おっさんとバレンタイン
その日は、朝からなんだかやたらと周囲から甘い匂いが立ち込めていた。
どうやら階下の台所で、女将さんが何かお菓子を作っているらしい。
珍しいこともあるもんだな、などとぼんやり思いつつ俺は寝癖のついた頭をかく。この宿では普段は酒場で出す料理がメインということもあり、お菓子のようなものの取り扱いはほとんどないのだ。せいぜいちょっとバターを多めに使ったパンぐらいだ。
「チョコレートっぽいな、この匂い」
甘くもほろ苦い、香ばしい香り。
チョコレートの焼き菓子でも作っているんだろうか。
甘いものが特別好き、というほどではないが、この匂いを嗅ぐと食べたくなってしまう。今なら焼き立てにありつけるのではないだろうか。
さっさとイサトさんを起こして朝食としよう。
そう思っていわわけなのだが。
イサトさんときたら起きやしねえ。
ドアをノックしつつ外から何度か声をかけてみたわけなのだが、全く返事がない。サスペンスドラマなら間違いなく中で死んでるパターンだ。
「いやいやさすがにそれは」
ちらっと脳裏をよぎったサスペンスドラマのお決まりの流れを否定するように独り言を漏らし、俺は息を吐きつつ天井を見上げる。仕方ない。せっかくならイサトさんも誘おうと思っていたのだが……恨むなら寝汚い自分を恨むが良い。まあ、武士の情けということでイサトさんの分も確保はしておいてやるつもりだが。
そんなことを思いつつ、俺はのんびりと階段を下りて酒場へと向かう。
朝から酒場などというのは若干不健康な匂いもするのだが、この宿は階下の酒場で宿泊客向けの朝食のサービスを受けることが出来るのだ。宿泊費とはまた別に朝食代が必要になるが、手近で簡単に済ませたい時にはちょうど良い。
途中エリサとライザの部屋をノックしてみたが、返事がなかったのでおそらく先に降りているのだろう。
普段ならそこで朝食を外に食べにいくか、宿で済ますかを相談したりするのだが……今日はどうもこの甘い誘惑に逆らえそうにない。
俺は下に降りると酒場へと足を踏み入れ……
「え」
思わずそんな声が出てしまった。
何故なら、部屋で爆睡中だと思われていたイサトさんが、すでに酒場に座ってエリサやライザと談笑していたからだ。
「おはよう、秋良青年」
「おはよ、イサトさん。……珍しいな」
「私だってたまには早起きする」
えへんと胸を張るイサトさん。
ドヤ顏をしているわけだが、自分で「たまには」と言ってしまっているあたりが非常に素直である。
「……おはよ」
「おがようございます」
「ん、おはよーさん」
続いて、エリサやライザにも応じる。
が、いつにもましてエリサが妙にぶっきらぼうなようなのは気のせいか。
何故か俺と目を合わせようとしてないように見える。
「……何かあったのか?」
こそっとライザに聞いてみる。
俺が降りてくるまでに、何かあったのだろうか。
そんな俺の問いかけに、楽しそうにライザが笑う。
どこか悪戯っぽい笑みだ。くっくっく、と喉を鳴らすようにして笑いながら、ライザが口を開こうとして……
「余計なこと言うなッ」
「いたいよ!」
げしっ、とエリサがライザの足をテーブルの下で蹴飛ばした。
どうやら俺には知られたくないことらしい。
よほど恥ずかしいことがあったのか、エリサの目元がほんのりと朱色に染まっている。一方で、それを見守るイサトさんやライザの双眸にはそんなエリサの様子を楽しむような笑みが浮かんでいるので……たぶんまあ、酷いことが起きたわけではないのだろう。
と、そこでカロン、とドアが鳴った。
そちらへと目をやると、宿に入ってたのはレティシアだった。
俺と目があうと、ふんわりと笑みを浮かべて小さく会釈する。
これまた珍しいこともあるものだ。
最近はレティシアと一緒に行動することも増えてきていたが、こんな風に朝から予告もなく会いに来ることは今までなかった。もしかしたらイサトさんたちが約束でもしていたのか、と思ったものの、イサトさんやエリサ姉弟も驚いたように瞬いているので、どうやらそうでもないらしい。
「おはよう、レティシア。どうしたんだ?」
