16th 早く大人になりたい
「え……どうして」
その日、有紗の右手にはしっかりと紙が握られていた。有紗は呆然とし、しばらく客人の去ったあとのドアを焦点の合わない目で見つめていた。
有紗はよろよろとかろうじて歩を進め、肌寒いバルコニーへと出ていった。
客人は有紗の顔を見るなり下等生物を見るがごとく眉間にしわを寄せ見下すと紙を差し出したのだ。その紙がどういう意味を持つものかいくら有紗でも分かる。
『あなた自身、子供ができない体であることをご存知? 有稔さんがお気の毒。本当は有稔さんだって離縁したいと思ってらっしゃると思いますよ。あなたをそばに置いておくメリットなんてないに等しいのではございません?』
有紗はこのとき初めて自分が子供のできない体であることを知った。心当たりはあの有稔のバースデーパーティーの一件以外にはありえない。あのとき不注意で階段から転落したばかりに有稔の人生を狂わせてしまった。有稔は有紗に対して子供はいらないと言わせたが、今になって少し考えれば次期当主になるために盤石な基礎として子供は大事な切り札であることは誰にでも分かること。
途端に有紗は震え始め、一人では立っていられなくなって壁に体を預けた。
『ふふ。分かっていただけたらそれでいいんです。仮にも有稔さんの妻であるあなたを手荒には扱いたくはないですから――』
有稔が帰ってきたときにはやはり23時を回っていた。
「有紗、いないのか?」
リビングの明かりは点いておらず真っ暗だったが、代わりに月明かりが差し込み青白く照らされていた。有稔はリビングに明かりを点すと有紗はおらず、代わりにバルコニーのスライドドアが開いており夜風がカーテンを揺らしていた。
有稔はバルコニーへ出てみると隅で膝を抱え顔を埋めている有紗に気付いた。
よく見ると肩を震わせている。おそらく泣いているのだろう。有稔は有紗のそばに寄り何と言葉をかけていいのか躊躇いながらも声をかけた。
「……有紗。大和に体を冷やすなと言われただろ」
やっと出た言葉がそれである。どれほど不器用なのかと自分で笑ってしまいそうになる。そう言うと、着ていたジャケットを脱いで有紗の肩にかけた。
「何を泣いているんだ」
有紗がどうして泣いているのか分からない有稔は有紗に対してどう接すればいいのか分からず戸惑った。
「……有稔さんはどうして私と結婚したんですか」
有紗の目は真剣だった。
「なにを今更言っているんだ」
「どうして……どうして言ってくれなかったんですか。私に子供ができないこと。私だけ知らなかったなんて」
有紗は泣きながら有稔に訴えた。一時でも有稔との幸せな家庭を想像した自分が馬鹿だった。有稔がつくったお弁当で菜月に羨ましがられて浮かれた自分が馬鹿だった。
未成年の有紗が有稔にできることはたとえ想い合っていない夫婦であっても有稔の子を身ごもり産むことくらいだ。それができないとなれば有稔のそばにいる意味などない。それにやっと気付くのに長い時間がかかった。
「有紗、そのことは誰に聞いたんだ」
まさか自分で大和に詰め寄り問いただしたなどということはあるまい。有稔は愚問であると頭を振った。いつか有紗に話さないといけない時が来ると前々から覚悟はしていたが、今まさにそのときが来たと覚悟を決める有稔は有紗の手を引いてリビングのソファに座らせた。
「今から話すことはとても大事なことだ」
有稔は涙をためた有紗の目尻を指で拭うと話し始めた。
「まず有紗の体のことだが、主治医の大和は決して子供が望めないとは断言していない。君はまだ16だ。回復次第ではということだ。そして有紗が今持っている紙のこと。少なくとも君を追い出したいほどに疎ましく思っていないので安心しろ。本当に君のことを疎ましく思っているならば例の香水の件で荷物もろとも君を追い出している。分かったらそんなものは捨ててしまえ」
有稔は紙もとい離婚届を破って握り潰すとゴミ箱に捨て有紗の方に向き直った。
「さあ言いたいことはそれだけか」
有紗は少しコクンと頷くと、有稔は口元にフッと一瞬笑みを浮かべ有紗を抱き寄せた。
「まだ不満そうだな。これ以上どうしてほしいのか言ってみろ」
「私と有稔さんは仮にも夫婦であって……その……だから……」
途端に顔を真赤にして俯く有紗は顔を見られないように有稔の胸に顔を押し付けワイシャツをギュッと握った。
そんな様子は有稔の加虐心をくすぐった。
「そんなに恥ずかしいことなのか」
有紗は気付く。有稔は自分をからかって遊んでいると。
「か、からかわないで」
そんな有紗を無視して有稔は有紗のあごに指を添えて目線を同じ高さにする。
「可愛いな、君は」
