蒙昧麒麟の追憶
久しく筆を取らせていただきました。
『キリン』が漢字表記の『麒麟』であるのは、主人公なりのかっこつけでございます。
これは私の蒙昧な人生の追憶だ。
私を何かの動物として例えるならば、首を痛めてしまった麒麟である。麒麟は首の長い動物として一般に知られており、自然淘汰を経て高い木の葉を食べられるようになったと言う。私自身も、首を伸ばし高い視線から世間を見やった人生だった。しかし、食べる木の葉が尽きてしまった今、何故か私は足元に繁茂する草を食料とすることが出来ない。まるで、首を痛めてしまったように地面へ顔を近づけられず、ただ時間が過ぎ去るのを待つだけだった。私の心は御高く止まっていた。
私は幸運にも、特に温厚に恵まれた家庭に生まれた。親愛なる父母と祖父母は、いつも私を天使のように可愛がり、優しい目で育ててくれた。
母曰く、私は賢い子で、四つん這いで絨毯を這いまわっている頃から、言葉をスポンジのように吸い取り、口に出しては喜んでいたらしい。一歳半でついには文章を作れるようになっただとか。また時には、積み木を持ち出しては座り込み、カラフルな物体をひょいひょいと積み重ねて、座高を越してしまうほどの城を簡単に建ててしまったこともあったそうだ。当時の写真を母から見せてもらったが、そこには六十センチほどに積み上げられたお城の横に、女の子らしい無垢な笑顔を見せる幼い私がいた。
その先天的な気質は幼稚園に入園してからも力を見せ、誰よりも早くひらがなカタカナをマスターして、それでいて行儀の良い振る舞いから、周りの園児の模範となっていたようだ。この辺りの年になると、私自身も当時の記憶を思い出せる。確かに、当時友達とおもちゃで遊ぶにも、こっちの方がうまくできるだとか、これはこういう名前なんだよとか、いつも他者より一歩前に出るような態度を取っていた気がする。その頃から私は矜持的な心と自己顕示欲の片鱗を見せていたらしい。
小学校に上がり、初めて真っ当な勉強を目の当たりにする。しかし、算数国語など、赤子の手を捻るように簡単すぎて、授業を徒然に聞くだけで事足りていた。時たま行われた確認テストも満点を取り続け、花丸の回答を親に見せる度に褒められて、その度に大好きなハンバーグを作ってもらった。それからどれだけ学年が繰り上がっても、勉強に壁たる物を見つけられず、むしろ何故みんなが満点を取れないのか、常々疑問に思っていた。
あまりにもイージーモードであった小学校生活も無事幕を閉じ、いよいよ中学生へと成る。しばしば受験と将来の夢を考え始めるころだ。私が入学した中学は、「秦時雨中学校」と呼ばれ、悪い噂が無ければ、良い評判を聞く事も無い。いうなれば、可でも不可でもない、いたって平凡な学び舎である事がわかる。それを認知しつつ、小学校の勉学が余りにも簡単過ぎ、閑暇を持て余していたので、正直自覚できる程に舐めてかかっていた。授業もそこまで真剣に聞かず、ノートへ板書を写すことさえもしない。そんな毎日を繰り返しつつも、ついに中学校生活初のテストが行われる。中学校のテストは小学校とは違い、教科が増え、それも定期的に行われ、さらには学年での順位が知らされる。私は小学生時代と同様に、それに関して手を付ける物は、提出物以外には無かった。むしろ提出物だけで勉強は事足りていたようだった。テスト週間が終わり、数日して手渡された私の順位通知には呆気なくも一位の文字が総合順位の欄に飾られていた。新しい環境へと訪れたにもかかわらず、小学時代と何も変わりそうに無いようで、その時はげんなりしてしまった。
それから一年間、私は順調に一位を取り続けた。順位通知が渡される度に、五教科各々の頂に私の名前がある事を確認した。今考えれば、その頃の私が有頂天であった。当時、家族も私の順位を見ては褒め称えて、私の存在を誇っているようだった。
しかし、そこから一年が経ち中学二年生になると、その栄光は崩れた。一学期中間テストの総合順位は見るまでも無く一位であったが、五教科それぞれを確認してみると、英語の欄に二位の文字があった。少しばかり動揺した。すると後ろから「やった、一位だ」と密かに呟くような声が聞こえた。
それが彼女との出会いだった。名前は比沙子。中学時代、最も私の背中に迫った女子生徒だ。しかもクラス替えにて同じクラスになったようで、番号は私の一つ下。つまり言えば、私の席の後ろにいた。あまり気にした事は無かったが、この時初めて興味を持ち、振り返ってその姿をまじまじと見る。肩ほどまで伸びる黒髪を被り、自身の順位表を凝視しながら、その瞳の奥を輝かせていた。そのとき、彼女は私がこちらを見ている事に気付き、微笑み返して「英語、勝っちゃった」と、私に言い放った。むろん、私はその言葉にむっとしたが、そこに悔しさはあっても憎しみが無かった。内心、やっとつまらない毎日から抜けられる。そう思っていたのだ。
それから私と彼女はテストの度に互いの点数を正面から競い合うようになっていた。以前のクラスでは、知らず知らずの内に出していたらしい孤高の雰囲気から敬遠されていたようだが、このクラスではこの彼女との経験を通して、いつの間にか、これまでの自分を払拭し、随意の感情を声に変えて他のクラスメイトと馴染むようになっていた。時折、イメージ変わったね、などと言われるが、内面では何も変わって無かったよと心の中で思っていた。
比沙子は確かに全体的な勉学においては私に劣るが、英語や体育など個々を見れば、私を優越する女だった。英語は必ず私を抜き出でトップに君臨し、それが為に提出物も常に早出し且つプラスアルファを施していた。五十メートル走では私の小数点第二位の差でゴールし、走り高跳びも五センチ高く飛んでいた。その激しい運動から黒く艶やかに汗を帯びる髪が、時に麗々として空中に描く姿に、誰もが見とれていた事だろう。私はその時から、彼女に対して微かな劣等感を募り始めていたのかもしれない。考えてみれば、非常に欲張りで我儘な感情である。
しかし、その頃でもまだ余裕があった。確かに個々の面では多少劣ってはいたが、数学と理科に関して、私は満点を維持し続けていた。小学校の六年間と、中学校一年生を通して、たった一度のケアレスミスを犯さなかった私は、理数系の教科に対して、絶対的なプライドを抱いていたのだ。数学理科の答案が返される度に、教師に悔しがられながらも褒め挙げられ、隣席から常套句のように「また百点?」と羨望の眼差しで見られることで、私の自尊心は長らく保たれていた。
