9th 婚約者の再来
二日後、有稔が黒いカッターシャツと白いズボンに着替えているところへ部屋のチャイムが鳴り響いた。ブリリアント・リバーはエントランスから暗証番号入力式のセキュリティを採用していた。ここの暗証番号を知っているのは身内か有紗くらいだったが、有紗でないことは容易に予想がついた。
ドアを開けるとそこにはいつか顔を合わせた自称婚約者の神戸純玲が一人。今日も巻き髪をして清楚を装っているのがわざとらしい。
「おはようございます、有稔さん」
「……ああ、そうだね」
有稔は純玲のその甲高い声にあからさまに不機嫌な表情になる。
どうやってここまでたどり着いたのかはすぐに分かった。およそ聡子から聞き出したというのが正解だろう。何のために来たのか、それは純玲にしか分からないことだが。
「有稔さんの奥様はいらっしゃるかしら?」
「あいにく、今彼女は留守だ」
なるほど、純玲がここへ来た理由を把握した。どうやら有紗の顔を見たいらしい。不幸中の幸か、有紗は今いないせいで純玲に有紗を見られる心配がなくてよかったと、心中複雑ながらもホッとした。
「まあ! 朝だというのに奥様いらっしゃらないの? 奥様とお茶をしたくてお菓子を持って参りましたのによほど奔放な方なのね。上げていただける?」
純玲の口角を上げ、『奥様』を見下す態度で有稔に接触するところを見れば、実にしたたかだと言わざるを得ない。有稔は「少し待ってくれ」と、いったん純玲を外に待たせ、ドアを閉めチェーンロックを外すまでの間に有紗の制服や学生鞄はクローゼットの中へ、ローファーはシューズボックスの中へ、有紗のものだと分かるものはすべて隠した。そしてその作業が終わると純玲を渋々部屋に上げリビングへ通した。
「素敵なお部屋ね! 若葉市が一望できるなんて、とても眺めのいいマンションを購入なさったのね」
純玲はガラスに張り付き、一望できる若葉市を楽しんでいるようだった。神戸家のそれは有稔宅のそれとは比べものにならないほど豪勢であるはずなのに、何からなにまでわざとらしく有稔の不機嫌はより一層積み重なった。
そんな純玲の下心を読んだ有稔はさらに不機嫌になりソファにどかっと腰掛けた。
「君はおばあ様の差し金か? 悪いがその手には乗らない」
「私まだなにも話していませんでしょ? 有稔さん怖いです。あ、せっかくですからこのお菓子召し上がってくださいな」
そう言い、純玲は持ってきたバスケットからクッキーやマドレーヌが入った紙袋を取り出し、それをガラス製のテーブルに置いた。
「あ、そうだわ。コーヒーか紅茶いれなくてはいけませんね。キッチン貸していただける?」
ここまで我が物顔で部屋を徘徊する人間はそうそういないだろう。純玲のその厚かましさに苛々し始めていた。
仮に純玲が妻だった場合を想像してさらに苛々していた。
「そんなことはどうでもいい。早く用件を言いたまえ」
純玲は座っていた大理石の床で姿勢を正すとさっきまでとは打って変わって無表情で話し始める。
「本当は私と結婚する予定なのよ。秦部グループと神戸家の強固な繋がりは必要でしょう? 私と有稔さんが結婚すれば一族の繋がりはさらに強固なものになる。代々秦部家は外部の血を入れなかったこと、それはあなたもよく分かっているはずよ。まあ言ってしまえばあなたも外部の人間なのだけれどもそれとこれとは話が違うわ」
純玲は有稔の反応を楽しんでいるようだが、有稔は横目で純玲を見て軽く流した。
「早い話が、再従妹である君と結婚しろと。そういうことか?」
「ええ、そういうこと。この件は当主も聡子おばあ様も他の構成員も、全員が望んでいることなのよ。――こんな16の小娘とのお遊びはほどほどになさったら? 火遊びが火事になる前に」
そう言って純玲が差し出したのは有稔周辺を嗅ぎ回って集めた資料だった。おそらく聡子か純玲が優秀な探偵を雇い、有稔周辺を嗅ぎ回っていたということだろう。それが純玲に知られてしまったのだ。
有稔はポーカーフェイスを装い、その資料を手に取り斜め読みした。有紗のパーソナルデータを始め、名ばかりではあるが宗家の出身であること、他に有稔の知らない情報が無機質なパソコンの文字で記載されていた。有稔はある程度は有紗の身辺を調査してはいたが、いかんせん仕事に追われ調査結果を隅々まで見ることはなかった。
「これは私が勝手にやったことです。まだ聡子おばあ様にはお話ししていません。これを見たらおばあ様、卒倒されるでしょうね。まさか一回りも年下の小娘に手を出しただなんて思いませんもの。一応忠告のつもりで先にあなたにお話ししたんです」