有稔の声が優しくなったかと思うと、端正な顔が近づき次の瞬間有紗の唇に何かが触れた。
「んっ……」
それがキスだと分かるまでしばらくの時間を要した。このような体験は初めての有紗にとってどうすればいいのか分からずしばらく硬直していた。触れるだけのキスがようやく離れると有稔が一言。
「お子様の君にはここまでだ」
有紗は何度も自分の唇を指で触った。まだ有稔の唇の感触が残っている。そんな余韻に浸っていたが、お子様と言われたことは気に食わない。
「私、お子様じゃない。結婚したら大人と同じ扱いだもの。だから子供じゃないです」
「有紗がそう思っていても、私にしてみれば12も年下の君は十分子供だ」
有稔は有紗の知らない12年分たくさんの人生経験をしている。酸いも甘いも噛み分ける大人だ。その点で子供と言われても仕方がない。子供である自分にはここまでということは大人であればもっと先があるということか。そしてその先を有稔は間違いなく知っており経験している。自分だけ知らないのは不公平だと思った有紗は唇を噛みしめた。
「……悔しい」
「だったら早く大人になることだ。さあ、いい子はもう寝る時間だ」
時計を見るとちょうど夜中の12時を指していた。有稔は有紗のひざの裏に腕を入れて抱きあげた。有紗はそのことに驚きおとなしくはしていられず暴れた。
「や、やだ、下ろしてください!」
「少しはおとなしくしないか。お子様はこうされていればいいんだ」
「またお子様って言った」
「では若奥様か?」
「……もう知らない」
有紗は若奥様と言われ悪い気はしなかった。一人で寝るからいいと言ったにもかかわらず、有稔に寝かしつけられながら思い出す。今までは一人で眠っていた日々を思い出すと涙が溢れ出しそうになる。有稔に悟られないように必死にこらえた。半年以上の離婚寸前の家庭内別居に近い生活は有紗には大層堪えた。だが、今は有稔が隣にいる。それだけで安心できる。
有紗が寝たのを確認すると有稔はネクタイを緩めながらほのかに明るいリビングへ移動した。そして携帯電話を開くと数少ない味方である大和からの留守電を再生した。
「はは、やはりそういうことだったのか」
有稔は夜中にもかかわらず大和にリダイヤルした。
「大和か。私だ」
『こんな時間にどうしたの、社長さん』
大和はアルコールが入っているのかやけにハイテンションになっている。社長さんと言われることは本来好きではない有稔は眉間にしわを寄せたが、アルコールの入っている大和に言っても仕方ないと思い黙っておくことにした。
「今、留守電聞いた」
『それなら話が早いね。これからどうするの』
「仮にも母親だった上杉恵利子に名誉毀損で訴え慰謝料の請求をするか……そんなことをしてもきっと有紗は喜ばない、むしろ悲しむだろうことは目に見える。次はないと釘を刺し、今回は有紗に免じて不問に付してやる。それよりも重大な問題がまだあるからな。そればかりに時間を取られるわけにいかない」
『分かったよ。その看護師の件は院長からの処分ということで厳正に処分しておくから、そっちはそっちで頑張れよ。医者がいい加減なことは言うことはご法度だけど、有紗さんの体の件はきっと大丈夫だ』
それは有稔が次期当主として盤石な基礎を築けるということだった。
有稔が本邸を訪れ現当主良蔵の顔を見たのを最後に、彼は以前より患っていた病が悪化し床に臥せっていた。主治医によると余命幾ばくもないということだった。秦部一族は早く次期当主を決めるべく眞一を担ぎ上げる者、達哉を担ぎ上げる者は奔走していた。一方で有稔を担ぎ上げる者はほとんどいなかった。この両者の違いはただひとつ。一族の認めた人間の血を引いているかどうかこの一点のみである。有稔が今までグループのために身を粉にして力を尽くしてきたことは加味されず評価に値しないということ。この重要な一点を守れなかった有稔の母親は良蔵、聡子の逆鱗に触れたために実質絶縁状態となった。絶縁状態となったにもかかわらず、有稔が呼び戻された理由は――。
今の有稔には当主になるための野心などないにも等しかった。そんな有稔はある覚悟を持って“最後の仕事”に取り掛かろうとしていた。
しばらくぶりの更新です。15話以降なかなか創作意欲がわかなくて少し離れていました。
今回16話にて有紗と有稔キッスしちゃいました(*ノノ)
なんだかお子様のためのキスのイメージで初々しい感じを出したつもりなのですが……。
初々しい感じ出ていましたでしょうか。有稔自身は初々しい感じ出てなくていいんです笑 有紗より人生経験豊富ですからそのような経験も当然あると思いますので。
次回もお楽しみいただけたら幸いです。




