仄かな光を見つけに
瞬くと、目の前には不自然に作られた闇があった。何も見えない。頭に布が巻かれ目隠しされているのがわかる。昼の茹だるような暑さが嘘みたいに空気が冷たい。湿気を含んだ重い風が、今が夜だと知らせてくれる。他にも、夜にしか鳴かない虫の声がする。覚束ない足取りで手を引かれるまま歩いていると、地面がアスファルトでないことが分かる。高いヒールを履いてこなくて正解だった。足場の悪いところを躓きそうになりながら進んでいると、目が見えなくても他の感覚で分かることは意外と多いのだと改めて実感した。そんなことを暢気に考えた後、私は自分がこの騒々しい夜にどうして巻き込まれたのかを振り返ってみた。
確か私は、昼間、海水浴場でしっかり遊んでから車に乗り込み、エアコンの効いた助手席で涼んでいた。全身に残る波の感触に揺れながら火照った体を冷ましていると、睡魔が警戒を解いた私の手を巧妙に引いたのだった。
次、気が付いたのは、走行音の変化からだった。アスファルトを滑らかに走っていた振動が、見る見るうちに悪路の不規則なそれに変わっていった。私は目を覚ますが、一向に視界は開かない。
「とるな」
まどろみながら無意識に目隠しに伸ばした手を制された。抵抗するのも億劫なほど疲れていた私は不規則な揺れに身を沈め、制されるがまま夢と現実の境を行き来した。
予期しないところで車は止められ、その反動ではっきり目が覚めた。目隠しに手を伸ばすもやはり止められる。それはまだ許されないらしい。運転席のドアが開かれ、閉められ、間も無く助手席のドアが開かれた。手を引かれるまま自動車を降りた瞬間、どこか近くで鳴く虫の音がワッと広がった。同時に、微かに生臭い濃密な湿度の空気が鼻孔をくすぐる。足は柔らかい土を踏みしめているのがわかり、止まっていると沈みそうで、足を上げ続けるしかなかった。
しばらく歩くと、微かに水の音がした。せせらぎにもならない、水が流れ擦れる音が騒々しい虫の鳴き声に紛れて確かに聞こえてくる。確実に緩くなった地面に私は少なからず恐怖を覚え始める。
「ねえ、まだ?」
私の心細い声は応えられず闇に吸い込まれる。
「ここ、どこ?」
やけに音が多い。虫の鳴き声、羽音、草花が揺れる音、水がある音、遠くで冷たく重い風が吹いて木々が軋む音。すべてがない交ぜになって、それぞれが時折、個の音として主張する。私は足元が覚束ない恐怖を感じながら、それを凌駕する期待に胸が膨らんでいるのが分かる。夜に吸い込まれる呼吸音が二つある。それが私を案外、安心させていた。自分が一人じゃないってことが確認できたから。
そう思ったのも束の間、唐突に手が離された。手を翳し前方を探るが、何にも触れられない。どうやら一人で闇の中に放り出されたようだ。導く手がなければ前にも後ろにも、一歩として動けない。急に一人ぼっちになった気分でパニックになりかけて、私はその場に立ち竦んだ。
「ほら、ごらん」
寂しくて泣き出しそうだった私は、目隠しを外され目にしたその光景を見て、涙した。
眼前には無数に漂う光があった。小さな池の畔や水面上を幻想的な光が明滅しながら移動していった。驚きで瞬きするのも忘れていると、小さな光が私の胸に止まった。無心でその仄かな光を両手で囲うと、私は覗き込むように手中を確かめた―――ホタルだ。
「まだ人の怖さを知らないんだな」
私の捕まえたホタルを覗き込みながら、彼が言う。
「怖かった?」
彼は笑う。私は肯く。
「びっくりした?」
彼は笑う。私は肯く。
「君に見せたくて、どうせなら驚かせたくてさ」
面前の光がぼんやりと彼の微笑みを浮かび上がらせた。
「キレイ?」
私は肯く。
「スキ?」
私は肯く。
ホタルは驚くほど綺麗だった。でも、そんなことより私はとても怖くて、それより安心させられて、彼の胸に飛び込んだのだった。
