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偽装結婚、仮面夫婦  作者: 宇治遙
5/17

5th からっぽの結婚生活の始まり

 有稔はそのままパーティーを抜け出し帰宅した。有稔はソファに腰を下ろし、有紗は有稔の隣に浅く腰掛けた。どんな行動をとってもやはりよそよそしいのは否めない。仮にも夫婦なのだから『秦部さん』と呼ぶのはおかしいだろうというので有紗は『有稔さん』と、そして有稔は『有紗』と呼ぶことにした。


「有稔さん、大丈夫なんですか?」

「ああ、言ってやった。もう結婚しました、とね。明日、社ではその話題で持ちきりになるだろう」


 パーティーが終わり帰宅した有稔はしてやったり顔で眼鏡を外しテーブルに置いた。ひとしきり笑いいよいよ笑いが止まらなくなったときに有紗に心配され何があったのか話した。しかし有紗に釘を刺しておくことは忘れない。


「有紗、君はこれからも上杉のまま高校に通うといい。そのほうが君もやりやすいだろう」

「分かりました、そうします。怪しまれずにすみますね」

「物分かりがいい。そういうことだ」


 これで本邸からの結婚催促へ多少時間稼ぎになるだろう。上杉有紗が妻だといっても有紗が表に出なければどんな人間かなど分かるはずもない。高校へは有稔が規制と圧力をかければ外部に情報が漏れることもない。


「ひとつ聞きたいことがあります。有稔さんって関西の出身なんですか?」


 それは有紗が先日から気になっていたことだ。

 有稔は少し眉間にシワを寄せ、話すのに抵抗を示す素振りを見せたので、有紗は地雷を踏んだと思ったのか「ごめんなさい」と謝った。


「君が謝ることはない。ただ自分のルーツを話すことが苦手なだけだ」


 しかしお互いのルーツを知り合うことはこれから夫婦生活を円滑に行っていく上で必要なことだと割り切ったのか重い口を開き、ぽつぽつと話し始めた。


「またいずれ本邸に君を連れていくことになるだろう。そうなる前に話しておく。俺は……ロシアで生まれ育った。15歳までロシアで過ごし、18歳までは京都で過ごした。ある意味では関西出身だろう」

「ロシアの生まれ? だから少し色素が薄くて日本人ぽくないんですね」


 有紗は有稔の外見からおおよその予想はつけていたが、実際本人の口から聞くのとではまったく実感の度合いが違う。

 有稔は話し続ける。有稔の父親はロシア人でロシア大使館の職員、母親は秦部家現当主の三女だった。ロシア人の父親が仕事の都合でロシアに帰国するというので、母親は祖父母や一族の反対を押し切り駆け落ち同然でロシアに渡った。そのときにはもう有稔を妊娠していた。それきり秦部とは疎遠になった。いずれ生まれる子供は色の薄い、いわゆる外人さんだ。封建的な秦部家にとってそんなどこの馬の骨とも分からない男の子供を受け入れるなど到底できなかったのだろう。だから勝手な真似をした恥さらしの三女がロシアに渡ってくれたお陰で自ら手を汚すことなく排除することができた。事実上、絶縁状態となった。

 こうして7月、ロシアでユージン・ニコラエヴィチ・アルスキーが誕生した。


「と、いうことは有稔さんにはちゃんとした名前があったんですか?」


 有紗は熱心に話を聞き、一字一句聞き逃すまいと真剣だ。そうやって真剣に自身のルーツを聞いてもらえることは有稔にとって滅多にないことだ。


「18歳までユージン・ニコラエヴィチ・アルスキーを名乗っていた。父親は母親と結婚したが、他に女を作って離婚した。15歳で日本へ来て18歳まで京都で過ごした。あれだけ反対を押し切り駆け落ちしておきながら出戻りなど恥ずかしくて秦部家に戻れなかったのでね。母親はまさか日本に帰ることになるとは思っていなかったらしく、ロシアではずっとロシア語で会話していた。だから俺はロシア語しか話せずに日本語に一番苦労した。今の私の日本語はネイティブに近づけているかな?」

「とても流暢な日本語ですよ。日本生まれのハーフかクウォーターかと思いました。ユージン・ニコラエヴィチ・アルスキー……」


 聞いたことのない名前を噛み締めるように口にした有紗は、今の有稔の名前である秦部有稔とユージンを脳内で交互に繰り返していた。有紗はロシアで過ごしていた頃の有稔はどんなだったのか、どんな暮らしをしてどんな空気を吸ってどんなものを見ながら生きてきたのか知りたいという好奇心が湧いた。それに応えるように有稔は話を続けた。