三年生に上がり、私達は「秦時雨中学校の三英傑」の一人として讃えられるようになった。比沙子もその一員で、それに持ち上げられることは私自身も十分納得だ。しかし、彼女の一つ下の順位である、矮小なメガネの少年は幼少時代のヨーロッパでの留学から英語が人並以上に話せるだけであって、彼女との総合点は三十点を超え得る差が開いていた。それだけ皆よりも学となる経験をしておいて英語の成績が三位とは、正直話にならないと思っていた。また、私とその欧州帰りの少年を差し置いて一位に躍り出る彼女は、私の目から見ても素晴らしいと思っていた。
三年生で有るからに私たちはいよいよ受験生だ。しかし、三英傑の一角を成す私達にとって、県内最高レベルでも合格が確実であることは、学年末の県内模試からも明らかだった。それに、そのとき英語の点数が比沙子よりも高かったことに、女らしげもなく舞い上がってしまった事は恥ずべくもいい思い出である。
私達は順調に季節を越し、ついに受験に至る。受験校は当然ながら県内トップとして名高い進学校だった。私には自信があったので、鉛筆が紙に擦られる音からなる緊張感も堂々と断ち切り、正解と確信するばかりの答えを回答用紙に埋めていった。
結果として、私達は合格だった。比沙子はそれを聞くと、張り詰めた緊張の糸が切れたように溜め込んだ息を安堵の心情と共に漏らした。変わって家族は、いつも以上の笑みで私を抱きしめて、おめでとうと家の外に漏れてしまうほど大きな声で私を祝った。
気だるい入学式を終えて、彼女と共に新しい学び舎たる高校へと歩みを成す。私は相変わらず、授業を聞く事が無かった。席がたまたま窓際だったから、来る日外をぼんやりと見つめて過ごしていた。彼女との交流は教室も部活動も別でありながらも多々あった。下校時はいつも校門で待ち合わせて、共に帰り、その日その日の出来事を語り合った。夕日が沈む地平線を眺めながら、いつからか私達はライバルから親友になったのだろうかと、ふと思う事があった。しかし、その疑問は心の隅に置いた。今はその幸せを感じる事だけで良いと、私の親友論を自分の脳に連ねていた。
高校では、定期的に行われるテストの事を、定期考査と呼ぶ。だからどうしたという訳だが、その時も私は中学時代と変わらず、それを舐め切っていた。勉強期間として部活道が休止になり、テスト対策する時間が増えたところで、私は相も変わらずテスト直前に提出物を片づけて、当日に望むと言う、今考えれば無謀な事をしていた。そしてその当日で、地道な努力の大切さを知る。
流石進学校であったから、テスト一問一問の応用性が並々では無かった。特に理系科目は、解法を思い付くまでに、問題をただ只管見つめて、気付けば五分を消費している始末。とても最後まで間に合いそうに無く、親に新調してもらったシャープペンシルを握り、冷や汗を流すばかりだった。現代文も選択肢の意味している事それぞれが同じ様に聞こえる。辛うじてこれで有ろうと予想できる二つに絞り、そこからいつまでったっても動かず仕舞いだ。
定期考査が終わり、結果が返却される。暗記教科は覚えるだけだからまだ点数が取れた。理数系の点数に屈辱を覚えた。満点どころか九〇点にも満たなかった。その結果を恐る恐る比沙子に伝えると、なんと、彼女も同じような現状であった。私はそれがわかると、胸を撫で下ろした。私の英才が崩れてしまった事を認めたくなかったかもしれない。
私はその経験があったにもかかわらず、その雪辱を果たそうとはしなかった。それ以降も毎日授業を聞く事が無く、努力もせず、「まだ次があるし、それに私はできる」という根拠のない自信で、お茶を濁し続けていたのだ。しかし、時が経つごとにその雲行きが怪しくなる。
比沙子は地道な努力を決して怠らなかった。放課中、彼女の教室を横切る度に、彼女が机に向かって問題集に取り組んでいるのを見た。それが功を成したのか、彼女の成績は私を置いて少しずつ上がっていった。その真面目な姿に、私は嫉妬した。私は何故彼女のように努力ができないのだろうと、彼女の姿を見ては思っていた。でも私はそれでも毎日を懶惰に送っていた。勉強をしようとすると、それまでに送ってきた生活から、急に勉強が馬鹿らしくなるのだ。その時から既に、私の愚昧な人生は始まっていた。
それからというものの、比沙子は一瞬たりとも努力を怠らず、ついに平然と勉強をこなし続けた。反対に私は怠惰を貪り続ける。いつしか、彼女と私の間は口数が少なくなり、帰路を共にすることも少なくなっていた。勉強に対する気持ちの差が、少しずつ溝を深めていったのだろうか。そして四季が流れて、新たな学年に至る。
二年生になり、なんと私と比沙子は同じ教室の中に放り込まれた。始めはまた寄りを戻せるだろうと、互いに雑談を交わしたりしていたが、勉強の話になるととたんに噛み合わなくなり、会話が途切れてしまう事が多かった。それと一つ気付いた事があった。放課後、比沙子が他のクラスメイトに質問を投げ掛けられているのをよく見るのだ。当然である。私も最初の頃は多少なり問い掛けられたものだが、生真面目に勉強しているわけではないから口を噤んでしまう事が大半だった。それとは逆に、彼女は毎日の努力の賜物故に詳細に解りやすく答える。時に隣席から常套句のように「これ教えて」と次々繰り出される拙い質問に、的確かつ明確なアンサーで教示する姿があった。彼女が最早遠い存在であることを深く自覚させられた。彼女は既に太陽のように手の届かない物になってしまった。比べて私は深海魚どころか、二度と海面には戻る事は許されず、陽の光を見ることもない、朽ち、沈み果てた憐れな潜水艦だ。もう、彼女に触れることはない。深く沈んでしまった私の心に、彼女の光は届かない。
新学年最初のテストも、それ以降も、私は何の対策もしなかった。前日にやった提出物の内容を絞り出して、かろうじて回答を埋めていく。今回も散々な結果で終わるだろうと、解り切った未来の情景が脳裏に過りテストを終えるまで、全てにおいて最初から変わっていなかった。そしてかつて無いほど比沙子に嫉妬した。彼女は定期考査の度に『very good!!』と書かれた答案を嬉々として眺め、それでいて私に中学時代と変わらず気楽に話しかけてくる。屈辱的な二桁の数字が刻印された化学式の並ぶ答案を机の中でぐしゃりと握り潰し、愛想笑いで誤魔化す毎日。でも、あの時向けられたふざけ半分な好奇心を上手く弾き返せずに、私の手から奪われた、チェックまみれの凄惨な答案を見られたあの気まずそうな顔を、私はずっと忘れる事が出来なかった。
どうしてわかってくれないのだろう。どうして私に構うのだろう。どうして私を中学時代と同じように見るのだろう。あの頃の栄光は私には無い。むしろその栄光自体が私で有り、それが消えてしまった今、私はもう私ではない。つまりは死んでしまったと同義である。
