雪山山荘:Q4君の時間
楽しい時間を終わらせる悲痛な叫びが、壁をすり抜けて耳へ届く。
「エリカ!! どうしたんだ、エリカ!」
異変が起きたと、斉賀は睡眠から一気に覚醒し、飛び跳ねて起きる。
ベッドから降りパジャマ姿のまま廊下へ飛び出す。
「エリカ、エリカ!」
ユウの叫びはエリカの部屋から聞こえる。
エリカの部屋の入口には、ユウと共に起床して朝食の準備をしていただろう太郎が、茫然と固まって木がはえたかのように動かない。
「どうした、何があったの」
斉賀は入り口に固まる太郎を押しのけようとすると、太郎がそれを拒もうと柔らかく斉賀の前に腕を伸ばすが、素早くしゃがんで足を踏み入れる。
眼前に広がった光景に、斉賀は目を見開く。
ユウが、エリカを抱きかかえ揺さぶりながら何度も何度も、声をかけているその光景。
エリカの身体をつたって、床に垂れる縄。散らかった部屋は、それは物取りが金品を物色したというより争った痕跡が色濃く残る。
ユウがエリカを揺らすと、弛緩した左手がだらりと垂れ、首元に巻かれた縄が揺れる。
「エリカ、返事をしろ、エリカ!」
何度ユウが叫んでも、苦悶したエリカの顔色が変化することはなく、見開かれた瞼は瞬きをしない。化粧を施し整えた顔と、苦悶した表情は酷く不釣り合いに見える。
「……ユウ。ちょっといいかい?」
一塁の望みをかけて、斉賀はユウの隣にしゃがみ、エリカの頸動脈に手を当てて脈拍を確認する。その手が震える。次いで呼吸を確認するが無呼吸だった。
「ユウ。わかっているだろうけど……死んでいるよ」
望みが絶たれた事実を、斉賀は悲痛な顔で結論を告げる。
言葉として発することで、エリカの死が濃厚に自分を包み込んでくる。
「でも……斉賀。まだエリカはあったかいぞ!」
涙声でユウは、斉賀の口から生きている希望を聞きたかった。斉賀が生きているといってくれれば、それは事実なのに――と。けれど、死んでいることはユウもわかっている。現実を認めたくなくて、ただ否定したいだけだ。
「それは……死んだばかりってことだよ」
斉賀が沈んだ声で答えた。エリカの瞼に手を当てて、開いたままの瞳を閉じる。
「幼稚だよ……エリカ。馬鹿、ホント……馬鹿」
誰にも聞こえない声で、斉賀は嘆く。
異臭はせず毒死やその他の可能性はなく、間違いなく縄による絞殺だ。
震える手で縄を解くと、首には縄で縛られた跡がくっきりと残っていた。白く滑らかな肌に残る縄の痕跡は酷く生々しくて、それを指先で撫でる。
「……どうして、だ……どうしてエリカが」
太郎が首を振りながら掠れた声を出す。重たい足取りで、太郎は部屋に踏み入れる。
「そんなの、そんなの! 誰かが殺したに決まっているだろ……」
「…………」
「誰が殺したんだよ、太郎か!? 斉賀か!?」
ユウが感情に任せ、真っ赤な瞳でギラリと太郎と斉賀を睨む。
犯人が分かれば、怒りに任せて殴り殺しそうな勢いを見せていた。
「落ち着け。ユウ」
勤めて冷静に太郎が返すと、その言葉が逆鱗に触れ、さらに激昂する。行き場のない怒りを発散するかのように、床を拳でユウは殴る。
「落ち着けるわけないだろ! エリカが、エリカが殺されたんだ! なんでだよ!」
「ユウ」
床を叩きつける拳を、斉賀が腕を掴んで止める。手の痛みより、心の方が痛んだ。
「落ち着いていけ、ユウ。俺や斉賀がエリカを殺すわけないだろ、それはユウだって同じはずだ」
「わかっているよ、俺たちは友達だ……けどよ、けど。じゃあ誰がエリカを殺したっていうんだよ。誰に、首を絞められて殺されたんだよ。こんな人気のない別荘に、外が猛吹雪のこの現状で……」
斉賀は立ち上がり、エリカの部屋にかかっているカーテンを開けると窓が映す視界は一面白で、一寸先も見えない。
太郎とユウは四人分の朝食を作るのに、エリカと斉賀より早く起床していた。そのため、外が猛吹雪であることを知っていたのだ。
一面が白で覆われている中、強盗目的の侵入者がいるとは思えなかったし、エリカだけが殺されている事実は不自然だ。
何より、不審者が現れたのならば悲鳴の一つや二つ、罵声の一つや三つ浴びせてその声で誰かに危険を知らせるはずだ。
それがなかったということは、悲鳴や罵声を浴びせる必要のない相手――つまり、顔見知りの犯行だと、ユウは推測して気持ちが荒れ狂った海のようになる。
