8th 幼妻の家出
「私との結婚が間違いだった……?」
「ああ、そうだ。間違いだった」
今の有稔には何を言っても聞かないだろう。
「誰とも寝ていないし、私ずっとここにいた。何も知らない」
困惑した有紗は自分が何を言っているのかもう分かっていなかった。そして込み上げた涙が頬を伝った。香水に心当たりのあった有紗は弁解しようとしたが、有稔がリボンタイをさらに強く引っ張ったので言うことができなかった。
「さあ、どうだか。もしそれで子供ができてもそれは私と君の子でないことはお互いがよく分かっていることだ。君が私の妻としてここにいたいなら始末くらい訳ないだろう。身持ちの悪い小娘は嫌いだ」
有紗は有稔とは結婚したくて結婚したわけではない。仕方なく結婚したのだ。それは有稔も分かっているはずだ。『妻としてここにいたいなら』この表現にはいささか疑問だ。
そもそもこれまで有稔が有紗と関係を持たなかったのは、出会ってすぐに結婚したのだから当然どんな人物かは分からないから様子見をしていたのだ。他人の子を掴まされるリスクを回避するための策だったのだ。お互いキスすらまともに交わしていなかったし、性的関係も持ったことはなかった。本当に形だけの夫婦だった。いや、ただの同居人同然だ。有稔にしてみれば他人の子を掴まされるなんていう面倒くさいことは真っ平ご免被りたかった。
有紗は震え、唇を噛み、有稔のリボンタイを掴んでいる左手にそっと冷たい手を添えた。
「ゆ、有稔さん、私……子供はいりません。だからもう怒った顔しないで、怖い……」
有紗はひざから崩れ落ちると泣いた。半ば有紗と有稔との間の子供はいらないという旨を有稔は言いたかったのだろうと察した有紗は、まるで自分が妻として役割が不足していると突きつけられたと思ったのだ。しかし今は出て行ってもこれから住むところも寝る所もない状態では、子供はいらないの一択しか選択肢がないことはよく分かっていた。昨日までの楽しい時間はどこへ行ってしまったのだろうと、涙した。
有稔はリボンタイを掴む力を緩めると、自身のネクタイを緩め、上着とともにベッドへ投げ、何も話すことなくリビング・ダイニングへと姿を消した。自分ではその有紗に対するもやもやしたものが嫉妬であることは薄々感づいていた。こんな小娘に興味を抱いてしまったことを肯定したくなかった。
そして有紗が『香水の主』と関係を持ったことはないことも、有紗を見ていれば分かっていたはずなのに傷つけてしまった。顔も知らない『香水の主』に嫉妬してしまった、ただそれだけのことで有紗を泣かせ、挙句、一回りも年下の16歳になったばかりの少女に子供はいらないと言わせてしまったのだ。まるで自分の方が子供のようでみっともなかった。
「何をやっているんだ俺は……有紗を泣かせて」
有稔はグラスに水を注ぐと一気に飲み干した。今日の理事長を務める秦菱大学附属高等学校への電撃訪問では、体育館からの去り際に女子生徒が、小娘が色気づいて寄ってたかって有稔に媚びようとする姿に吐き気が込み上げ苦笑いすることで精いっぱいだったことは、有稔以外の秘書を始めスタッフの知るところではなかった。今までは誰かれ構わず関係を持っても吐き気が込み上げることなどなかったのに。
「気持ち悪い……」
目を閉じれば蘇るすべての光景に吐き気が込みあげた。
有稔はシャワーを浴び、ベッドルームではなくリビングのソファに横になるとそのまま眠りへと落ちていった。有紗のいるベッドルームへは入ることができなかったのだ。
一方の有紗は有稔が寝静まったのを見計らって、有稔が掴んでしわの付いてしまったリボンタイとセーラー服を脱ぐ。
洗面台の鏡に向かって泣き明かした後、無理やり笑顔を作ってみたがひきつってすごく不自然だ。そのままシャワーを浴びて持ってきた服の中でもそのまま外へ出ていけるものを選んだ。これから寝ようとする人間の着る服ではないことは一目瞭然だ。髪を乾かし、後ろでひっ詰め、時計を見るとちょうど深夜12時を回ったところだった。有紗は深く呼吸すると覚悟を決めたように携帯電話である人物に連絡と取ると電源を切った。足がつかないようにするためだ。持ってきた荷物を肩から斜めに提げるとローファーでないカジュアルシューズを履くと部屋のドアをそっと開け姿を消したのだ。
「有紗、こんな時間に電話してくるだなんて、どうしたの? またお姉さんとケンカ?」
