愛情のシェイクスピア
中庭のアサガオは美しく咲いていた。絡みつくツルは七月の青空へ背伸びして、地面の下では水を求めて足を伸ばし続けている。アサガオも氷バケツが欲しいのだろうか。
私は微笑ましい気持ちでアサガオを撫でて、大学の1号館へと戻る。試験が早々に終わることは望ましい。夏休み期間前から夏休みになる。
一号館は芸術センターと呼ばれ、設備が充実していた。
私の所属する演劇部にとってこの大学ほど、活動しやすい場所はない。
「さぁ、みんな! 始めようぜ!」
演劇ホールに入った瞬間。活気のある男の声がした。
それが私の幼馴染、忠だと気付いたときには顔から火が出る思いがした。
「ちょっと忠、何一人ではしゃいでるのよ! 見てるこっちが恥ずかしいわ」
「コラコラ、一人ではしゃぐからチームに活気が宿るんやで?」
「どういう理屈よ!?」
私が忠の胸倉を掴んで威嚇しようとすると、
「まぁまぁ、落ち着いて、愛流」
と、私を宥める人がいた。その人を見た皆は唐突に背筋をピンと伸ばす。背が高くてメガネを掛けたイケメン。
「こ、こんにちは、高井先輩、い、いえ……監督!」
「リオと名前で呼んでよ。愛流」
クスと、高井先輩が笑った。笑った!! 超かっこいい!!
私の頬はそれだけで熱を帯びる。
ただえさえ真夏なのだから。額が汗ばんでしまう。そんな姿を高井先輩に見られるのは恥ずかしかったから、私は顔を手で覆ってしまった。
「ふん、今更大和撫子らしい振る舞いしちゃってもねぇ……目玉焼きすらまともに作れないという事実は隠しきれな――」
「うるさい、バカ忠! 死ね!」
私は忠のオイル如く滑る口に、バッグを丸ごと投げつけた。運よく化学反応でも怒ってその口がサビついてしまえばいい。
「まぁ、妻夫漫才は置いといて、これから配役の発表を行いたいと思う」
高井先輩の一声で、ホールは静寂する。今回の演劇はそれだけ重要度の高いものだった。
高井先輩が監督に就任してから、私達の演劇部は世間から注目を集めるようになった。オリジナルの脚本は2回連続で脚本賞に輝き、演技力も世間で評価され、プロに混ざって公演することもあった。
それだけに高井先輩が手掛ける3作目の注目度も高かった。うまくいけば、役者の世界に潜りこめる。そんな期待さえも、部員達は抱いていた。
ちなみに、自慢をするならば、これまでの高井先輩の作品で主人公を演じたのは忠、ヒロインを演じたのは私である。
「主役は、岡島 忠、そしてヒロインは――」
しかし、人生はそんなに甘くないらしい。
「宮崎 可奈」
高井先輩の声に誰もがどよめいた。可奈は演劇部に入部したばかりで、台詞の少ない脇役として舞台に出た経験も二度くらいしかない。
そんな女の子がなぜ、大舞台の中心となる役割に就任したのか。
その理由を私は推測できなかった。
むしろ、ショックだった。何年も経験を積んでヒロインにまでこぎつけた私が、入部して半年にもみたない。新入部員に役を取られるなんて……
心のなかで思いを巡らせる間に私の役が発表される。
ヒロインを恋敵とする女。
それが私の役割だった。
○
自宅で改めて脚本を呼んだ。何度も何度も読み直した。内容はシェイクスピアがハッピーエンドを描くような、そんな感じ。
「……だからってラストシーンに主人公とヒロインのキスシーンがあるってどういうこと!?」
私は、忠と可奈の姿を思い浮かべる。忠は女子部員に人気があった。背が高くて筋肉しつで、お祭り男のように明るい。特に、可奈はその傾向が強かった。忠にお弁当作ってきたり……飲み物買ってきたり。可愛い後輩の如し。可奈が忠のことを好きなのは周知の事実だ。
私は、主人公とヒロインのキスシーンを思い浮かべた。脚本によれば、星空の下でキスして暗転。幕が閉じるらしい。きっと、それはロマンチックで興奮する。
「忠は彼女作ったことないからなぁ、可奈と付き合うかもなぁ」
そう思うと、少し寂しいかもしれない。忠が彼女を作ることがあれば、私という存在は邪魔になる。これまでのような付き合い方はできなくなる。