ある日、私は彼女を拒絶してしまった。馬鹿になってしまった自分を認めたくなかったから、私は嫉妬に任せて彼女に罵詈雑言を言い放ち、彼女を激昂させてしまったのだ。それから私達は絶交した。私は一時の身に任せて、彼女との縁を焼き切ってしまったのだ。それからというものの、私は一人ぼっちになってしまった。そもそも私が他の生徒と馴染めるようになった切っ掛けは、彼女との触れ合いであり、そこから輪が広がって他者とも仲良くできるようになったのだ。しかし、その彼女との関係を拒絶してしまった今、その事実はたちまち広がり、私はまた避けられるようになってしまったのだ。私はその現実から逃げるためか、何の誇りも無いのに孤高であろうとした。それは誰から見ても張りぼての城であった。
それから私の話相手という物は家族しかいなかった。帰宅して、家族団欒の場である食卓に着いては、偽った、あたかも華やかな学校生活を騙った。家族は私が幸せに満ちていると勘違いしているようだった。むしろそう思ってくれて嬉しい。変に探られては、私の立場がいよいよ失われてしまう。
そんな無味で暗愚な月日は流れ、高校三年生の春、私は気付いてしまった。努力もできない自分は、ずっと子供のままであるということを。
ふと周りを見回した時、みんな入学時代の面影は消えて、既に大人の片鱗を見せ始めていた。いや、それは当然のことかもしれない。「かもしれない」のだから、私は未だに大人を理解できていないのだろう。直向きに目の前の教材へ心が注がれる教室の中、自分は何に呆けていたんだと思返した。ただ茫然と空を眺め、目に映った、雲が視界を横切っていく世界は、私に何を残してくれたのか。気付いた時にはもう遅い。木の葉を食い尽くし、足元の草さえ食べる事も出来ず、荒涼のサバンナに餓死する蒙昧な麒麟の姿が見える。紛れもない私の姿だ。草原に暮れ立ってしまう陽を見つめて思った。もうこんな煌びやかで輝かしい未来なんて訪れてはくれない。荒れ惑う『大人』の世界、猛り狂う『猛獣』の世界に、私の肉は隅々まで喰い尽されていく。世界で一番愛しい家族に、そんな愚かな姿を、私は見せたくなかった。
死にたい。
生まれて初めて過ぎった、安直な思考。でもその時は本当に死にたくて仕方が無かった。自分の人生を振り返って、どこまで馬鹿なんだろうと自分を責め立てていた。日々有り余った生活を堕落して過ごし、小中では調子に乗って孤高を成し、高校に入って自分の成績が悪くなると、親友との縁を最悪の形で断ち、更には家族に虚言を吐いて、醜悪に包まれた毎日を送る。一体何がしたかったのだろうか。この時、私は根から自分を恨み、後悔した。
家に帰り、母と叔母は相変わらず、優しさに満ちた声で「おかえり」と言ってくれた。私も、心を読まれないように笑顔で返す。何も感付かれなかった。ごめんなさい、お母さん、お婆ちゃん。
自室に入り、パソコンの電源を入れる。私はカーソルを弄りながら、ネットを航海し、ついにとある海外の裏通販サイトへ漂着する。そこには見るからに致死性の高そうな毒物が並べられていた。私は視線を電子辞書とデスクトップの間で何度も行き来しながら複雑な英文を解読して、これで最後だと大金を叩いて遅効性の毒物の購入ボタンを押した。粉末状、水溶性、無味無臭で、死ぬまでに八時間ぐらいかかるらしい。それに、毒の中でもかなり楽に死ねる部類だそうで、理屈としては循環系の働きを次第に緩慢にしてゆっくりと眠るように人を殺すらしい。これは水に溶かして、晩御飯の後にでも飲もう。そうすれば、後は瞳を閉じるだけ。私は二度と目覚める事のない眠り姫となる。あ、そうだ。もしかしたら、死ぬのに緊張して寝れなくなってしまうかもしれない。そう思って、次の日の帰りにドラッグストアに寄り、睡眠薬を一箱買った。
注文してから一週間後、家に小さなダンボールが届いた。私が学校で呆けている間に、既に届いていたようだ。母は見慣れないダンボールの印刷に疑念を抱いていたが、私が日本では売られてない洋書だと言うと、たちまち信じて、むしろ褒めてくれた。単純な母であったが、それほど私を信用してくれていたのだろう。私はこんなにも零落れてしまったのに。より一層、罪悪感と責任感が心を支配して、憂鬱な気分になった。
夕食後、私はダンボールの蓋を開けて、念願の死への切符と対面する。それは十五個ほどに連なる分包紙だった。まるで処方箋に入れられる粉薬だと思ってしまう。その分包紙一つ一つに、薄いインクでアルファベットが記入されていた。その中でも一際目立つ、髑髏のマーク。誰から見ても毒物である事は明らかだった。あとは、一袋開けて水に溶かすだけ。どうやら一袋で致死量が十分に含まれているらしく、袋の蛇から一つミシン目に沿って千切る。そして口を破いて、コップの水に注ぐ。細かい砂が流れるような乾いた音が部屋に響いた。コップを揺らして、水底に溜まった毒の砂を溶かしていく。
全て溶かし終わった後、私は一息。ついにこの時が来た。私はこの世界において必要な存在ではない。どこかの偽善者は「世の中必要、不必要の問題じゃない」などと、世間に綺麗事と言う名の絵空事で口を叩くだろう。でも私の中では問題なのだ。世界は私を中心に回っていないのと同じく、私は世間一般の意見を中心に回ってはいない。
でも、仮に私が世界を回せたのなら。私はコップを静かに回して、水面の中心で渦巻く微小な泡を眺めた。こんな風に、簡単に世の中を動かす知恵と才能と努力があったのなら、私は考えが変わって、偽善者側に立っていたのかもしれない。なぜなら、怠惰も絶望も味わう事が無く、その窮地に立たされたとしても、自らの希望を以てしてそれらを跳ねのけに歩みを馳せてきただろうから。ここから導き出される答えは、この世は才を有する物の独壇場であるという事だ。どんなに卑しい希望論だって、努力の才が芽生えに芽生えて実績をもたらす。私は悔しい。もっと素晴らしい、人の上に立つような才能があれば、人々を希望の旗をはためかせて先導できたのかもしれないのに。そもそも私には生まれた時から人格を形成するパズルのピースが足りなかったのだ。存在しないピースを埋め合わせる事なんて私にはできない。むしろ重複した『怠惰』のピースが、ぎこちない、ひしゃげた姿で、無理やり嵌め込まれている。今にも額縁が壊れてしまいそうだ。いや、もう壊れてしまう。
虚ろな目で、水面の小さな泡沫が消失するのを確認すると、コップを口元に寄せる。唇が迫り来る死の感覚で、酷く鋭敏になっていた。コップの口が唇に触れかけると、指先が震え始めた。この苦しみを過ぎれば、後はどうにでもなれ。そんな言葉が脳内を掻き乱す。なのに、私はこれ以上死に近づく事が出来ない。