純玲はまだ自分の付け入る隙があると思ったのか往生際が悪い。まるで負け犬の遠吠えのように滑稽だ。
「で、それが悪いことだと? そこまで調べたなら、もちろん戸籍の閲覧もしたんじゃないのか。彼女と私は法律上の手続きを踏んだ上で結婚した。よって君は私の妻にはなりえない、以上だ」
まったく悪びれる様子もなく、むしろ毅然とした態度で開き直ったように資料を尻目に法律婚を盾に取り純玲に吐き捨てたのだ。有稔は余裕で構えていた。有稔は離婚の意思など持ち合わせていなかったのだから。
日頃から次期当主問題でうるさい聡子と純玲を黙らせるために偽装結婚をしたのだから、まだ離婚する気などさらさらないのだ。これでは偽装結婚した意味がなくなってしまう。
純玲は怒りとおそらく悔しさを滲ませ、唇を噛み、有稔から資料を取り上げると足元に置いていたバッグを勢いよく掴み部屋を出ていったのだ。
うるさい純玲が出ていったことを確認したところで有稔の携帯電話が鳴り響いた。
「ああ、そうか。よくやった。早急に連れ戻すんだ、たとえ抵抗してもだ」
電話の相手は有稔がもっとも信頼を置く大河原怜司だ。有稔が有紗を捜すよう指示してから、ここ二日の大河原は仕事の合間を縫って捜索に奔走していたのだ。ここで警察を使っては、ますますマスコミが有稔や有紗の周りを嗅ぎ回ると判断してのことだった。
その分、伊瀬紀嗣の仕事量は増えていたが。
この一件から有稔は常に目の届く範囲に有紗を置いておくべきだと痛感したのだ。
「春川菜月さんのお宅ですね。上杉有紗がお邪魔しているかと思うのですが、呼んでいただけますか」
そこには黒いスーツを身にまとった大河原がいた。この件に関して大河原は単独行動をしていた。単独行動だとやりにくいことも多々あるが、下手に情報が漏れるよりはましだと思ってのことだった。
有無を言わさぬ口調と目つきで菜月を威圧し、有紗を引きずり出そうという作戦だ。高校への電撃訪問のときとはまるで人格が違うようだ。
「春川菜月は私ですが、どちら様ですか」
玄関先に出たのは菜月で、有紗が春川家にいることを知っている人間がいることを疑問に思い、有紗がいることはあえて言わなかった。
「CEOだと伝えていただければ話は通じます」
菜月は大河原が怪しいと思ったのか大河原の上から下までひと通りじっと見ると二階へと姿を消した。
そして菜月の部屋にいる有紗にCEOの件を伝えた。そうするとたちまち有紗の表情は強張り、全身を小刻みに震わせていた。
「わ、私……いやだ、帰りたくない」
「CEOって有紗、最高経営責任者のことでしょ? 一体何したの?」
菜月にばれるのも時間の問題かもしれない。有紗の直感だ。
「……」
そこへいつまで経っても有紗が下りてこないので痺れを切らせた大河原が何の断りもなく二階へ上がってきていたのだ。そして有紗を見つけるや腕を掴んで立たせ勢いよく引っ張って階段を下り、お騒がせした、とだけ菜月に伝えると春川家を出た。
「あなたのせいで仕事が台なしですよ」
大河原は毒づきながら社用車BMWセダンに有紗を押し込めるとアクセルを踏み込みブリリアント・リバーに向けて発車した。
家出が不完全に終わってしまったことや、何をしても絶対連れ戻されてしまうこと、逃げられないのだと思うと込み上げる鳴咽を堪えたものの一筋の涙が頬を伝った。だが、今の有紗には有稔を拒絶することなど出来はしないのだ。
否応なく確実にブリリアント・リバーに近づく。有紗は車窓から若葉市の流れるような風景をただぼんやりと眺めていた。リアシートに乗っている間、有紗も大河原も一言も言葉を口にすることなく到着までの15分程度を沈黙が支配した。
二日ぶりに見るブリリアント・リバーは相変わらず人目を引く外観で、まるで有紗の帰りを待っているようだった。部屋の前まで着いてきた大河原は有紗に一言耳打ちすると、失礼します、と姿を消した。
誰もいなくなった最上階30階フロアには有紗がただ一人、暗証番号を入力しロックを解除すると部屋に入った。朝の10時だというのに部屋はそれ相応の明るさではなく、唯一ガラス張りのリビング・ダイニングだけがとても明るく感じた有紗だった。
あの人……純玲嬢の登場です。純玲嬢は高飛車なイメージなのでそんな感じで読んでいただければと思います。
個人的に大河原くんは二面性を持っていると思います笑
有稔には忠実で有紗には冷たいのだけれど。
いよいよ次回でこのお話も二桁です!(実は嬉しい)