「秦部家に入り、秦部の人間として活動するには日本国籍を取得し秦部有稔を名乗るしかなかったんだよ。秦部家の次期当主候補はあまりに無能な人間ばかりで、どこから嗅ぎ付けたのか秦部の人間が京都まで押しかけてきた。そして『不本意だが君の半分は秦部の人間だ。だから秦部の次期当主候補として秦部家に入ってもらう』と言われ今に至るわけだ。母親は大学への進学に秦部から援助する条件で金を積まれて私を……俺を秦部に売ったんだ」


 有稔は眉間にしわを寄せ少々声色が変わった。次期当主として再教育を受けるために金を積まれたことで母親は金に目が眩み……いや、どんな名目であっても金をちらつかせたら母親は目がくらんだろうと有稔は思う。そしてそんなもののために売られたことが悔しくてならない。


「……話してくれてありがとうございます。辛いことを思い出させてしまいました。ごめんなさい。でもいつかロシアへ行って有稔さんの生まれ育った土地へ行ってみたいです」


 そうだね、と有稔が有紗の頭を撫でれば嬉しそうに目を閉じ、身を任せる。

 だが、これが本当に愛する者同士ならば違和感はないのだが、この二人の場合は話が違う。有稔は好きな感情や愛する感情がなくても有紗と結婚できる人間なのだ。この頭を撫でる行為にだってどんな意味も含まれていない。有紗は悲しい気持ちになった。







「社長、一体どういうことですか! 驚きましたよ。私たちにすら何も言わないで結婚だなんて」


 有稔の直属の秘書、伊瀬紀嗣(いせかずし)は使い込まれた分厚い手帳を片手に神経質そうに中指でノンフレーム眼鏡のブリッジを押し上げながら少々声を荒げていた。それもそのはず、先日の社交パーティーで有稔が結婚したと現当主夫人、秦部聡子に豪語したからだ。それは会社で一番身近にいる伊瀬ですらまったく関知していないことだったので、週明けの月曜から会社は混乱していた。

 自分の娘と結婚をと虎視眈々と狙っていた重役、さらに有稔と関係を持ったことのある女性秘書、取引先の社長に令嬢と四方八方から日本最大のグループ会社の社長夫人の座を狙われていた有稔に誰ひとりとして見初められることなく、自分たちにはまったく関知しえない人物とあっさり結婚してしまったのだから半狂乱だ。今頃その相手は誰なのか、まるで犯人探しが如く彼らは目の色を変えていた。

 そして社のエントランス付近ではマスコミ各社のカメラマン、記者が警備員と揉めあっていた。もちろん有稔はその件に関しては一切口を割るつもりはなく、その風景に高みの見物をしていた。


「仕方あるまい、急に決まった結婚だったのでね。しかし大河原には話した。伊瀬、お前も奴らのように知りたいと思っているのか?」


 奴ら、とは15階最高経営責任者室から階下を見下ろせば視界に入るハイエナのようなマスコミ。有稔は眉間にシワを寄せた。

 大河原怜司(おおかわられいじ)とは今この場にはいないが、大学時代を共に過ごし、有稔がグループのトップに立つことが決まってから有稔自身が身辺を信頼できる人物で固めたいという意向の元、大河原は人事部から引き抜かれた。それは伊瀬も同じだ。多忙により自由に身動きできない有稔の代わりに、有紗との結婚の件に関して有紗の身辺調査や療養中の父親に結婚同意を取り付けたのも大河原だ。

 結婚の同意を取り付ける代わりに、完治するまでの高額な治療費と有紗の卒業までの学費を有稔個人の財産で全額負担する旨を書面にて約束した。


「社長がお話しにならないことは私どもにとって知る必要のないこと、そのように理解しております」


 今にも片膝をつき忠誠心を誓わんばっかりの態度と言葉は有稔を感心させた。

 フッと笑みを浮かべると伊瀬の方へ向き直る。


「伊瀬は忠義心が強い。お前には話してもいいと思っている」

「はい、何なりと」

「……相手は、高校生だ」


 は? という表情を伊瀬したが、有稔にとってはそれは想定の範囲内で特に気にすることではなかった。世間一般にはとても普通のことではないのだろう、正気の沙汰ではないということだ。


「それはまた……すっぱ抜かれでもすれば身を滅ぼすことにもなりかねません」


 やっと口を開いたかと思えばこれだ。これだから伊瀬は頭が硬いと有稔に言われる。


「身を滅ぼす……それもいいかもしれないな」

「社長! あなたがいなければ秦部グループは――」

「それは言わない約束だ。今日は11時から秦菱大附属高校へ視察の予定だろう? 車を回せ」


 有稔は厳しい表情と視線を伊瀬に向けた。

有稔の過去が少し明かされました。お互いのメリットのために結婚したので当然愛情なんてものはありませんし何も期待してはいけないのですが……でもなぜか有紗は悲しい気持ちになったんですね。この気持はなんなのでしょうか。ここまでお読み下さりありがとうございます。次回もお楽しみいただけたら幸いです。

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