さらに追い打ちを掛ける様に、一つの情景が浮かんだ。冷たい肌を纏う私に、ハンカチで口元を覆いながら、大粒の涙を流す両親の姿が見える。どうしてと、何度も同じ言葉が、喘ぎ咽ぶ声となって耳を刺していく。
どうしてこんなに良い子だった貴方が死んでしまうの。
どうして誰よりも頭が良かった貴方が死んでしまうの。
その、私の微々たる良心を抉るような言葉に、私は震える腕でコップを机の上に置いた。そして、涙腺が決壊する。私はまだこの世に未練を残しているようだ。家族の純粋な愛が、ここに来て未だに断ち切れない。親が十数年かけて、やっと頭を並べられるようにまで育ててくれたこの体を、易々と捨ててしまう事が、私にはできなかった。もし、私がこの世から去れば、残された両親はどんな思いを心に抱くのだろう。私には、どう考えても親がいつまでも私の遺留品に縋る様子しか思い浮かばない。両親は、私を世界一素晴らしい人間として、凡庸な家系から何の脈絡もなく生まれた、あらゆる才能を併せ持つ天才として、育ててくれた。そんな才媛淑女であるはずの最愛の娘が、自らの命を掻き消してしまう。それがどれほど信じ難いもので、私も同じ立場に立たされたら、気が気でなく、ずっと悲しみに打ちひしがれているだろう。
死ねなかった。あれだけ決断したのに。いや、むしろ自分がその場の勢いで一人盛り上がっていただけだろうか。
私は往き場を無くして、ただ現世に宙ぶらりん垂れ下がって、後はこの手を離すだけなのに、最後の最後で家族の鎖が切れない。私は愕然とした。愛がここまで千切り難いものだとは思いもしなかった。誕生来私に絶え間なく注がれた両親の愛は、いつの間にか私を鎖で繋ぎ止め、飼い慣らして、私自身もそれに従順するようになってしまったのだ。
その恐ろしさ故に、私の心臓は歪む様な、苦痛たる違和感に襲われて、ずっと押し込めるような感覚があった。傷心に、ベッドへ身を投げ込む。涙がシーツをみるみる内に濡らしていった。瞳から溢れ出る悲嘆の叫びに浸かり、溺れる。
明かりを消しきった暗室に、窓から月明かりが差し込んでくる。ゆっくりとした時間を経て、それはベットに倒れ込んだ私の黒髪を撫で、ついに震える麒麟の姿を明らかにした。薄ら照る白壁には、はっきりと怯える私の影が映っていた。それは只の影なのに、明瞭な命があるように感じて、もう一人の自分を仔細に体現しているようだった。それはまさしく、桎梏の世にもがく、漆黒の私。
短針と長針が天頂で交わろうとしている。激しい感傷の濁流も次第に収まり、数時間前部屋を照らし始めたに月明りもとうに最盛期を過ぎて、窓際に欠けた右半分をの顔を隠していた。
そろそろ寝なければ。心がほんの僅かな日常を取り戻す。重い体を起こして暗室を見やると、机上に置かれたコップが嫌でも目についた。そこには兀然と佇立する死があった。見つめるだけで、鼓動が速まる。とても朝までは放っておけなかったから、逡巡に惑いながらもコップを手に取り、トイレへと流しに行った。もう既に家は静まり返っていた。洗面所でコップを濯いでも、その水音に誰も気付いて起きてくる事はなかった。部屋に戻れば、また月が成す光筋が一層細くなっていた。優しい光が漸次に衰微していく。
ベットに腰を下ろしても、なかなか睡眠欲が湧かない。かといって何かしたい訳でもない。暗室の静寂に溜息一つ。仕方がなく、私は新品の睡眠薬を取り出して、一錠口に含んだ。幻想に旅立つ故の安らぎを与えるはずの道具が、皮肉にも辛苦の日常まで早々と誘う、只の錠剤と化していた。その後は、身を任せるまま、ベッドに倒れた。そして知らぬ間に意識は落ちていた。
日差しが差し込み、また空虚な毎日が始まる。
大学受験まで十ヶ月を切ってしまった。これまでの高校生活を振り返って、その惨状を見る。私は日々の努力を怠り、テスト数日前まで遊び呆けて、テスト直前になってから必死になって扱いた勉強でその場をかろうじて凌いできた。そのおかげで縋りつくように、なんとか中よりも少し上を維持し続けていた。しかし、模試の結果は残酷だ。私の頭がいかに空っぽか、冷徹に示すのだから。当然ながらそれは親に隠した。
時間と言う物は本当に恐ろしいもので、中身が有ろうと無かろうと均等に過ぎ去っていく。私の空っぽな日々は何時の間にか夏休みに突入していた。大学を目指す受験生にとって夏休みは、今まで疎かにしていた部分を根こそぎ取り戻せる貴重なものだった。故に、その一日一日の価値が非常に重い。ところが私は、その貴重な時間を怠惰一点に過ごし、盛大な無駄遣いをしていた。頭の隅では勉強しなくては、本当に取り返しがつかなくなる事を知っていた。だが、その思考は目の前の享楽に当てられて、あっという間にどこかへ消えてしまうのだ。
そんな自分を自覚する度に、煩悶が、音を立てて煮え滾る。頭が逼迫と怠惰に挟まれて、その隙間から「死」の一文字が沸き立つ。その度に、脳裏をフラッシュバックする家族の笑顔。拮抗する二つの心情は、まさしく葛藤だった。しかし、私は時に訪れるその苦しみを、身の周りに有った娯楽で上書きして、何事も無かったように怠慢な生活を続けた。
夏休み下旬に祖父は肝膿瘍で入院した。その日、祖父が健康診断の為に病院へ行くと、始めの問診から異常があるとみなされ、そこから肝膿瘍だと発覚したらしい。確かに最近祖父は疲れ気味だったようで、いつもより早く寝る事が多くなっていた。母曰く、酷いと死ぬこともあるそうだ。その時私は驚いたが、同時に安堵してしまった。凶報で有るにもかかわらず、脳裏に過った一見異常な感情にも、理由があった。もし仮に祖父が死ねば、将来私の裏の一面を一生知る事が無い。つまり、私の幸せな面だけを見てあの世へと逝けるのだ。私に残された未来など廃れたもので、私を信じ込んだ人間が見るべきものじゃない。
祖父が入院する病棟を訪れると、そこにはベットに寝転がり、疲れ切った表情で天井を見つめる祖父の姿があった。腕には点滴が施されていた。両親は医者に色々説明を聞いていたが、私は横に聞き流していた。そしてただ只管願うは、早く死ねば良いのに。その思いは私の身を隠すための焦りだった。
突然、母は私に「おじいちゃんも頑張ってるんだから、貴方も頑張りましょう」と言い放った。何の話かわからなかったが、恐らく世話や御見舞の話だろう。私はいつものように、偽りの笑顔で頷いた。当然、私が頑張る事が出来ないのは目に見えていた。お爺ちゃんも頑張らなくていいから、治療に失敗して幸せのまま死んでくださいと、心中で望み続けていた。