「おはようございます、アキラ様。今日は、アキラ様にお渡ししたいものがありまして」
「俺に?」
思い当る節がなくて、俺はかくりと首を傾げる。
「はい、ささやかな贈り物なんですが……」
「ちょ、ちょっと待った!!」
わずかに頬を上気させたレティシアが、手にした籠から何かを取り出そうとするのに待ったをかけたのはエリサだ。がたんッと音をたてて椅子から飛び降りると、レティシアの隣に並ぶ。
「?」
俺には全く事情が掴めない。
ちら、とイサトさんに助けを求めるように視線を流すものの、イサトさんは御馳走を前にしたチェシャ猫のような顔で笑うばかりだ。ほっそりと笑みの形に細くなった金色が楽しそうに煌めいている。……助ける気は全くないな、コレ。
「えっと……全く事情がわかってないんだけど」
俺の問いに、レティシアが隣に並んだエリサに微笑ましげな視線を向けつつ、くすりと笑う。
「アキラ様はご存知なかったんですね」
「……今日は、バレンタインなんだよ」
バレンタイン。
気恥ずかしそうに目元を染めたエリサが、ぶっきらぼうに呟いたその言葉の意味を理解するまでにたっぷり時間がかかってしまった。
バレンタイン。
アレだ。
世の男どもがそわそわしちゃう系イベントの日だ。
女の子が好きな相手にチョコレートを贈って告白する日。
って。
って。
それを理解したと同時に、エリサやレティシアの行動の意味がわかってしまって、急に顔面が熱くなった。うわ。まじか。うわ。
「秋良青年、顏が赤いぞ」
「うるさいぞおっさんっ」
イサトさんは椅子に座り、テーブルに肘をついて組んだ手の上に顎をちょんと乗せてによによしている。ものすごくによによしている。これはもう絶対今後しばらくからかわれるに違いない。
「……アキラには、世話になってるから」
「はい。アキラ様には命を助けていただきましたから」
うん。
わかってる。
お歳暮的義理チョコなのはわかっている。
それでも、やっぱりバレンタインにチョコが貰えるというのは嬉しい。
「…………」
エリサが無言でずいっと差し出したのは、まだほかほかと湯気が立っているパウンドケーキだった。俺が部屋で嗅ぎ取った美味しそうな匂いは、エリサがこれを作っている匂いだったのだろう。
「ありがとうな、美味そうだ」
「……イサトに教えてもらって作ったから、味は大丈夫だと思う」
「んむ。私が先に試食したが、超美味かったぞ」
「ああ、それで」
普段は誰よりも寝汚いイサトさんが珍しく早起きしていたわけか。
俺はエリサが差し出してくれたまだ温かいパウンドケーキの包みをありがたく受け取る。それから、恥ずかしそうに目を伏せているエリサの頭にぽんと手を乗せた。くしゃくしゃと癖のある紅毛を撫でる。
「嬉しい」
「……ッ」
かーっとエリサの目元がますます赤くなった。
「では次は私ですね。エリサさんの手作りの後に差し出すのはちょっと気が引けてしまうのですが……」
そう言ってレティシアが俺に差し出してくれたのは、いかにも高級そうな包装紙に包まれた掌サイズのケースだった。
「開けてみてもいいか?」
「はい」
レティシアの返事を待って、それから俺は包装紙を破いてしまわないように気をつけつつ包みを開く。中に並んでいたのは、シンプルに真四角なチョコレートだった。濃い黒の色合いからして、ブラックチョコレートだろうか。
「私の地元、トゥーラウェストでも美味しいと有名な店のチョコレートなんです。せっかくなので、アキラ様に食べていただきたくて」
「ありがとな、トゥーラウェストではそんなに観光したり出来てなかったし……美味いものが食えるのは嬉しいよ」
「そう言っていただけると、私も嬉しいです」
レティシアの口元に、ほっとしたような笑みが広がる。
俺は二人から貰った贈り物を大事に机の上に並べ――…その後は主に俺がイサトさんにからかわれたりからかわれたりからかわれたりしながら、和やかにみんなでの朝食タイムとなったのだった。
そして、バレンタインの一日もいつもと変わらず穏やかに過ぎて行く。