こんなことは、自分より遥かに頭のいい斉賀や太郎が気付いていないわけがない、なのにどうして否定するのだよと声にならない悲鳴を上げる。
「……けど、だからって友達が友達を殺すわけないだろ」
「俺だって信じたくねぇよ、けど……けど、この状況じゃ、どう考えたって……」
友達を信じたいが疑うべき相手は大切な友達しかいない。
その事実がユウの胸を苦しめる。
「何故……エリカが死んだのか、知りたい」
ぼそり、と斉賀がかすれた声で呟いた。
「はぁ? どういうことだよ、そんなもの……」
ユウが声をかけるが、斉賀は黙っている。
「……おい、斉賀!」
ユウが斉賀の胸倉をつかんで引き寄せる。斉賀は沈痛な面持ちをしたまま、真っすぐにユウを見据える。
「だから、僕はどうしてエリカが死んだのか、知りたい」
はっきりと声にして斉賀が答える。
斉賀の物言いが、勘に触った。思わずユウは斉賀を殴ろうと手をかざしたところで斉賀が告げる。
「エリカは、自殺だよ」
殴ろうとした手が行き場もなく固まる。行くあてのない手が空しく彷徨い
「どういう……ことだ」
掠れた、けれどどこか懇願するような声が響く。
「言葉通り。エリカは殺されたわけじゃない、自殺だ。だから、友達が友達を殺したわけじゃない」
胸倉をつかんでいた手が離れる。安堵と、けれど自殺の言葉が混ぜこぜになってユウから表情を奪う。
「斉賀、説明してくれ」
太郎が勤めて冷静を装って斉賀へ視線を向け、仔細を訪ねる。
怜悧な頭脳を持つ斉賀の思考回路は何を思っているのか理解に苦しむ場面が太郎やユウには多々あった。
説明を求めないと斉賀は、自分が理解していることは他人も理解していると判断し、説明を放棄することもままあるのだ。
「タローもユウも殺人だと思ったんだね。違うよ。エリカは自殺だ」
「何故自殺だとわかったんだ」
「そんなもの――簡単だよ、簡単すぎるくらいだよ」
「だからなんだっていうんだよ!」
ユウが怒鳴る。混乱しているユウを太郎が落ち着けと制する。
「吉川線が、エリカにはないんだ」
「は? 吉川線ってなんだよ?」
「知らない?」
「しるわけねーだろ」
「ん。吉川線ってのはね……口で言うより実際に試したほうがわかりやすいか」
斉賀がきょろきょろとあたりを見渡し化粧台に置かれているタオルを手に取る。長さはちょうどいいだろうと縄になるように引っ張り、それをユウの背後に回って首にタオルをかけて縛ろうとする。
「はっ!? ふざけんなてめぇなにを」
ユウがタオルを外そうと首に巻かれたタオルに手をかけたところで、斉賀がタオルの手を離す。
「こういうこと」
「……つまり、普通首を絞められそうになると抵抗する。抵抗した時、首に跡がつく。けれどエリカの首にはそれがなかった、だから抵抗しなかった痕跡しかないがゆえに、自殺だって斉賀はいいたいんだな?」
状況を把握した太郎が尋ねると、斉賀は頷く。
「そう。吉川線は首を絞められたときに抵抗して、自分で首の皮膚をひっかき出来る傷のことなんだ」
エリカの首は、縄で絞められた痕跡こそあれ、自分でひっかいた跡はどこにもない。
縄以外は、綺麗な首筋がそこにあるだけ。だからこそ、縄の跡が生々しく映る。
「じゃあ、何故エリカの部屋は荒らされていたんだよ! それに自分で、首を絞めたんなら手に縄が残るんじゃねぇのか!? エリカは縄なんて持っていなかったぞ!」
「ユウが、自分の手で知らない間に縄を外したんだよ」
「は? どういうことだ」
「死後硬直がまだだ。だから、ユウがエリカを抱きしめて、揺さぶったりした衝撃で手から縄が抜け落ちたんだよ」
「なっ――!?」
ユウはエリカの身体をゆすったその手を眺める。
エリカの両手に縄があったかどうかを思い出そうと試みるが記憶に蘇らない。
死が、倒れている光景が衝撃的過ぎて他の物など、記憶にとどめることができなかった。みもしなかった。
ただ、残酷な死に、動転した。
「けど、なら何故エリカの部屋が荒らされていたんだよ」
悪あがきだとわかっている。斉賀は無駄に頭がいい。斉賀が自殺だと断定したのならば警察の捜査を待つまでもなく自殺なのだろう。
それでも、自殺だとは思いたくなかった――いや、殺人で友達の誰かが殺したとも思いたくない。
つまり、誰も殺していないし誰も死んでいないあり得ない現実を心が渇望している。
「……殺人事件へ見せるための偽装だよ」