それからも、私は勉強など、する気にもなれなかった。勉強に集中するからと偽って、部屋の鍵を閉めて、回転椅子に縮こまって座り、ゆっくりと足で床を蹴りながら視界を回転する壁を眺めていた。それが飽きたら、ベッドに寝転がり、漫画を読んで束の間の時間を消費していく。一度全てを投げ出してみると、気が楽な物で、危機感とか劣等感とか、そういった類の思考が頭からすっと抜けていくのだ。そうやって私は現実を誤魔化し続けていく。結局夏休みの宿題は、最終日近くで答えを写した。
夏休み明けのある日、教室の窓枠に身を乗り出して外を眺めると、雲一つない茫洋たる蒼穹が広がっていた。向こうに見える夏を纏う深緑の山脈が、一際空の鮮やかさを明瞭にさせている。視界の隅を往来する車の群れは、途方もなく広い青空にエンジンを轟かせて、私にその空の計り知れ無さを伝えた。圧巻だった。そこに私の生来の不幸と、失敗と、才能を捨ててしまいたいと思った。そうすれば全部無かったことになる。もし私に半端な才能が無かったら、両親もここまで情愛を注いでくれる事は無かっただろう。むしろ悪い点数を取る度に叱って、私を怠惰の味から遠ざけてくれたかもしれない。中学生のころ、私は自分より順位が低い者を見下したが、今となってはそちらの方が俄然羨ましい。
気付けば私は、魅する壮大な景色を前にして、暗い現実に引き戻されていた。逼迫する私の現実は、既に魅了される余裕さえなくなっているのだろうか。
聞くことすらなくなった授業を終えて、帰路につく。昼の蒼穹も、今では燃える背景に巻雲を走らせて、その縁にオレンジの気配を漂わせている。既に比沙子と帰る事は、遠い過去の話となっていた。入学したての時は、暮れ入る夕日を正面に、談笑しながら歩んだものだ。ちょうど今ぐらいの時期だと、自販機でアイスを買って、食べながら帰っていた頃だろうか。
昔を想起させる入日が、心底恨めしく感じた。もう何も思い出したくないと、その日は首を下げて家路を歩いた。
家に着き、玄関に入ると、いつものように母が出迎えてくれたが、その表情には何か嬉々としたものが読み取れた。薄々感づきつつも訊ねてみれば、どうやらお爺ちゃんの治療が順調らしく退院する日もそう遠くないとの事だ。担当医師の推測では大体二週間ほどで退院できるらしい。私はその場で適当な喜びを表したが、心の裏では悔しさが鬱積していた。再び心の負担が大きくなった。
自室の椅子に腰かけ、頭を抱えて思い巡らす。正直、お爺ちゃんが死んだとして、私の勉強に身が入るわけでも、両親の期待が消失するわけでもないのだから、状況は何も変わらない事は明白だった。所詮は気休め程度の望みだった事を、認識させられる。耐えがたい苦悩からこめかみを力んで、つい絶え絶えの呻き声を挙げてしまった。そして、罪悪感から自傷心が生まれ、揺す振られ、額に爪を喰い込ませてしまう。ふと我に返り、額を撫でてみるとほんの少しだけ血が滲み出ているようだった。
祖父は退院するまで目安二週間病棟で生活を送らなければならないのだが、私はその間に定期考査があった。夏休み明け近くであるのに、早くもそれが行われるのには理由があり、この高校は進学校であるが故に早くも高校の勉強範囲を終える間近らしく、その範囲を終了した時点で、一週間を経て定期テストが行われるのが高校三年生の通例であるそうだからだ。範囲の限定された定期テストはこれで最後であるから、着々と大学受験の魔の手が迫ってきていると言うことも実感させられる。だが、未だにどうしても勉強に身が入らない。むしろ、勉強を諦めてから遊楽に浸り過ぎたのか、今まで以上に怠慢を拗らせているように感じる。しかし内心仄かな危機感を覚えつつも、私の無気力感が剥がされることは無かった。それから私が現実を誤魔化すためにやったことは、枚挙に暇がない。
幾日か経って、脳内が空っぽのままテストに臨んだ。既に私は自分自身に極限の諦念を抱いていた。もうどうでもいい、何もかも壊れてしまえばいいんだ。そんな自暴自棄に陥って、全てを思考停止に追いやった。
後日、テスト返却。平均を算出する気はないが、おそらく半分あっていいとこだろう。変わって比沙子は最初のころに反して大層な点数を取っていた。とても羨ましい。いつか仲直りして、彼女に勉強を教えてもらいたいと思っていた日が有ったが、それも叶わず、すっかり比沙子との関係も無くなってしまった。目が合えば、同極の磁石のように視線を逸らす。そんな悲惨な関係にまで堕ちてしまっていた。
最近、偶然にも彼女が彼女の友人らしき人と私の話をしているのを見た。話と言っても、只の私の悪口、と言うか周知の事実なのだが、その内容は、私が彼女に嫉妬して、中学の頃散々絡んできただとか、才能が無いくせに野心を燃やしすぎだとか、挙句の果てには、私なんて友達じゃないなどと言う事だった。
金の切れ目ならぬ、学の切れ目が縁の切れ目と言ったところだろうか。いや、学も縁も、切ったのは私自身であって、因果応報と言うべきかもしれない。事実、言い返せない事ばかりだった。彼女とはもう今後何十年経っても、寄りを戻す事は不可能だろう。彼女は、今にも鷹となって飛翔し、まさしく鷹揚として私の上空を旋回し、死に掛けの麒麟を見て嘲弄するのだ。その日は、たった三年間で人間はここまで差を生むという真実を、よく実感した日だった。
また日が経って後、どうやら、私向けに特別三者面談が開かれる事になったらしい。教師側から見れば、安全ゾーンを保ってきた生徒が、いきなりかなり危険な状況へと一変したのだから、至極当然の事だろう。
その当然の報いに、私は再び煩悶を重ねた。娯楽類を全て放り投げて、机に突っ伏して呻いていた。三者面談が行われると言う事は、つまり全てがばれてしまうことに等しい。家族の期待を裏切り続けていた事がばれてしまう。私の醜態が家族に露呈するのも時間の問題であったが、こんなに早く訪れるとは思っていなかったのだ。早過ぎる絶望の訪問に私はとてつもない恐怖心に駆られた。
遅かれ早かれ、嘘は暴かれるもので、それに倣うように、現実は私に無慈悲な鉄槌を下すだろう。骨の追随まで叩き割り、家族もろとも絶望の淵に叩き落とすのだ。しかし、その原因を作ったのは誰だろうか。答えは単純で、私である。親友に嫉妬し、家族を期待させるように偽り騙して、それでいて毎日を怠惰の一文字で過ごすという矛盾の極みつくした私の行動は、まさしく因果応報と呼べる代物で、私自身の心は、取り返し様がないほどに湾曲、腐蝕していた。ここに来て罪の意識が再燃する。現実が私の頬を何度も叩いた。生来の甘い汁を啜った分、極限まで抽出された苦汁を漏斗で飲まされているようだった。涙が止まらなくて、思わず噎せてしまう。胸やけがする。吐き気がする。罪悪感が心の堤防を打砕こうとしていた。全てが終わってしまうのだろうか。家族の信頼の上に成り立っていた幸せな生活も、絶え間なく注がれてきた情愛も、何もかも。私は家族を悲しませたくなかった。私という希望を失って欲しくはなかった。
