことは起こさない。彼女の叶えたくない願いは最初から受けつけない。彼女のしたいことはあくまで懲悪。だから、彼女が叶えましょうと言った時点で絶対に大丈夫なはずだった。
「どうして……」
ーーどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうして!!
ジャンヌは幻になってしまうんだ。
「おい! 蜜蠭! どういうことだ!」
ビル街に佇む赤と金の門の前。蝟とスカーレットは這いつくばる蜜蠭を怒鳴りつける。
「さあ? それが彼女にとって幸せなことだったんじゃないかしら。あはは、妹一人守れない狩人と役立たずの紅頭巾には悲劇がーー」
蝗が這いつくばれと言う前に、蜜蠭が針のむしろとなった。
「あはっ、スカーレット。“それ”は私には効かないわ」
「戻ろう。ファスト。ここにいても意味ない」
二人は再びジャンヌがいなくなる前に戻った。
もう何度目だろうか。時間塑行の能力を得る前にはどうしても戻れない。何度やっても何度やっても何度やっても何度やっても何度やっても何度やっても何度やっても何度やっても何度やっても何度やっても何度やっても何度やっても何度やっても何度やっても何度やっても何度やっても何度やっても何度やっても何度やっても何度やっても何度やっても何度やっても何度やっても何度やっても何度やっても何度やっても何度やっても何度やっても何度やっても何度やっても何度やっても何度やっても何度やっても何度やっても何度やっても何度やっても何度やっても何度やっても何度やっても…………………ジャンヌはいなくなってしまう。
ただ、ジャンヌに生きていてほしいだけなのに。
どれくらいたっただろうか。一瞬のように感じるが、ふと冷静になってみると何年もスカーレットと一緒にいる気がする。
「何回目ですか」
スカーレットが尋ねる。最初は何のことかわからなかった。いつしかこれが、この数日間の繰り返しが彼と彼女の日常になっていた。
「わからない、何回目だ?」
「大丈夫……ですか」
何度も何度も妹の血塗れ姿を見ているのだ。平気なはずがない。
蝟がスカーレットと肩を並べ、床にしゃがんだジャンヌを見つめる。それが幻だと蝟もスカーレットも分かっている。
「私はあなたと一緒ですよ。どうしますか。また戻りますか?」
戻るーーいったいどこまで戻ればいいのだろうか。ハングドマンに出会う前? それができたらどれだけいいだろう。
どれくらい戻ればいいのだろうか。
食事はしているーーそんな嘘をつきながら、気持ちの悪いそれをずっと口にする。もう吐き気もない。ただ……気持ち悪いだけ。
いっそ、死んでやろうか。家族を殺された時、自分だけ残されたのだ。もともとないはずだった命。あってもなくてもさほど変わらない。死ぬのは構わない。
だが、自分が死ぬことでジャンヌに悲しい思いをさせること、死ぬことでジャンヌに会えなくなること、スカーレットのこと……死ねない理由を考える度に死にたくなる。
ーーどうしてだろう。どうして殺さないと生きていけないんだろう。殺したくない。狩人になんかなりたくない。
ただ大事な人のそばにいたいだけなのに。
「いや、もういい。疲れた。ああ無理だ。生きていけない。こんな世界では生きていけない。無理だ。きつすぎる」
そう言って、床にしゃがんだジャンヌを無視しそのままキッチンに向かう。
「ちょっと!」
スカーレットは叫ぶが、蝟には聞こえない。キッチンからナイフを取りだし、大きく深呼吸する。代表者候補は死ねない。ただし、今、胃と頭に刺せばどうなるだろうか。黒蛾が復活した暁には死ねるかもしれない。
「駄目!」
蝟に向かってスカーレットは走った。
スカーレットは蝟を抱き締める。無気力な蝟はそれだけで力なく倒れた。
スカーレットは蝟に馬乗りになって泣きながら叫ぶ。自分のためではなくーー蝟のために。
「じゃあこれからは! 私のために生きて! これからずっと、ずっとずっとずっと! あなたが死んだら私も死ぬ! 私が死んだらあなたも死ねばいい! あなたはこれから私だけのために生きるの! だから」
だから生きて。
その瞬間ーー蝟の身体が蜘蛛の巣を張るかのように黒く染まった。それは血の色。生きている証。
「そうか、わかった。俺は生きよう、君のために。だが君以外は殺して食べよう。ジャンヌを奪ったこの世界への復讐のために」
ーーああ、世界は何て残酷なんだ。ジャンヌを奪ったのは、俺でもハングドマンでもない。この世界だ。