「どうしてだ!?」
「……室内が荒らされていれば、自殺を偽装できると思ったんでしょ。でも……こんなの稚拙だ、時間稼ぎにすらならない。エリカは吉川線のことを知らなかった。勿論、吉川線がない=全て自殺ではないけれど、今回は自殺で間違いないよ」
「どうしてエリカが殺人事件へ見せるための偽装工作をしないといけないんだよ」
「タローを犯人にでもしようと思ったんでしょ」
斉賀が告げた言葉に、ユウは思考を停止する。太郎も目を見開いて驚愕する。
「なんで俺が」
「つまり」
「マテ。少しお茶でも飲みたい……心を落ち着かせたい」
太郎の申し出を断る必要もなかった。ユウが震える手でエリカをベッドへ寝かせてから、リビングへ降りる。
太郎が冷蔵庫をやりきれない思いで乱暴に開きながらペットボトルのお茶を取り出し、がぶ飲みする。ユウが俺にもくれといったのでペットボトルを投げる。
飲んでも飲んでも喉の渇きは収まらなかった。けれど荒れていた心は少しだけ、落ち着きを取り戻した。
「斉賀は飲むか?」
「……うん。もらおうかな」
台所から投げられたペットボトルをキャッチして一口だけ口に含みすぐにテーブルへおく。
飲み物が喉を通らなかった。
「で、どういうことだ」
お茶で心を少し落ち着かせた太郎が斉賀を見据えて訪ねる。
「だって、タローは、エリカの元恋人でしょ」
お茶を飲んでいたユウが吹きす。タオルで床を掃除するのも忘れて塗れたまま、驚きを隠せず叫ぶ。
「エリカの元恋人がタロー!?」
「……何故、そう思った」
驚くユウとは対照的に、冷静に太郎が訪ねる。
「簡単だ。昨日、太郎は『すっぴんでも綺麗なのにな』っていってたからだよ」
太郎は己の失言を実感して、額に手を当てる。斉賀の前で発言してはいけない迂闊な言葉だった。
「エリカはさ、すっぴんを見られるのを嫌っていた。エリカが自殺した今だって化粧をしたまま死んでいた。僕はエリカのすっぴんをしらない。ユウだって知らないでしょ」
「あぁ」
エリカの死体は、本人が施した化粧がされていたが故に素顔ではなかった。恰好は、茶色の落ち着いたセーターに赤のキュロットスカート、足はタイツを履いておらず生足だった。
「けど、タローはすっぴんを見ていた。そしてすっぴんのエリカを綺麗と称していた。それって、エリカとタローが特別な関係――具体的には“恋仲”だったってことだ」
「お前、エリカと付き合っていたのか!? 俺は全然知らなかったぞ!」
「内緒にしていたからな。斉賀にもお前にも。斉賀はいつ気がついたんだ?」
エリカと付き合っていたが二人で話し合ってその事実をユウと斉賀には一切伝えなかったし、特に一つのことから十まで理解してしまう頭の良さと回転を持つ斉賀には知られてはならないと徹底して気を付けていた。不審がないように、もしもを察せられないようにエリカと協力していた。
なのに、斉賀に見破られるとは思いもしなかったと同時に、だから――自分は、斉賀に成績で一度も勝てることがなかったのだと実力の違いを実感させられる。
「いつってほど昔じゃないよ。確信したのは昨日」
「確信ってことは元々疑っていたんだろうが」
「はは」
斉賀は肩をすくめる。
「なんで、エリカと別れたんだ?」
「友達として付き合うにはいいけど、恋人として付き合うにはエリカのプライドの高さとか、あんまり性格が合わなかったんだよ」
「つーことは、お前らから振ったってことか?」
「そうだよ」
ユウの質問に太郎はあっさり答える。ユウは拳を固めるが、あと少しのところで落ち着く。二人の恋人関係に、部外者である自分が怒り心頭になるのは筋違いであるだ。
例え別れたとしても、エリカと太郎は以前と同じように友人関係を続けることはできたのだから、あとくされはなかったはずと信じる。
「今はタロー。希美ちゃんっていう婚約者もいるしね。下世話だけどさ、エリカと別れてからどれくらいで希美ちゃんと付き合ったの」
「……一カ月後くらいかな」
「ねぇ。タロー本当のことは?」
「お前嘘発見器でもついているのか? ……エリカと別れてすぐ希美と付き合ったよ。エリカと付き合っている時、希美と出会って希美を好きになったからエリカと別れたんだ」
「てめっ!」
「まぁまぁ。エリカはそのことでタローを嫌いになったりしていないよ。なっていたら、エリカが友達面をするわけないから」