ドア越しに親から夕食に呼ばれた時、私は咄嗟に目尻を拭って、噎せてしまいそうなぎりぎりの声で返答した。団欒のテーブルに座った時、鋭くも私が泣いていたのではないかと感づき、問いかけた。私は瞬時に思考を回して、新しく買った洋書で泣いていただけだよと答えた。すると母は、心配の表情から、驚喜へと移り変わり、いつものように褒めてくれた。ここに来てまだ見栄を張る自分に驚き呆れた。これ以上偽りを重ねて何になるか、私自身でさえ理解できなかった。もう嘘を直感的に述べてしまうほど私は零落れてしまった事に少々落胆した。もはや虚言癖と呼べる域にまで達しているだろう。しかし、母はそれでも私を信用している。幻想の私と、この幸せな日常がもうじき壊れてしまう事を知っていた分、この愛は心臓に罪悪感を突き刺さした。それからも私は不安に体を震わせて、思い悩んだ。ベッドに蹲って、朝が更けるまで。
翌日、担任から、面談は一週間後に決定したと聞いた。まだ一週間の猶予があると思いつつも、まるで死刑囚のような気分だった。当然その事を親に伝える気は無かった。なぜなら、伝えてしまたった時点で、その猶予が無きものになってしまうからだ。残り一週間ぐらい、幸せを感じていたい。我儘だと自分でも思うが、恐らくこれが最後に成せる我儘だろう。私の本性が親に暴かれれば、それからは私を真っ直ぐな人間に育て上げるために奔走し、自由が奪われていくのだ。
いつも通り、授業を適当に聞き流して帰宅。疲れ切った体で喉奥からただいまと玄関で言い放ったが、その日は母の返事が無かった。不審に思いつつも、母をより大きな声で呼んでみると、奥の方にある部屋、おそらく祖父の部屋から誰かが足音を立てて玄関に向かってきた。リビングに通じる擦りガラスの扉に黒い影が映り、開かれたかと思うと、息を切らした母の姿があった。切れ切れの声で返事に遅れた事を詫びられ、何となく理由を訊いてみると、どうやらあと3日そこらしたら祖父が退院するらしく、それに備えて祖父の部屋を掃除していたらしい。確かに、祖父が入院してから既に二週間経っていた。掃除はまめにされていたものの、数週間ぶりの帰宅で埃が祖父の眼に着くことは避けたい。それ故、母は昼から窓枠の埃を濡れ雑巾で拭きとったり、散乱していた物の整理などと、その日までにできる限りの事をしていたそうだ。
いよいよか、と少し心で身構える。退院が面談よりも前の日であった事は、残念な気持ちで家に迎え入れたくないという理由にて安心したが、その数日後には孫の悲報が通達されるが故に、鬱屈たる緊張が走っていた。祖父にとって、やっと病院から解放されたと思ったら、孫の嘘の皮が剥がれ落ちて、なんの光も無い凡庸な姿が露わになるという絶望を味わう事になる。手にした宝石を発見来途轍もなく価値がある物だと思っていたら、実は只の変哲もない石ころだった、なんて到底信じたくもない事だ。
祖父は私の物心がついた時から、前向きで明るい人物だった。それに私は祖父が憤激する所を全く見た事が無い。日々活力を漲らせてポジティブを売りにする祖父は、近所では『少年爺さん』とまで呼ばれるほど日常的に近隣に対して血気を見せていた。手術後の病棟生活では、祖父は年齢らしからぬ精気と体力で、順調に回復していたらしい。私は祖父の治療中に、何度かお見舞いに行ったが、とても入院初期に魘されていたとは思えないほどの活気溢れる様子で、ベッド上の生活を謳歌していた。担当医もその様子に胸を撫で下ろしていた。
あれだけ元気だったのだ、予定通りそろそろ退院が考えられてもおかしくは無いだろうと心の片隅で思っていた。それは見事に的中と言うか、当たり前の結果であった。
今日も部屋を閉め切って、頭を抱える。後一週間の日々をいかに過ごすか、思考を網羅させていた。その間にも私の精神力は着実に衰微していた。胸の奥から不安と罪責感が込上げる。目の前の光が淀み始めて、現実がまた頬を叩きに来る。その現実は、私に過去の自分思い起こさせて、後悔ばかりを載積させる。
私はどうすればいいのだろう。机に両肘を乗せて、重い頭を支えながら考える。一週間が過ぎれば、家族は私を信頼しなくなる。私に対する扱いがぞんざいになってしまうだろう。虚言で家族を騙し、家族を裏切ってしまったのだからそうなっても致し方が無い。
私の心は叫びたくなるほど圧迫されていた。どうしようもないこの現状に嫌気を覚えつつも、自分ではどうにもできないのだから、ただ唸るしかなかった。だが、そこで私は一つの欲望が芽生えた。それは「愛が欲しい。褒められたい」などと、どれも自分を慰めてくれるような願望だった。人間追い込まれると、途端何かに縋り寄りたくなるもので、その時の私はまさに愛に渇望していた。心の拠り所となる物を、必死に求めていたのだ。現実、私の手には、それを叶えてくれるのは家族しか残されていなかった。つまり言えば、私の心を癒してくれるのは家族の愛だけだったのだ。しかし残念なことに、その愛を受け取れるのも長くて一週間ばかりだった。でも、一週間しかないのならば、今受けなくてどうするのか。その期限を過ぎてしまえば、私はその後、家族との間の深淵に隔たれて、どうしようもないほどに心を焼き殺していくだろう。後悔が身を支配してしまう前に、一瞬でも家族の傍にいて、愛に黄昏れようと思った。思い立ったが吉日。私は、憔悴した精神を叩き起こして、母の元に向かった。
限りある時間の中で、母の手伝いをする。それが私が今持つ事が出来る最大限の幸福だった。母に掃除を手伝うと告げると、母は驚きそれよりももっと大切な受験勉強をするよう促した。しかし私は首を横に振る。勉強してばっかりじゃつまらないから、今までできなかった分お手伝いをしてお爺ちゃんを迎え入れたい、と答えた。すると母は、大げさに喜び、私の華奢な体を抱きしめた。母の鼓動を服を隔てて細かに感じる事が出来る。家族ってこんなに温かかったんだな。もっと早くそれに気付いていれば、私は蒙昧な人生を歩まなかったかもしれないけど、それはもう後の祭りで……。堕ち付く先は目に見えている。精々、この温かみが色褪せてしまわない内に、人生の残響を彩ろう。
