雷雲と女王
名もない島 黒蛾の館 エントランス
「いま火蟻から電話あったんだけど、仕事し損じたんだって。だから代わりに行ってくれって」
蝟はそう言うと、玄関の大きな扉を開き、出ていってしまった。
「全く、火蟻は子供に甘すぎる。仕事を放り出すようなやつではないのだが」
雷蜘蛛はエントランスで呟いた。レント・ルクセリアに関わることは何かと邪魔が入り、結果的にレントは助かっているのだ。本当に女神に守られているようで薄気味悪い。
蝟を見送ったあと、何気なく窓の向こうに目をやる。もう着いただろうか。なんせ本気を出せば光の十分の一のスピードなのだから、寄り道さえしていなければもう捕獲もしているかもしれない。
「ん?」
水晶の髪を揺らして雷蜘蛛は館の窓を開ける。
一隻のボートがこちらに迫ってきている。火蟻の乗っていった船とは違い、一般的なモーターボートだ。
雷蜘蛛はニヤリと笑う。
「ようこそ、客人」
彼女がそう言うと、ボートが館に向かってものすごい勢いで迫った。乗り手は困惑しているご様子。当たり前だ。彼女が引き寄せている。
○○○
黒蛾の館 前庭
館の周りは南国の木で覆われ、わずかな雑草と海岸への一本道が続く。潮の匂いは館まで届いているし、コバルトブルーの海は古びた館の二階から覗ける。
四人の船員全員が館の前庭に浮いている。彼らを浮かせているのは雷蜘蛛。全員が同じ顔で、病院服を着ている。病弱そうな、まだ十二、三歳くらいの少年たちだ。
「お前ら誰だ」
雷蜘蛛はいつも通りの質問を一応する。誰も答えない。まぁいいだろう。雷蜘蛛が黒蛾から授かったのは重力子操作。彼女の言葉にはなんの効果もない。だが、
「出番だ、蝗」
『はい』
太い糸で口を縫いつけた娘が現れる。髪は肩までの長さで、口元の“それ”は厳めしいが、目は大きいアーモンド型で愛くるしい。“それ”とは口を縫い付けている糸。その糸さえなければただの可愛らしい娘である。だが、その縫い付けた糸こそがただの可愛らしい娘を蠱惑的なものにしているのかもしれない。年は蛇と同年代、シャルロット達よりも少し上くらいだ。右手には、いつもは持っていない斧、左手にいつも必ず身に付けているスケッチブックを持ってこちらにやって来る。
蝗の口は縫ってあるので喋ることができない。彼女いわく口は災いの元。だから普段の会話はスケッチブックによる筆談である。しかし今回の場合、彼女は、
糸を外して口を開く。
○○○
「あなたがたは誰ですか」
「「「「我々はサバキです」」」」
「雷蜘蛛だ」
蝗の能力は暗示。雷蜘蛛はとくにかかりやすい。正直言えば邪魔である。蝗の言ったことには誰にも逆らえない。力が強すぎるのでこのように仲間まで暗示にかかってしまう。
『あなたのことは訊いていません。中に入っていてもらえますか、雷蜘蛛』
「だが、彼らを拘束しておかなければ。私だってお前に操られるのは不本意で不愉快だ」
蝗が止まれって言えば済むのだけれど、雷蜘蛛は結構我が強い。蝗は喧嘩したくない。不本意で不愉快なのは蝗も同じである。
『仕方ないですね』
蝗はスケッチブックに早書きをして雷蜘蛛に見せる。
「あなた方の能力は何ですか」
今度は蝗が直に声を出す。
「「「「我々は能力の産物です。我々は何もできません」」」」
「重力子操作だ。あと、雷雲を呼べるぞ」
はあ、あなたのことは聴いてないんだって、と蝗は言えない。黙ってくださいと言ったらサバキ達まで黙ってしまう。では、雷蜘蛛黙ってくださいと言ったら……言ってみるか。
「雷蜘蛛さん、黙ってください」
ちょっと強く言い過ぎたのか雷蜘蛛は唇を噛みすぎて血が出ている。
変化が生じるのは雷蜘蛛だけではない。サバキ達の方は雷蜘蛛の重力子操作による制限から、懸命に逃れようとしている。彼らは雷蜘蛛の口を塞ぐべく懸命にもがいているのだ。十二、三の、まして病院のベッドがお似合いの男の子が死に物狂いでもがく姿は痛々しすぎる。またやってしまった。こういうことがあるからわざわざ口を縫っている。
「もう大丈夫です。ありがとう」
ようやくサバキ達の顔が元に戻る。ただでさえ、病弱そうな男の子だ。ずいぶんひどいことをしてしまったと彼女は思う。
「もう喋っていいのか」
雷蜘蛛もよく見ると血管などが透けていて、病弱だったのかもしれない。人の過去を聞くのは蝗にとって簡単だ。
だが、自分の欲求のために力を使うのはあのクソ女のやることだ。必ず殺してやる……いや、傀儡にして一生奴隷にしてやる、と蝗は誓う。
みんなも腹に一物持ってやっているんだ。今は仕事、仕事である。
「サバキとは誰ですか」
「「「「我々です」」」」
「あいつらだ」
「あなたのボスはどこにいますか」
「「「「わかりません」」」」
「便所だ」
またも黒蛾は便所にいるらしい。
ーーあの人便所に住んでるんじゃないの? まさか、私たちの……。それはないよね。ない……よね。
「じゃあ、あなたがたはどこで生まれましたか」
「「「「真っ白な部屋にたくさんの我々がいるのが最初の記憶です」」」」
「グローム族という部族のところの生まれだ」
しまった、雷蜘蛛の過去を少し聞いてしまった。蝗は若干悪いことをしたと思った。
「真っ白な部屋とはどこですか」
「「「「すいません、わかりません」」」」