夜になって宿に戻った俺は、なんとなく部屋に戻るのが惜しいような気がして酒場に顔を出していた。別に酒が飲みたいわけではない。ただ、今日という一日の余韻にもう少しだけ浸っていたかったのだ。
エリサが作ってくれたチョコレートのパウンドケーキは、ふわふわと柔らかくて甘くて美味しかった。
レティシアがくれたトゥーラウェストでも有名なお店のチョコレートは、有名なだけあって流石に美味しかった。
それに何より、二人がチョコレートにこめてくれた気持ちが嬉しい。
日頃お世話になっているから、というお歳暮やお中元のようなものだというのはわかっているが、それでも二人が俺のためにわざわざ用意してくれたと思うだけで口元がつい緩んでしまうのだ。
「……それに比べてイサトさんときたら」
ぽつりとつぶやくと、じんわりと苦笑いが口元に浮かんだ。
イサトさんは本日も悔しいぐらいにマイペースで、レティシアが皆さんにもどうぞ、と差し入れてくれたトゥーラウェストのチョコレートを美味しそうにつまんでいた。バレンタインなんてまるで自分には関係ないイベントである、と言うかのような自然体で、さらっとスルーしていた。
「…………ああ、そうか」
ごん。
気づいてしまった本心に、俺は思わず酒場のカウンターに突っ伏した。
俺はきっと、イサトさんからのバレンタインチョコを期待してしまっていたのだ。エリサやレティシアのように、イサトさんも俺に気持ちをこめた贈り物をしてくれるのではないかと期待してしまっているから、部屋に戻れずにいる。このまま何もないまま今日という日が終わってしまうことを、無意識のうちに回避しようとしていたのだ。
「うわー」
我ながら女々しくてヒく。
ごん。ごん。
羞恥に悶えつつカウンターに額を打ちつける。
後頭部に酒場のマスターや周囲の客からの奇異の眼差しが突き刺さっているような気がしないでもないが、今は心の大火傷の方が重傷である。
ああ俺はなんて恥ずかしい自意識過剰男なのか。
くそ。チーズ蒸しパンになりたい。
と、そこで。
「何を悶えているんだ酔っ払い」
ある意味今一番聞きたくない声が響いた。
ちょろ、と振り返ると、怪訝そうな顔をしたイサトさんが首を傾げている。
いつもと変わらない涼しげな顏が小憎たらしい。
「ああ、顏が赤いな。結構飲んだのか?」
「…………」
飲んではいない。
素面である。
ただ一人羞恥プレイしていただけで。
が、イサトさんが勘違いしてくれているのなら、その誤解に便乗してしまおう。
酔っ払いなら、ちょっとぐらい絡んだって良いはずだ。
「……誰かさんがチョコくれねーから荒んでた」
「ぶ」
俺の言葉にイサトさんが噴き出す。
くっくっく、と愉しげに笑う声に、ますます悔しくなって俺はふてくされたようにイサトさんから目を反らす。
「エリサとレティシアから貰っていたじゃないか、伊達男」
「…………」
数ではないのだ。
だんまりを決めこんだ俺に、イサトさんがくすりと笑う。
そして、不意に俺へと距離を詰めて手を伸ばした。
むぎゅっと鼻をつままれて、息が止まる。
「何すんd」
文句を言いかけた口の中に、ぽんと何か丸いものを投げ込まれた。
舌に触れる、ほろ苦いパウダー。
その下からとろりと体温に蕩けるような甘さが広がる。
「――…」
それは、間違いなくチョコレートの味わいだった。
俺が呆然と瞬いている間にも、イサトさんはぱっと俺の鼻から手を離すと、くるりと背を向けてしまう。
そのまま酒場から出て行きかけて、ちらっとイサトさんが俺を振り返った。
褐色の目元が、耳のあたりまでほんのり朱色に染まって見えるのは酒場の灯りのせいだろうか。
「おやすみ、秋良」
「……ぅん。おやすみ、イサトさん」
なんだか、ちょっと現実が上手く認識出来ていないような気がする。
でも、口の中に広がるほろ苦い甘さは確かに本物だ。
「~~……っ」
不意打ちはずるい。
本当に不意打ちはずるい。
ごん。
俺はやっぱりカウンターに頭を打ち付けるしかないのだった。
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