4th 高校生の幼妻
秦部有稔はかすかに口角を上げ、口を開く。有紗はその間有稔を凝視していた。
「君は今日から私の妻だ。君に拒否権はない」
「妻って、冗談――」
「冗談を言うと思うか。時間の無駄だ」
有稔はそう吐き捨てた。
有紗はわが耳を疑った。これは空耳ではないのかと、そして同時にこれが有稔の言うところの『利害が一致する計画』なのだと即座に理解した。しかし有紗にはこれに同意したからと言って特段の利益を得るわけでもなければ害を被るわけでもない。
有稔は眼鏡のブリッジを中指で押し上げ、話し始めたのは至って真面目な話だが、有紗にはそれが冗談にしか聞こえないのだ。それほど現実とはかけ離れており、実感などわいてくるはずもない。
「あの……利害が一致するとおっしゃいましたね。私には特に利害とかそいういうのはないと思うんですよね。だから正直あなたの妻になったからといってメリットがあるわけではないと思います」
「メリットはあるじゃないか。住むところに困らない上、君の姉君を見返せる。過去にどんなことがあったのか知らないが姉君は十分酷いことを君にしたと思うぞ」
「お姉様を見返せる……?」
有紗はたしかに姉、真季からぞんざいな扱いを受けてきた。しかしそれは有紗の母親の貞操観念が低いのが原因ですべては狂ってしまったのだ。だから有紗は真季に対してはじっと耐えるのは当然のことだと思っていた。しかし有稔が言った『見返せる』という言葉に少しくらい困らせても大丈夫だろうと魔が差したのだ。
有稔は眉間にしわを寄せ、有紗の出方をうかがっていた。
「見返すことは十分可能だ。だが条件があると言った。あくまで偽装結婚なのだから、客観的な夫婦の体裁が調っていればいいがすぐに見抜く人間もいることだろう。したがってしっかりと妻を演じること。グループ内でパーティーがあったら妻は病弱で出席できないということにしておこう。まあ出たいというなら好きにするといい。分かるな?」
有稔は有紗のあごを掴み自分の方へぐっと近づける。有紗はいきなりのことでびっくりしてバランスを崩し、有稔の座るソファに片膝をついた。
「偽装結婚……?」
有紗はそのよくない響きに犯罪に加担しているのではないかと、背中に汗が伝っていくのがリアルに感じられた。有稔の指は有紗の背中をツーッと伝い下りる、その仕草に身震いするほどゾクッとした。
「なかなか好条件だと思うが。それと一応妻として拘束してしまうのだから月10万支給しよう。好きに使うといい。君がこの条件を断ることもできるが、そのときは君と姉君の将来はないものと思え、返事は」
「あ……」
初めから条件などあってないようなものだったのだ。真季の名前を出されたらさすがの有紗も断ることなどできない。したがって二つ返事で偽装結婚に応じるほかないのだ。家の中で夫婦を演じなくてもいいことは不幸中の幸いかもしれない。外ではしっかりと夫婦を演じ有稔を支える妻に成り切らなければならない。だが、そこには決して愛などというものは存在しない。これは一種のビジネスなのだ。
「君は今いくつだ」
「……15。明日16歳になります」
「では明日、婚姻届を出す。分かったらもう寝ろ。お子様はもう寝る時間だ」
「……はい」
有稔に振り回されっぱなしの有紗は疲れ果て、一応夫婦なのだから一緒のベッドに寝るべきだと言われおとなしくそれに従う。この広いベッドは有紗には辛すぎた。これが夢ならどれほど嬉しいだろうとそう思いながら目を閉じた。
一方、有稔は有紗に言ってしまったことが果たして正しいことだったのか、たしかに迷いもあったが今は既成事実を作っておかなければいけないとその迷いを払拭する。眼鏡を外すとシャワーを浴び、ミネラルウォーターを勢いに任せて一本飲み終えると有紗の寝ている寝室へ入って行った。そこはすでにいつものように真っ暗な空間となっていた。しかしいつもと違うのは自分以外の人間の息遣いを感じること。ダブルベッドに腰掛けると有紗の頭を撫で自分と同じ香りのする少し長めの髪にキスを落とし一言呟く。
「君を巻き込んでしまって申し訳ない」
有紗が目を覚ますと有稔は隣で、しかも有紗の腰に手を回し寝ていた。それに気づき手を引っぺがすと慌ててベッドから滑り下りた。そして今日が休日であることに感謝した。頭を冷やすにはちょうどいい。
「やだ! なにしてるんですか!」
大声でそう言っても一向に起きる気配のない有稔。そう、有稔の寝起きはとても悪い。多少の大声では全く動じないのだ。そして目を覚ましたかと思えば毒づく。
「やかましい……」
「ちょっ、昨日とは口調が……」
秦部有稔は高校卒業までの数年間を関西で過ごした。
しかし次期当主候補としての白羽の矢が立ってからはグループの拠点がある関東の大学に進学することになった。そこで標準語をみっちりと教育された。だから普段の生活では関西弁など出るはずもない、むしろ初めから標準語を話す人間のように何の違和感もなく話してみせる。要は完璧主義所以なのだ。にもかかわらず今日はなぜか少ししか過ごさなかった関西の言葉がでてしまった。