「……そうだな。だから、太郎を犯人にしたかったのか?」
「もう一つあるよ。太郎が、エリカが車にひき逃げされた事件の犯人だから、でしょ」
ユウが驚愕するのと同時に太郎は、斉賀が一体どこまで見透かしているのだろうかと疑問に思う。
見透かした視線の持ち主に嘘はきかない。嘘は見破られ、斉賀しか理解していなかった事実を皆に突き付ける。
「って待てよ。斉賀。エリカをひき逃げした車は、黒だってエリカが証言していただろ! 太郎の車は青だ。車を買い替えたりとかはしていないぞ!」
「ユウ。エリカがひき逃げされた時間帯を覚えている?」
「あ? 夜中だろ。街灯もなくて、人気のない通りだった。そのせいで目撃者もなくてひき逃げ犯が見つからなかったんだ、覚えているに決まっているだろ」
「ユウ。それが答えだよ。暗い場所で、街灯のもないようなところで黒と青の区別がつくのかな」
「……あっ。けど、太郎は車を買い替えたりはしていなかった」
「そんな買い替えなんて疑いを持たせるような行動はしないはずだよ」
「……だったら。どうして斉賀は」
何も言わなかった――その言葉が音にならなかった。
斉賀はもしかしたらと疑ったのだろうエリカが事故に会ったときの太郎の表情や、太郎の車に僅かばかりの凹みを見つけて可能性を危惧した。
けれど所詮可能性であって証拠ではない。
確信でもない。だから、きっと斉賀は何も言わなかった。
それはひき逃げ犯を見つけるのは警察の仕事であり、斉賀の仕事ではないと。
けれど斉賀はエリカが自殺したことで太郎がひき逃げ犯だと疑惑が確信に変わった。
その様が手に取るようにユウにも、太郎にもわかってしまい瞼を伏せる。
「太郎。なんでエリカをひき逃げしたんだよ」
「――先に言い訳しておくぞ。俺はわざとひき逃げしたわけじゃない。希美に会いに行く途中で偶々エリカを轢いたんだ。逃げたのは、ひき逃げして捕まりたくなかったからだ。就職も決まって、希美と結婚する約束もしていた。交通事故が原因で将来を無駄にしたくなかった。後日、俺が轢いたのがエリカだと知って驚愕したよ……謝ろうとは考えた。けど……やっぱり怖かった。どうしても、怖くてできなかったんだよ……」
「タロー」
「エリカは、俺がひき逃げ犯だと気づいていなかった。車に詳しくないし、街灯もほとんど人気のない道だったから、エリカは車の色すら青じゃなくて黒だと間違えた……だから、ばれないって期待したんだよ……期待して、無視を決め込んだのは俺さ……」
「けど、何も言わないだけでエリカは太郎がひき逃げ犯だと気づいたんだ」
「あぁ、それは予想外だった……。斉賀なら、お前なら納得したけど、エリカが気付けるとは思えなかった。けど、わからない。何故ひき逃げ犯であり、元恋人であった俺を殺害するのではなくて、エリカが死ぬ?」
「そこが、僕にもわからない。だから、僕はエリカが死んだ理由を知りたいんだ」
真っ直ぐな瞳で斉賀が太郎を見据える。太郎には、太郎しか知らないエリカの秘密があるのではないかと斉賀が推測していることがわかった。
けれど、太郎にもわからない。斉賀が求めるような秘密はもうない。
エリカが、自分を殺すのならば動機はある。
太郎がエリカを殺すのならば動機はある。
けれど、エリカが死ぬ動機はない。
「俺もわからないよ」
「――もしかして」
斉賀が太郎の顔を凝視する。
「タローを殺す動機がエリカにあったとしても、エリカは殺せなかったんだ。その手で殺すことはできなかった。フラれたことはプライドの高いエリカのことだ、許せなかったんだろうけれど、けれどそれ以上にタローを今でも愛していた。愛していたから、殺せなかった。けど、復讐をしないで済ませられるほどプライドに寛容じゃなかった」
斉賀は顎に指先を当てながら思案する。
タローを愛していたから、恋人関係を解消された後も、友達としてエリカが接していたのだとしたら辻褄があう。
「なぁ」
ユウが、悲しみに混じった中、怒りを含めた声で淡々と訪ねる。
「太郎は、エリカと付き合って振った挙句、エリカを車で轢いて、それを秘密にしていたのか――?」
かっとした表情に、斉賀は己の失態に気付く。
太郎が今いる場所は何処だ。キッチンだ――そこには朝食を作る時に使った――包丁が、ある。
「なら! エリカが死んだのはお前のせいだろ!」
「ユウ止めろ!」




