第1怪 香るカレーの匂いと妖怪
僕はカレールーを鍋に入れ、かき混ぜる。あめ色の玉ねぎと一口サイズのジャガイモ、そして薄切りの牛肉がぐつぐつと煮え立った鍋の中で揺れながら、だんだんとルーの色に染まっていく。
そして少し経てば甘口カレーの、いい香りが辺りを満たしだした。
「恭~、もしかして夕飯カレー?」
「そうだよ。まだルー入れたばかりだからちょっと待ってね」
「は~い。ねぇねぇ、アンドーナツ食べていい?」
「ご飯の前だからダメ」
「ケチ~」
父の単身赴任に母がついて行ってしまった事で僕一人だけが住むこの家に転がり込んできた、居候その一が口を尖らせてそんな事を言う。僕は苦笑いをしながらそのまま火の加減を調節する。後はご飯が炊けるのを待つだけだ。
突然だけど、この世界には“妖怪”という奇妙奇天烈な存在がいる。
まぁ妖怪といっても危険な奴らじゃない。むしろ優しい部類に入るだろう。
話を聞くと伝承などに書かれている事などはここ数百年やってこなかったらしい。なんでも科学の進歩により人間たちが超常現象、簡単に言えばオカルトを信じなくなったからなのだとか。
それによって人の根源的な感情のひとつ──純粋な恐怖が廃れ始め、それを糧に生きてきた妖怪たちはだんだんと妖力といわれる存在するための力を失っていった。そしてだんだんと妖怪としての力も弱まり始め、人間に認識されなくなった。
とはいえ力を完全に失い、消滅するまでには至らなかったらしい。なぜなら恐怖を糧にしている彼らは、少しの恐怖でも自分の力に出来るようにと進化していったからだ。
例えばジェットコースター。自分の乗っているコースターが頂点に差し掛かった時、これから起こるスリルに期待するだろう。それと同時に心のどこかでこう思ったりもするはずだ。『いきなりレールが外れて大事故になってしまうんじゃないか?』と。当然それは妄想だ。ちゃんと整備してあればそんなことは起こるはずがない。
しかしもしも──整備されていなかったら? どこかに不備があったら? そんな“不安”も生まれてくるだろう。妖怪たちはそんな“不安”を“恐怖”に変えて取り込めるように進化したのだ。
そんなこんなで妖怪たちは現代社会を生きてきたらしい。
大変ですねぇ、というのが僕がこの話を初めて聞いた時の感想だった。そして出来る限りなら手伝ってやろうと思ったがまさか家に住むと言い出すとは思わなかった。なんでもこの家──というより僕から妖力に近い何かがあふれ出ているので近くにいると心地いいらしい。
この家に最初にやってきた“彼女”はそう説明するとソファに飛び込んで懐から大きめの袋に入ったあんドーナツを取り出し、ぱくぱくと食べ始めた。
流れるようなその動作に僕は少し呆然としてしまったが、ふと我に返る。
親がいないという事は二人っきりになるという事だ。男女七歳にして席をうんぬんとも言うし、住まわせてやってもいいのだろうか? と思っていた。
しかし彼女はそんな僕の葛藤お構いなしに僕の家に転がり込んできた。今もソファの上で寝転がりながら液晶テレビの画面を眺めている。僕が呆れながらその姿を見ていると、彼女は僕の視線に気づいたようでゆっくりと顔をこちらに向け“にへら”と笑う。
「ごはんまだ~?」
「あとちょっとだよ、“小豆洗い”」
「おっけ~」
僕のその言葉に満足したように、寝転がった状態で小豆色の髪を揺らして彼女はうんうんと頷いた。そして懐から小豆の入った瓶を取りだし“ジャラジャラ”と音を立てる。彼女が言うには感謝を示しているようだがいまいち本当かどうか分からない。
彼女の名前は“小豆洗い”。その名の通り、小豆を洗う妖怪だ。身長はさほど大きくなく、だいたい中学生ぐらいだろうか。うなじが少し隠れるほどのショートヘアでくりくりとした目が特徴的だ。