数日間、私は家族の傍で手伝い続けた。今までは家庭の手伝いなど殆どやった事が無かったが、いざやって見ると思いの外、苦ではなかった。更に手伝う事で、家族の愛を間近に感じられるのだから、存外気持ちが晴れる。往き場を無くしていた自分にとっては、それは素晴らしい癒しの場であった。頼まれた事をまるで優等生のように捌く。まさに快刀乱麻を断つが如し。学校で表に出られず頼られる事がない分、私の心は今にも横溢しそうなほどに満たされていた。ここまで幸福感でいっぱいになった事がどれだけあっただろうか。ましてや溢れるほどの想いなど、数学を長年通じて満点を取り続けた時でも劣る。ただ、親に頼られ、応えられる現実に純心が蘇るのだった。
数日して仮に面談の日が訪れたとしても、私はそれを反故にして平然として家に帰るだろう。そして鍵をかけて部屋に閉じこもる。担任は当然家に連絡を寄越す。母は突然の凶報に気が揺らぎ、私に問い詰めてくるだろう。でも私は部屋から出ない。壊れてしまった現実を背けるために、あの毒を飲む。しかし、おそらく私は死ぬ前に、母の激昂した顔を初めて目の当たりにするだろう。八時間もの猶予がある遅効性の毒だ。その間に鍵を無理やり開けられかねない。毒物でもためらう性格なので、刃物で首を掻き切る勇気が有るはずもなく、その八時間はただ部屋の隅で蹲るばかりになる。
最期に見る家族の姿が、鬼の形相。実に不服で、未練極まりない。もっと早く毒を飲んでおくべきだろうか。しかし考えてみれば、私が死ぬ事で何が解決するのだろうか。家族はどちらにせよ不幸になる。私の愛しい家族を、こんな醜い現実に追い込む事なんてできない。どれだけ思案しても、家族は不幸の深淵に落ちる。もう時既に遅く、八方塞がりなのだろうか。
終生まで続く幸福。
私はこの日、一日中思案し続けた。皿洗い、お風呂掃除、いついかなる時でも、その方法を考え続けた。そしてついにとある結論に至った。あぁ、そうか。既に答えは出ていたんだ。考えてみればこれが一番単純で素晴らしい解決方法だったのだ。私はその日から、それ実行するためにすぐさま準備を始めた。
そしてこの文を書き綴り始めたのも、その日の晩であった。
祖父がいよいよ今日退院するらしい。平日だったので私は迎えに行く事が出来なかったが、その御詫びとしても、私にできる事が有る。忌々しい学校を終えて、帰路の途中で近所のスーパーに寄り、食品を買い漁る。実を言うと、今日の晩御飯は私が作ることになっていた。前日母に、祖父の退院祝いに手料理を振舞いたいと懇願したら、母は笑顔で了承してくれた。それから母は私に三千円ほどのお金を手渡して、好きな材料を買ってきなさいと、とても協力的であった。さらには、何か手伝えることは無いかと執拗に問い掛けてきたり、ガスコンロの使い方や、フライパンの扱い方など、至って常識的な事を細かく説明してきたりなど、むしろ過保護な思いを私に向けていた。といっても、その行動が理解できないわけではない。私が家で料理したことなど全くと言っていいほど無く、まともに経験したのが学校の調理実習のみであった。私が料理をするところをめったに見た事が無いのだから、私の腕を心配してくれているのだ。また一つ、親の愛を感じる。それに感銘しつつも、私は胸を張り、大丈夫だと断った。母は、私の堂々とした態度に安心したようで、素直に引き下がってくれた。
そのメニューはシンプルな物で、白飯と赤味噌汁、そして祖父の好物である酢豚とほうれん草の胡麻和えであった。家に帰れば、私は祖父に祝いの言葉を述べて、それに付け加える様に「それと、楽しみにしててね」と、意味深な言葉を連ねてキッチンに向かった。私が料理している間、祖母は祖父と共に、別の部屋で時間を潰してくれるそうだった。父は私が料理を始めた時にちょうど帰ってきて、私自身、父に私が夕食を作る事を隠そうと思ってはいなかったのが、何故か母がそれを父に隠した。もしかしたら、ついでの思いで驚かせようとしていたのかもしれない。
私にとって酢豚は初挑戦だったので、なかなか上手くいかず一苦労したものだ。やっとこさの思いで、出来上がった料理をテーブルに並べる。完成した事を母に伝えると、母はすぐに父と祖父母を連れてきた。祖母がこれらの料理は私が作った事を告白すると、父と祖父は驚き、特に祖父は退院直後とは思えないほどに声を張り上げて、歓喜していた。
私達はそれぞれの椅子に座って、手を合わせた後に箸を取る。祖父は早速好物である酢豚を頬張って、旨いと驚嘆した。母と祖母は、美味しい酢豚の難易度がどれほど高いかを経験から知っていたようで、1つ豚の切り身を味見してから、私を褒め称えた。これで何度目の称賛だろうかと、心の中で思った。少し前までは、自分の精神を押し潰すただの腫瘍でしかなかったのに、今ではその腫瘍の正体が優しさと愛の結晶であると明瞭に感じ取れる。今まで正直に受け取れず、自ら卑屈になって心を歪めていた自分を卑下する。もし、始めからその愛に触れて、それに応えるべく努力を重ねていたら、この運命から逃れられていたに違いない。変える余地のあった人生を、自ら蔑にして捨てたのは私だ。だから私は責任を負わねばならない。家族が幸せになるための罪滅ぼしを。
私の手料理が並べられたテーブルを囲み築いた団欒の場も、もう終焉となる。家族は両手を合わせて、温かい食卓に終止符を打った。打ったといえども、その後も私の料理で話題は持ちきりだったわけだが、私は参加しなかった。食器を洗いながら、背中で微笑ましい会話を聞いたのちに、私は自分に絶賛する祖父へ改めて祝辞を述べ、そのまま部屋に籠る。
その後、私は部屋ですすり泣いていた。嬉しかったのだ。真の愛情を感じる事ができて。私をこの年まで育ててくれた家族に、私は感謝しきれなかった。内側で酷い腐敗を起こした我が娘を、いつまでも信頼し、支えてくれたその想いが、心全体に染み渡るように深々と伝わる。そして相反するように、罪悪感と私の不甲斐なさがくっきりと浮かび上がる。それは長年の怠惰からこびり付いてしまった汚穢で、もう洗い流す事も叶うまい。私ができる事は、この責任感の赴くままに、家族を幸せに導く事だけなのだった。
そろそろ最後の筆を取ろうと思う。
数日前からただ心の内をこの紙に述懐しただけであったから、見苦しい文章であると思う。しかし、これが誰に読まれようと知った事ではない。ここに書かれている事かつ、これから書かれる事は全て明白な事実であり、真実である。役に立つがどうかわからないが、これらの真実を裏付けるために少しばかりの品を、この文章と共に、この封筒に入れておいた。
以下、告白。