「わからん」
今回も収穫ない。最後の質問をする。
「あなたの仲間のことを教えてください。」
「「「「ここにいる私たち同士が仲間です」」」」
「黒蛾、蜏、火蟻、蝟、蝗、み」
「黙ってください! 」
この場の全員が唇を噛み締める。敵に我々の名前を売っていることに腹を立てたわけではない。
雷蜘蛛が言おうとしていたことに腹を立ててた。
“あいつ”のことを雷蜘蛛は仲間だと思っているのだ。クソッ、あの女は絶対に許さない。“あいつ”に比べれば、蛇の方が信用できる。
もはや蛇はただの娘じゃないか。まあ少し、容姿は優れているかも知れないがと、蝗は心を落ち着ける。
「あなた方は部屋に入ってください。今日からあなた方は我々のお手伝いさんです。もちろん出ていきたくなったら勝手に出ていって構いませんよ」
列になって部屋の中に入っていく。もちろん最後尾はーー雷蜘蛛だ。
「あなたはいいんですよ」
そう言って蝗は持ってきた斧で雷蜘蛛の首をはねる。
グジュ、グジュと首が生えてくる。
「あぁ、ありがとう」
首をはねてありがとう……蝗は変な気分になった。これだから蝗は雷蜘蛛を嫌いになれない。それはちょうど、妹が姉を嫌いになりきれないのと同じ気がした。
『いいえ、どういたしまして』
蝗は再び自分の口を縫いはじめる。
○○○
船上 火蟻と蛇
「蝟に電話したよ。情けないね」
隣の席に座っている火蟻はかなり落ち込んでいる。確かにあれほど超弱いからって言っていたのに、突然、君が強くなった姿が……なんて恥ずかしいこと言い出したらこうもなるだろう。
「あれはいったいどういう事だったんですか?」
「さぁ、よく覚えてないんだ。しかも、精神干渉じゃないとすると……さっぱりわからないよ」
やっぱり、あの男の子、危ない人である。しかも、赤毛のちっこくて可愛い小学生みたいな女の子が変態って叫んでた。相当な危険人物かつ変態。
ーー火蟻のそばを離れちゃいけないな。
でも、それは蛇の都合。
「私、ついてきて良かったんですか」
「いいんだよ。新人研修も兼ねているから」
新人研修? 蛇には意味が分からない
「君も我々の仲間だ。鏡見てごらん」
そう言って火蟻は夕焼けの空、窓を指差す。
「私の右目、紋章が」
衝撃だった。それと同時にこうも思った。
ーーということは私も異能者?
「そう君は我々と同じ」
「君の過去は複雑だから無理して思い出す必要ないよ。この話はここで終わり」
でも火蟻はその複雑な過去を知っている。今は駄目でもいつか必ず聞き出したい。
「君自身以外の質問は?」
蛇にとって一番聞きたいのはそれなのだが、仕方ない。
「どうしてあの人達を捕まえるんですか」
「あぁ、それ説明してなかったっけ。このままだと戦争になるんだ。異界とね。戦うのは代表者と代表者に選ばれた選抜者のみ。そして、今はその代表者を決めるために戦ってるんだよ。ちなみに僕みたいなのが選抜者、雷蜘蛛もね」
異界と戦争。なんだかよくわからないけど物騒なことには違いない。そして、代表者と選抜者。選抜者に選ばれたのは、火蟻ということは、
「その代表者候補の人はどこにいるんですか?」
「うちのは館のなかにいるよ。レント君達の方はどこにいるかわからないんだ。たぶん、闇雲に探しただけじゃ見つからないよ。それに僕だけじゃどうしようもないね。勝てないよ」
勝てない? 戦うの? 何で? と聞こうとしたところで。
「ああ、口が滑った。言葉のあやだよ。別に僕たちの代表者候補は戦うつもりないよ。違うな、殺すつもりはないよ。僕たちの代表者候補はレント君たちの代表者候補を殺す意志はない。レント君たち側は自分達が正式な代表者、選抜者になって、異界と戦争したいみたいだけど」
せっかくだから全部説明するね。そう言って火蟻は説明し始めた。
「選抜者って言うのは紋章を傷つければ簡単に死んじゃうけど、代表者っていうのは選抜者がいなくならない限り、消えないんだよ。しかも向こうの代表者は女神を名乗っていてね。そんなホイホイ顔を出したら信仰が薄まっちゃうんじゃないかな。だから見つからない」
「じゃあ、火蟻さんたちの代表は……」
「あの人は女神でも何でもないよ。おじさんとお兄さんの間くらいの人。ただの中年。いつもトイレで大便をしているし、趣味がうんこ集めで、暇を見つけては珍しいうんこを探しにいっているよ。超きもいよね」
蛇は顔をしかめる。うんこ……いや女の子がこんなこと言っちゃいけないような気がしたのでやめる。
「だけど、命の恩人なんだ。それに、あの人の目的には僕も雷蜘蛛も賛同しているんだ」
「目的って?」
「戦争するって言ったよね。実はこの戦争を管理する人達がいるんだよ。そして、それが、僕たちの敵だ。彼らを倒して戦争を止める。そのために、女神を見つける。女神と協力するかどうかは揉めてるんだけどね。それで最初の質問に戻るけど、危機的状況を作るために、彼らを捕まえているの」
「どうして危機的状況を?」
「女神っていうのは信仰者が危機的状況になって手を差しのべに現れるから女神って呼ばれるんじゃないの。僕にはよくわからないけど」
僕にはわからないけど、そう言った火蟻の表情は夕陽の逆光で見えなかった。だが、その声はわずかに怒りをはらんでいたようにも聞こえた。