最初来たときは神妙な態度だったはずなのだが、僕が滞在を許すと途端に厚かましくなった。そんな彼女に僕は、少しくらい手伝ってもらいたいなぁと心の中で呟いてしまう。
僕はため息をつきながら途中だったカレーの鍋をゆっくりとかき回す作業を再開する。しばらくご飯も炊きあがったようで炊飯ジャーから間の抜けた電子音が鳴り響いた。僕が火を止めしゃもじを水で濡らそうとした時、玄関の方から扉が開く音と同時に「ただいま」という声が聞こえた。
「今帰ったわ」
「お帰り、“天邪鬼”」
「おかえり~」
玄関からリビングへ入る為の扉を開けて入ってきた彼女はフンッと鼻を鳴らして小豆洗いを一瞥し、そしてキッチンに立っていた僕を見ると持っていた荷物を自分の部屋に持っていく。ちなみにこの家は部屋がいくつかあって彼女はそのうちの一つを使っている。まだまだ空いている部屋が多くあるがほとんど物置状態だ。リビングに戻ってきたとき、彼女は灰色の腰まである長い髪の毛を揺らしながらそのまま僕のいるキッチンに来た。そして手を洗って僕の前に来た後、腕を組んで顎を上げ僕を見下ろすように見ていた。彼女のクールな雰囲気とその恰好は中々に似合っている。……ただ身長が百六十五センチしかない僕をそうやって見るのは、何か悲しくなるので止めてほしかった。
「どうしたの?」
「はやく食べたいから手伝うわ。……勘違いしないでよね、別にあなたの負担を減らそうなんて思ってないんだからね」
「……ありがとうね」
「別にいいわ、私のためだもの。それで何をすればいいかしら?」
「うん、じゃあそこにあるサラダを盛り付けて──」
彼女の名前は“天邪鬼”。小豆洗いがお友達として連れてきた妖怪だ。冷たい視線でこちらを見てくることが多い彼女だが、実は根は優しいのでこのように手伝いもしてくれる。ソファで寝ながらテレビを見て手伝おうともしない小豆洗いとは大違いだ。ちなみに彼女は二人目の居候である。僕はそんな天邪鬼に感謝の視線を向けながら用意を進める。
元々よそうだけだったのでさして時間もかからずテーブルに料理が並ぶ。小豆洗いも席について僕の声を今か今かと待っていた。この家にはもう一人、妖怪が居座っているのだが彼は食べるという事が出来ないのでまたなくてもいいだろう。僕も席について二人を見て、手を合わせる。
「じゃ、いただきます」
「「いただきます!」」
今日の夕食は辛口と甘口のカレーだ。小豆洗いは辛い物が苦手なので甘口に作ったカレーを彼女によそい、その後天邪鬼と僕の分のカレーを辛口に調整した。
僕がスプーンを手に取った時、既に小豆洗いはカレーをガツガツと口の中へかきこんでいく。どうやら彼女の口に合ったようだ。
天邪鬼はそんな小豆洗いの姿を呆れた表情で見つめ、ため息を一つつくと彼女もカレーを食べ始めた。その口角が少し上がっていたのを僕は見逃さなかった。彼女にも満足してもらえたらしい。
そんな天邪鬼を眺めていると、視線に気づいたのか僕の方を見ると彼女は少し顔を赤くしながら「……まぁまぁね。及第点はあげるわ」と言ってフイッと顔を背けてしまう。素直じゃないなぁ、と思いつつ僕もカレーを口に入れる。うん、美味い。
僕も天邪鬼も小食なのでお代わりすることはないから、残りすべてが甘口でも問題ない。小豆洗いは必ずと言っていいほど甘口カレーをお代わりするので、僕はそれを見越して毎回一人分多めに作る。今日も予想通り、小豆洗いはお代わりを要求してきた。僕は苦笑しながら彼女にカレーをよそう。
その時、リビングの扉が開く音がした。僕がそちらを向くとこの家で三番目の居候がそこにいた。
「お帰り、“一反木綿”」
「お帰り」
「おかえり~」
「…………。…………?」
「うん、今日はカレーだったんだ。一反木綿も食べることが出来ればいいのにね」