有稔はいきなりむくっとベッドから起き上がりベッドサイドに立っている有紗に見向きもしないで寝室を出、リビングへ行ってしまった。目覚めはすこぶる悪いようだ。
「あ、ちょっと!」
「なんだ、上杉君。あ、今日から秦部有紗くんだったね」
その一言で現実味を帯びてくる偽装結婚。
「実は今日、社のパーティーがある。もちろん君は参加しなくていい、今は結婚しているという事実が重要なんでね」
「パーティー? 『妻』として何かできることはありませんか?」
有紗には聞きなれない単語に少々顔をしかめた。これまでは住む世界が違ってきたので聞きなれない単語が多すぎる。
そう、こうなればもう『妻』になりきってしまえばいいのだ。これを演じ切れたら有紗は主演女優賞受賞も確実だろう。
「うちにいて待ってくれていたらそれでいい、分かったね有紗」
有紗と低いバリトンの心地よい声で言われ思わず目を見開く。『君』としか言わない有稔が有紗と言ったことが新鮮だった。
「わかりました。待っています」
「いい子だ」
その夜、有稔は秦部グループ100パーセント資本の完全子会社が経営する『Hatabe green hotel』に来ていた。もちろんパーティーへの参加のため、しかしそれは建前で実際は有稔の婚約者をお披露目する機会でもあった。そこにはマスコミも呼び、大々的に催す予定だという。
「あなたが本邸に近寄らないから婚約者の神戸純玲さんと心配していましたのよ、有稔さん」
そう言うのは有稔の祖母であり現当主の妻でもある秦部聡子、齢75。その隣に控えめに立っているのが今回有稔の婚約者として披露目される神戸純玲23歳。神戸純玲は聡子の妹の孫娘だ。この婚約にあたり、聡子が以前から有稔の許嫁に純玲を推してきたのだ。その執念や半端ない。それは一族以外の血を入れないため、そして一族の強化を図るため。いわゆる政略結婚というやつだ。
「初めてお会いしますね、神戸純玲です。よろしくお願いします、有稔さん」
純玲はお辞儀をし有稔にニコッと笑顔を向ける。今日の純玲は淡いピンク色のパーティードレスを着ている。しかしそれは彼女を引き立てるということはなくむしろ反比例してまるで取って付けたような違和感があった。はっきり言ってしまえば無理やり清楚を装っているような違和感である。
「おばあ様……お久しぶりです。このお嬢さんとの婚約だなんて初めて聞きましたよ」
もう婚姻届を役所に提出し、正式に『結婚』した有稔には今更婚約など物理的に不可能だ。有稔はこうなる前に先手を打ったのだ。今回の有紗との結婚にはそんな思惑もあった。
「有稔さん、あなたが本邸に近寄らないからでしょう? 私は以前からそう申してきましたよ。純玲さん以外、よその血を入れ一族の血を汚すような下衆な真似はしないでくださいね。ただでさえあなたはよその人間なんですから」
「おばあ様、それは言わない約束ですわよ」
「あら、ごめんなさいね」
聡子と純玲はお互いの顔を見合わせるとクスクスと笑い始めたのだ。これが余計に有稔の癪に障る。
「ああ、そうでしたか。大変失礼。婚約など好きになさればいい。ただ、今の私には物理的に婚約や結婚など不可能ということだけお伝えしておきますよ」
今の秦部グループにはあまりに無能な次期当主候補しかおらず、統率力を持っている有稔がグループの長を辞めるとなればグループは一気に崩壊してしまうくらい脆弱だ。だから聡子は強硬手段に出られないからこうしてチクチク小言を言うことしかできないのだ。
「どういう意味です?」
聡子の顔色が一気に変わり、怒りを含んだものになる。同じく純玲も聡子の腕に手を回し様子を窺っているようだ。有稔は今こそ攻める場面であると感じたのか口角を上げ笑みを含んだ顔を二人に向ける。
「そのままの意味ですよ。もう妻のポジションには先客がいるのですよ」
有稔と聡子、そして純玲のただならぬ雰囲気を察したのか、場の空気は一気に静まり返り、マスコミは彼らにカメラを向けストロボを焚きシャッターボタンを連打する。
「どういうことなのか説明なさい!」
「結婚したということですよ。なんでも彼女は体が弱いので今日この場には連れてきませんでしたが」
「まあ! 私の許しもなしに勝手な真似を! 親も親なら子も子ですか! 聞いて呆れます!」
「私もいい大人ですから自分の今後についていちいちおばあ様の許可は必要ではないと思うのですがね。違いますか?」
有稔は鼻で笑ってやった。
「おばあ様……」
「安心なさい、純玲さん。まだ勝機はあります」
聡子と聡子にすがる純玲は有稔にとって今はとても滑稽に映る。
━━いつまで子供だと思っているんだ。操り人形にでもしたかったのがあてが外れたな。
笑いが込み上げ、今にも大声をあげて笑いたいのを必死に堪える有稔であった。
なんだか現当主夫人とバトッてしまいそうな雰囲気です。ようやく婚約者の純玲嬢登場です。夫人は有稔のことをよく思っていない様子ですね。しかしこんな態度を取る夫人にも思うところがあるわけで……。