彼の実家は、ホタルを見た水辺から車で十五分のところにあった。胸に満ちた感動が醒めやらない間に到着して、私は少し拍子抜けした。だから、お風呂に入り、湯涼みに誘われた時、農道を歩きながら思い切って聞いてみた。
「わざわざあそこに行かなくても、ここでもホタルが見れるんじゃない? ほら、ここは見渡す限り田畑が広がっているし、水路も通っているから」
隣を歩く彼の顔は月明かりに照らされていた。
「じゃあ、久しぶりに探してみるか」
そう言って笑う彼とバカみたいにゆっくり歩いた。水田に冷やされた風が時折、火照った体を撫でてくれた。私は彼の少し前を歩き、先に仄かな光を探し出そうと目を凝らした。
「いたか?」
水路を覗き込んでいるときに背後から声を掛けられた。私は彼を振り返り、不思議に思いながらも首を横に振ることしか出来なかった。
「前はいたんだけどな」
「やっぱり」
私は一瞬、胸を躍らせた。
「でも、だいぶ前から姿を見なくなった」
私の頭越しに水路を覗きこみながら彼はそう言った。
「どうしてだろう。今日の水辺はびっくりするくらいたくさんいたのに」
一見すると自然に溢れる風景に、私は純粋な疑問を抱いていた。
「よく見てごらん。あそこの池とここの水路で決定的に違うところがあるから」
その言葉に私は改めて水路を見る。水田という水辺もあり、土手には様々な草が生い茂っている。水路もアスファルトで整備されている位でしっかりといた水量を保っているようだった。
「だめ、わかんない。だって、小川が石造りになっているくらいであとは大体同じだもん」
少し悔しくなって小石を水路に蹴りいれながら私は言った。
「それだよ」
「それ?」
「うん。水路がアスファルトになってから、ホタルは次第に消えていったんだ」
「うそ、そんなことくらいで?」
「ああ、だから数年前まではここでも見られてたんだ」
彼の家で湯涼みがてら、ホタルを鑑賞する。想像しただけで心が安らぐ。私はその光景を打ち砕いたアスファルトに、先ほどより強く小石を蹴りいれた。
「そんな些細なことでホタルはいなくなった。もちろんその分、暮らしは安定したり、生活が便利になっているのも確かだろう。でも、自然が削られ、うちみたいにホタルがいなくなった家が世界にたくさんあると思うと、少し考えさせられるよな」
そう言って彼は遠くを見た。
「道路ができるんだって」
私は彼の指差す方向を見る。
「この田んぼの三つ奥を突っ切るらしい」
その光景を私はちっとも想像できなかった。
「信号が出来て、外灯も灯るらしい」
見えない信号を見て彼は顔をしかめた。始めは騒々しいと感じた虫の鳴き声も、いまはどうして幾分切なく聞こえた。車の音にこの子達の必死の主張はかき消されてしまうのだろうか。姿の見えない虫達を案じて私は草花を手の甲でゆっくりと撫ぜた。
「こんなにキレイな月を見れるのも、あと数年ってことだ」
暗闇に煌々と光る月を見上げる。それも外灯の光にぼかされてしまうのだろう。
「だからだからな」
見上げると、彼は私の視線を受け止めた。
「だから今のうち、好きな人に自分の好きなものを見せておきたかったんだ」
彼はそう言うと、私が何か言うのを待たずに踵を返した。
私達は帰りも出来るだけゆっくり歩いた。
「ホ、ホ、ホータルこい。あっちのミーズはニーガイゾ。こっちのミーズはアーマイゾ」
「なにそれ?」
突然歌いだした彼に私は問うた。
「知らない? ホタルを呼ぶときのうた」
バカみたいに寄り道しながら、彼はその歌を口ずさんだ。
実は私はまだ諦めていなかった。
「ホ、ホ、ホータルこい。こっちのミーズはアーマイゾ」
すぐに覚えた歌を途切れ途切れに繰り返し、水路を覗き込んだ。もし今年見つけられなくても来年またここに来て、水辺や水田の畔に目を凝らせればいいと思いながら。