……忠との距離が遠くなる。
まるで、忠に置いていかれるような気がして。私はとても苦しい気持ちになった。
立ち上がる私。メイクセットの鏡に写る。
「……肌、荒れてるなぁ」
とても狼狽した表情をしていた。
それはまるで……ヒロインを妬む女のようだ。
「適材適所……高井先輩ってやっぱ天才」
そう呟いた。
そのとき、
「愛流! おきてるかぁ???」
騒がしいお祭り男の声が外から聞こえた。
私は驚いて窓を開ける。
一軒家の私の家、その中庭に忠の姿があった。
「うるさいわよ! 騒ぐ暇があるなら練習しなさい!」
「だ・か・ら・さ、練習付きあってよ! サラ!」
サラ、それはヒロインの名前。
忠は、練習の前から役に入る癖がある。それだけ本気という意味だ。
「う、わかったわよ、家、入って」
「いや、外でやりたいから、お前が出てこい」
「はぁ?」
「……頼む」
低い声で忠が言った。
「……ちょっと待ってて着替えてくるから」
私はクローゼットから服を出し。着替えを始めた。そのとき、鏡に自分の姿が映る。
「悔しい、なんで私は笑ってるのかしら?」
○
さらに悔しかったのは、忠が練習場所として選んだ場所だった。
がさつで、適当な忠のくせに。
「……キレイ」
私はそう言わざるを得なかった。
場所は公園、住宅街から少し離れたその場所は明かりが少ない。
空は雲一つなくて、星空がラメのように輝いている。
「世界で最高の舞台だろ? 天然の舞台会場。ギャラリーは人間様より遥かに多い大自然ってわけ」
「う、うん……」
「それじゃ、始めよう。サラ」
私は、大舞台でヒロインの役に任命されたのである。
○
実際の役割とは違うが、私はヒロインの台詞を全て暗記していた。
何遍も何遍も自宅で読み返していたから。
忠の演技は上手い、とても声が通って、ドキ、とさせられる。
舞台の上の忠は、男前な主人公そのものだ。
『サラ! 行っちゃだめだ!』
『どうして!? あなたには愛してくれる人がいるじゃない』
やばい、感情がこみあげてくる。
『あなたのために尽くして、あなたのために自分を捨てて、あなたのために息をする。そんな人がいて何が不満だというの!?』
胸が苦しい。悲しい。
『不満だ! オレのために尽くして、オレのために自分を捨てて、オレのために息をしてくれる。そんな人がオレの前からいなくなろうとしているのだから』
『わけわかんないよ!』
『分かれよバカ!』
忠が、私の肩を抑えて向き直らせる。忠の強い瞳が私の眼を離さない。
『サラは、オレのために叱ってくれる。サラはオレのために自分から身を引こうとしている。サラはオレのために生きようしている。そんな女は平和な国や紛争地帯を渡り歩いてもお前しかいないんだよ!』
……胸がドキドキする。
ちょ、なにコレ。
『私は、た、ただ……』
『サラ』
気づけば、私の背中には木があった。
忠の瞳を逸らすこともできない。真剣な忠眼を見つめる意外にすることがない。
……やられた。
『お前のことが好きだ。愛している』
もう、台本にあるヒロインの台詞は一つしか残っていない。
『サラ』
次は主人公のプロポーズの台詞だった。忠の顔が近づく。鼻と鼻がこすれそう……
そのとき、忠は笑った。
『キレイな形の目玉焼き、つくれる女になろうな』
それは完全にアドリブだった。
でも、ヒロインに与えられた台詞にアドリブの余地はない。
『……はい』
笑ってそう答えるだけなのだから。
そして、私の身体は木の幹に押しつけられる。
動くものは忠の顔しかない。全ては忠の思うがまま。
私の唇に忠の唇が重なった。
私の視線の先にネオンのような星空が映る。
(星空の下、主人公とヒロインはキスをする。そして暗転、幕を閉じる)
ギャラリーの草木がサラサラと歓喜をあげた。
私は、そっと、瞳を伏せていく。
そして、ゆっくりと、 目の前に映る景色が暗転していく。
大舞台はこうして幕を閉じた。