有紗は公園に菜月を呼び出し、今日一日でいいから菜月の家に泊めてほしいと懇願したのだ。そんな菜月は有紗が真季とケンカ中であると思ったらしい。本当は有稔と同じ空間にいたくなくて出てきたなど口が裂けても言えない。
「急にごめんね、ちょっとごたごたしてて……菜月の家に泊めてほしいなんて無茶言ってごめんなさい」
「いいよ。うち今日は両方とも親いないし、だから安心していいよ。でも明日が休みでよかったね」
有紗と菜月は菜月の家に向かって歩き始めた。夜風に当たると少しは気持ちも楽になるだろう、そう思っていたが菜月と一緒にいたほうが気持ちが安らぐことを実感した。15分ほど歩いたところで菜月の家に到着し、家に上がった。
菜月の家はごく普通の一般家庭だ。有紗が母親とともに過ごしていた家とは言い難い寂れたアパートよりも豪華なものだった。そしてブリリアント・リバーよりもこじんまりとしていた。ただ有稔だけが住む世界が違うと言うだけの話だ。
「有紗、夕食食べた?」
「あ……」
有稔との一件の前から何も口にしていなかったことに今更気づく。その様子を見て菜月は「なんだ、食べてないんじゃない」と笑うと、レトルトのリゾットを温めて有紗に食べるよう促した。
「はい、こんなのしか出来ないけど……食べて」
「ううん、すごく嬉しい。ありがとう。菜月優しいね」
「何言ってんの、それ今更だよ。私はいつでも優しいんだからね!」
「菜月のそういうところ好きだよ」
有紗は食卓のテーブルに着くとスプーンで温まったばかりのリゾットを口にした。菜月は有紗の向かい側に座り有紗の食べる様子をにこにこしながら見ていた。
「ねえ、菜月……将来子供欲しいと思う?」
有紗が精一杯考えて口にした言葉はそれだった。
「なにいきなり! びっくりするんだけど。子供……たしかにいいかもね、一人くらいいてもいいんじゃない? ていうか私たちまだ16歳なんだけど、結婚とか早いし子供なんてまだまだでしょ。そんな有紗は?」
「うん……」
有紗はリゾットに視線を落としどう答えるべきか思案していた。一般的には16歳での結婚は早いという感覚らしい。それが普通なんだと有紗は思う。自分だけが普通でないことをしてしまったのだ。罪悪感に苛まれた有紗は菜月と同じ立場に戻りたいと思った。このまま菜月にあの話をしてしまおうか、そうすれば菜月はどう思うだろうか。
「なにがあったの? 話してよ。この間から有紗ちょっと変だよ」
「うん……」
菜月には有紗の様子がおかしいと気づかれていたのだ。それもそのはず、最近生返事が多くなったことが原因だろう。そして心ここにあらずという場合が多い。そういう変化に気づく菜月は洞察力やそれに類するものが鋭いのかもしれない。
「時期が来たら話すから……今は待ってほしいんだ。気持ちの整理がつかなくて」
いつか菜月にばれてしまうのではないかとなるべく感情を表に出さないようにいつもの有紗を装うことにした。
「そっか、早く解決するといいね。私は有紗の笑顔が見たいだけだから、ね。辛いことがあったら遠慮無く言ってね」
「うん、ありがとう」
それ以上詮索しなかった菜月は有紗の手を取ると有紗のそばまで行き軽く抱きしめた。そのまま二人は菜月の小さなシングルベッドで一緒に眠った。いつもは大きく冷たいダブルベッドで一人で眠っている有紗にとって今日は誰かがすぐ隣で寝ている、それが有紗を安心させた。
しかし有稔と離れたこんなときでさえもあの大きなダブルベッドでこのように眠ってみたいと頭をよぎり涙しそうになった。あれだけ罵倒されたのにどうしてここに有稔が出てくるのか――今頃有稔はどうしているだろうか、まだ眠っているだろうか。はたまた有紗が出ていったことに気づき捜しているだろうか。もしくはもう放置されたままかもしれない。そういえば今日は有稔は朝が早かったはず。有稔は会社を背負う責任重大な立場であるのに有紗のことにばかり構ってはいられないだろう。自分がこんなことをしたせいで会社の業務に支障が出たらどうしよう。そのことにより社長職を解任されたらどうすればいいのか。社会に対しての視野が狭い有紗は有稔が解任された後どういう処遇を受けるのか全く分からなかった。
『有稔さんごめんなさい』
と返信に希望の持てないメールを送って電源を落とした。考えるのは有稔のことだけであることにまだ有紗は気づいていない。
有稔にメールしちゃった有紗ですが、歩み寄りのためのきっかけはできたのではないでしょうかね。次回はあの人が登場予定です。