「…………?」
「ははは、確かに。シミになっちゃってとれないよね」
彼はふわふわと浮きながら僕の横で漂っている。はた目から見れば上半身が人で下半身が無い、幽霊のような形をした真っ白い布が飛んでいるようにしか見えない。しばらくそうしているとテレビの内容に興味が移ったようでそのままするするとソファの上でとぐろを巻く。そして腕でリモコンを操作しながらテレビを見始めた。
彼の名前は“一反木綿”。一反と言いながらそれよりも小さくなれるらしい。この三人の中で一番人間社会に慣れているのは彼だろう。この家に来た時、小豆洗いと天邪鬼がパソコンの使い方を覚え始めたとき、彼は既にパソコンをブラインドタッチで打てるほどになっていた。そして趣味は料理、そして裁縫が得意という家庭的な部分も持っている。ここ一番という時に頼れるのも彼なので、一反木綿はこの家の長男的存在だ。
「ところで今日はどこに行ってたの?」
「…………。…………!」
「へぇ、公園で子供たちと缶蹴り? 圧倒的勝利を収めた? ……少し大人げないような気がするよ」
ちなみに言うと、妖怪は子供たちには普通に見えるらしい。なんでも子供はまだお化けや妖怪の存在を否定するほどの知識を持っていないからだとか。
そんな訳で平日の夕方ごろには一反木綿は公園で群がっている子供たちと遊んでくることが多い。最初聞いた時は子供を怖がらせているんじゃないかと思ったが、あまり妖怪らしくない彼は子供の泣き顔よりも笑った顔の方が好きだと言っていたのでその心配は無用だった。
足の無い彼がどのようにして缶蹴りをしたのか気になるところだが、今は夕食の最中なので食べ終わったら聞くとしよう。
「ごちそうさま! あ~美味しかった! また作ってね!」
「小豆洗いが手伝ってくれたらね」
「あなた、この家にお世話になってるんだから手伝いくらいしなさいよ」
「…………。…………?」
「ちょっと一反木綿! あたしだって皿洗いくらいは出来るよ!」
一反木綿は話すことが出来ないので身振り手振りで何を言いたいか表現するしかない。
彼は小豆洗いに「そんなに何もしてないのか。もしかして皿も洗えないんじゃないか?」と伝えていた。
そんな彼の言葉に小豆洗いは身を乗り出して反論するが、一反木綿は信じていないようで「ほんとかぁ~?」と言うように腕を組んで彼女を見ている。
そんな彼の様子が癪に障ったのか、小豆洗いは顔をムッとさせて椅子から立ち上がると自分の皿を持ってキッチンに向かっていく。
僕はそれをボーッと眺めていたがハッと我に返り慌てて立ち上がり彼女の後を追う。彼女は家事が全くできないのだ。
「あ、小豆洗い! 食器洗うの僕がやるから君は何もしなくて……も……」
「うわ~ん! 上手くいかない~! ……あ」
僕がキッチンについた時そこは惨状と化していた。皿は割れ、コップにはヒビが入り、ステンレスの流しには明らかに多すぎる量の泡があふれ出ている。リビングからキッチンまではさほど離れていない、というより数秒かかるかかからないかの距離だ。その一瞬で一反木綿が取り出しやすいようにと配置したキッチンの棚にある鍋までも下にぶちまけるとは。開いた口が塞がらなくなっている僕に気づいた小豆洗いは取り繕うように笑って頬を掻いた。
「ははははは……やっちゃった?」
「そっ、そこに正座しなさい!」
「ごめんなさーい!?」
僕は割れた食器類が両親からの仕送りで賄うことが出来るだろうかと考えながら、小豆洗いの説教を行う。こんな毎日は案外楽しいと感じていることは秘密だ。
これは僕こと岡辺恭と転がりこんできた二人と一枚の妖怪たちで織り成す、すこしおかしな見聞録。付き合ってくれると、ありがたいね。
魔道具使いの息抜きとして書くこの作品。
更新速度は牛歩並!
文量もそこまで多くならない予定。