私は今日の晩御飯に、毒を混ぜました。たった数ヶ月前に海外の通販サイトで購入した、遅効性の毒です。家族が共に話し合っている中、私はそれを後目に、あらかじめ調味料入れに入れた塩に扮した毒を、御味噌汁の中に全て入れました。確か十袋ほどの量だったと思います。水溶性なので、沸騰した水に晒された毒達は、あっという間に消えてしまいました。まるで暗殺のプロの如く、その身を隠したのでした。それから私はその毒入り御味噌汁を家族に振る舞いました。そして家族はその御味噌汁とあっという間に平らげてしまったのです。始めはそれぞれの席に御椀一杯分だけ置いたのですが、それで毒が致死量に達しているか不安で仕方がなく、さらに誰かが偏って食べて、そこに毒が集中してしまわないように、率先して味噌汁が家族全体に等しく行き渡る様分配しました。
「御味噌汁には自信があったから、みんなにたくさん食べてほしい」
その一言で家族みんなは一層食欲を増し、また毒入りの味噌汁を舌の上で深く嗜み、絶賛してとても美味しいと私に言ってくれました。私は嬉しかった。最初で最後になる私の食卓が、こんなにも素晴らしく彩られるなど、思いにもよらなかったのだから。最後の晩餐となる夕食に、娘の手料理が振舞われ、それが非常に美味だった。これが家族にとってどれだけ幸せなことだったのかは、言うまでもない事です。
始め、私はどうせ家族を悲しませるのなら、自分の手で家族を殺したいと思っていた。例えば包丁とか。私の心に滾る鬱憤を吐き出すようにみんなを刺し殺して、家族の私に対する「どうして」という疑問から湧き溢れる、驚愕と困惑の視線を浴びたかった。みんな私に期待を切り刻まれて、意識が堕ち行く中、恨みの一念で私を睨みつけて欲しかった。その方が心苦しくない。むしろ私が駄目な人間である事を認めてくれるようで、気分が晴れる。そう考えていたのだ。
ところが、それではどうしても、愛しい家族がバッドエンドとして、終焉を迎えてしまう事になる。家族が幸せになる事を願っていた私は、それがどうしても許せなかった。せめて、家族が命を灯す最後の最後まで、幸せな状態を保ってほしいという願いが、私の心に強く根付いていたのだ。
そして思い出した。私には、その切望を都合よく達成させる事が出来るツールがあった。それが数ヶ月前に買った毒だ。その毒は、水溶性で、遅効性で、しかも安楽死に近い形で人を殺す。どうして私は気付かなかったんだろうと、唖然し、狂喜した。
家族だけには、サバンナで血肉を啄ばまれ、骨だけになった無惨な私の体を見てほしくない。いや、見ては駄目だ。その暗い未来は、私は与えられた愛を、恩で返さず、むしろ貰いっ放しの仇で成すことになる。対価が払えないのは目に見えていた。家族が夢見る、世界の中心で燦然と輝く私は、ただの幻想にすぎなかった。中学校で知的英才な相貌を見せた私も、ただの幻覚に過ぎなかったのだ。だから私は、家族をその理想郷の中で永遠に閉じ込める。いや、閉じ込めると言うよりは、汚れた現実且つこの先起こり得る愚昧な未来から、解放させてあげると言った方が適切ではないのだろうか。それが私にできる精いっぱいの恩返し。
そうして私は、祖父の退院祝いを口実に、晩御飯の中に毒を混ぜた。もちろん、最後の食事になるのだから、料理自体にもできる限り最善を尽くした。授業中に隠れて家庭科の教科書を読み、料理に於いての留意点を読み漁った。また、学校帰りにスーパーに立ち寄って、どの野菜や調味料を使うのが適切かを唸りながら毎日思案した。その初めての努力が報われたのか、晩餐に振舞った料理は、絶賛であった。懸命に作った甲斐があったと、久しい満足感を嗜みながら味噌汁を啜った。
毒はおよそ7時間後、つまり言えば家族全員が布団で寝静まっている頃に、だんだん循環系の機能が減衰し、まさに意識が夢の中に取り込まれたかのように、息を引き取るらしい。私は再度、この毒がどれほど都合のよいものか認識する。これを用いる事で私達は幸せな家族のままであり続ける事が出来るのだ。私は、親愛なる家族がこんなにも素晴らしく幕を閉じる事が出来ることに、感激すら覚える。全て私のせいなのに、私の強欲さが、傲慢さが横溢してできた、悲嘆すべき惨劇であるはずなのに、今、頬を伝った涙は、紛れもなく歓喜の涙だった。私はこの瞬間、恩返しと言う物の素晴らしさを知った。
これらを書き綴っていたら、早くも時計は深夜零時を回ろうとしていた。
そろそろこの人生の追憶も終わりにしよう。余ってしまった残りの毒は、この便箋と共に封筒に入れて、私の枕の横に置いておく。我ながら身震いするほど欲深く、我儘な人生だったと思う。これほどまでに馬鹿げた思考回路を持ち合わせた人間は歴史上私ぐらいなものではないだろうか。
比沙子ちゃん。二年前、あんなに酷い事を言ってごめんなさい。私は貴方に狂おしく嫉妬して、かつ憧れていたの。怠惰に溺れて沈む私とは対照的に、産んだ努力を実らせて、美しく清純に飛揚する貴方がとても羨ましかった。あの後に思い直して、いつか仲直りして、一緒に下校したいとも思っていた。あわよくば、将来をずっとあなたの親友として傍にいたかった。でも、もうそれは叶いそうにないの。私は家族を、時の止まった永劫に幸せな箱庭に誘うために、この世を離れないといけない。だから、かつて短い人生を共にした最低の人間として、御別れの言葉をここに残します。私はあなたと過ごした青春を忘れません。初めて私に打ち勝った時のあの可愛らしげな笑顔も、体育祭で互いにハイタッチした時のあの鋭い感触も、私の罵倒で決別してしまった時のあの今にも泣きだしそうな顔も。でも、あなたは私の事を忘れてくれて構いません。あなたに架してしまった苦しみは私が全て背負います。だから、私が現世に留まる事ができなかった分、この世界を清々しく謳歌してください。さようなら。
腕を大きく広げて見せれば、その胴を慈愛の篭った両手で抱きしめてくれたお母さん。満点の答案を見せれば、残業帰りにも関わらず驚喜して褒め称えてくれたお父さん。床に寝転がって暇を持て余せば、近くに寄り添ってあれやこれやと面白い話をしてくれたお婆ちゃん。元気よく騒げば、それに乗じて私を夜遅くまで楽しませてくれたお爺ちゃん。今まで育ててくれてありがとう。私は陰でみんなを裏切ってしまったのだけれども、そんな私を可愛がってくれた愛は、言葉で語り尽くせないほどの重みを持っていました。御蔭で私はこんなにも身長が伸びて、みんなと背比べができるようになっていました。そんな恩もこんな形でしか応えられないけれど、これが私の渡せる、最大限のプレゼントです。だから、これからもずっと幸せな家庭を築きましょう。
最後に、私はもっと素晴らしい人間でありたかった。
また気が向きましたら、筆を進めようかと思います。