15th 芽生え始めた気持ち
有稔と大和が情報漏洩の主犯を突き止めてからしばらく経ったころ、ようやく有紗が退院となった。ちょうど後期授業の開始に間に合った形となりこの日から高校に通い始めた。
しかしすべてがうまく解決したわけではなく、有稔との壁は残ったままだった。
有紗はいつもと同じように襟部分が濃緑で白地の夏服セーラーに濃緑チェック柄のプリーツスカート――いまどきの膝上ではなく、進学校らしく真面目に着るという感じだ。髪はいつもは引っ詰めるのだが、この日は気分を新たにするつもりでハーフアップだった。
「上杉さん!」
校門に差し掛かったところで声を掛けてきたのは以前一緒に下校した上原知明。
「あ、上原くん。おはよう」
息を切らせながら有紗の元まで来るとニカッと笑ってみせた。
「おはよう。あれ、髪型変わった?」
上原知明はこの夏期休暇で海にでも行ったのだろうか、ほどよく日に焼けた肌になっていた。
「たまにはいいかなと思って」
「それのほうが似合ってるよ」
有紗の顔には思わず赤みが差した。上原知明にそのようなことを言われるとは思っていなかったから。有紗は話題を逸らすべく必死に話題を探していた。
「この夏休みは海に行ったの? 日に焼けてるから」
「そうだよ。毎年夏休みの間は海外に滞在してサーフィンするんだ。あ、でも俺の一番はバスケだからね」
「毎年海外に?」
有紗が話に食いついたことが嬉しかったのか知明は話に熱が入る。
「毎年親父が商談で行くから一緒に行ってる。いずれ親父の後を継げなんて言われてるけど今はそんなつもりなくて」
有紗と知明は下足場で上履きに履きかえて三階の教室へ向かった。その間も話は尽きることはなく教室に着いてからも始業のチャイムが鳴るまで続いた。
ここ秦菱大学という場所には企業の社長や重役、資産家、はたまた政治家という高所得者層の令嬢や令息が通っているという、いわゆるセレブ大学である。その流れをくんだ附属高校ももちろんセレブ高校と呼ばれている。
有紗がこのセレブ高校に入れたのは父上杉豪の妻恵利子の家柄によるところが大きい。恵利子はまがりなりにも上杉家の末端構成員である有紗を『上杉家宗家』にものを言わせごり押し同然で秦菱大学附属高校に有紗を入学させた。入学に至るまでの経緯はそうであると一片の疑いもなく有紗は信じていた。
一方、春川菜月の場合は一般庶民であるが、彼女自身が非常に優秀であったために成績優秀による入学。特待生であり授業料免除、さらに定期試験で首席を維持することによる奨励金給付という待遇であることに文句は言えまい。この件に関して菜月は鼻にかけることもなく非常に謙虚であった。
「有紗、ご飯食べよ!」
昼休みになると有紗と菜月はいつも広大な中庭の時計をモチーフに花で彩られたそばのベンチで弁当を食べる。
「うん。いつものとこ行こう」
有紗は入院中に菜月が見舞いに訪れたことによって有紗が結婚したことや、その相手がこの秦菱大学の理事であり、秦部グループの最高経営責任者である秦部有稔であることを知られてしまったことについてどう思っているのか、平常を装っているが不安でたまらなかった。
「菜月……あの、ね」
「なに? どうしたの? そんな難しい顔してさ」
有紗は箸を止め、話しておくべきだと口を開いた。
「うん……」
「有紗、結婚おめでとう。おめでたいことなんだからもっと笑ってよ。本人である有紗がそんなんじゃだめだよ」
菜月は有紗にそう言うと、ニカッと笑った。有紗が真剣に言おうとしたことを先に言われてしまい拍子抜けしてしまった有紗はしばし固まった。
「これいただき!」
菜月は箸が止まったままの有紗の弁当に入っている卵焼きをぱくっと頬張った。
「あ、あ。それ有稔さんがせっかく」
まだ全快でない有紗のためにしばらくは有稔が多忙の合間をぬって弁当作りをはじめ家事をしていることを、この一言により暴露したようなものだ。
有紗は言ってしまったと思ったのか、思わず手で口を塞いだ。
病院で初めて見た生活感のない家事などまるで知らないような印象を持った有稔が――しかも大企業のトップである――が家庭では妻の弁当作りをすると知ってか、菜月は思わず声を殺し肩を震わせながら笑った。菜月にしてみれば非常に興味深い二人であるらしい。
「旦那さんの愛情たーっぷりの卵焼き食べちゃった!」
舌を出して笑う菜月につられて有紗も思わず笑ってしまうのだ。
「もう! 菜月今笑ったでしょ。何かおかしなこと言った?」
「なんでもないよ。有紗はそうやって笑ってないとだめだよ。有紗?」
「うん?」
「ううん。やっぱり何でもない。もうお昼休み終わりだよ、そろそろ教室戻ろう」
有紗と菜月がベンチから去ったあとにはこのやりとりを聞いていた人物が一人。昨日帰国したばかりのその人物は芝生の敷き詰めてある小高くなった部分で昼寝をしていた。
「ふーん結婚ねぇ……興味深い」
『きっと彼は有紗のことを一途に想っているよ』
この言葉を菜月は言いかけて胸にしまうことを選んだ。いずれ有紗はそのことに気付くだろうという期待を込めて。
「上杉さん一緒に帰ろう」
「上原くん。いいよ」
菜月は都合が悪いというので先に帰ってしまったところだったので今日は一人で帰ろうと思っていたところへのお誘いだ。
タイミングのよさに有紗は嬉しくなった。
「これから時間ある? ちょっと寄りたい所があるんだ」
今日の知明は前回の反省を踏まえ、車道側を歩いている。知明は有紗の反応をうかがっていた。
「どこ行きたいの?」
「部活で使ってる靴が破れちゃって。一緒に色を選んでほしいんだ」
「靴って大事なものでしょ? たとえ色であってもわたしが選んでいいの?」
たとえ色とはいえ、そんな大事なものを有紗の意見を取り入れるとは。有紗は恐縮してしまった。
「かまわないよ。俺、色のセンス悪いから選んでほしい」
そこまで言われては頼みを無下にすることも出来まい。
「上原くんに似合う色選ぶね」
有紗は恐縮してしまったままだったが頷いた。
「ありがとう」
有紗が知明と別れて帰宅したのは18時を回っていたが、いつも通り有稔はまだ帰宅していない。帰ってきても22時や23時などざらだ。いつもどうしてそんなに遅いのか疑問に思うこともあったが、それは会社の長である限り仕方のないことなのだと言い聞かせた。そのような立場である有稔に対し、帰りが遅いなどと責めたりしてはいけないのだ。
有紗はリビングのソファに身を預け色々なことを考えていた。結婚してしばらく経つが有稔は手を出してこない。菜月にさりげなくそれを匂わせ尋ねたが、菜月は大層驚いていた。寝食を共にしているのにそれはどうなのと菜月は心配した。普通は夫婦二人でいれば夫婦の営みなど普通のことらしい。有紗と有稔にとってはまったく普通のことではないが。むしろ異常とも言える。
営みと言っても有紗にはいまいちピンと来なかった。聞きかじりの知識程度で何をどうするのか具体的なことを分かっておらずぼんやりとしか理解していなかった。
偽装結婚であることは有紗も十分承知している。偽装結婚の発端は有紗が路頭に迷おうとしていたところへ有稔が取引同然に結婚話を持ち掛けてきたのであるが、本当にそれだけの理由で結婚したのか、有稔が何を考えているのか有紗には分からないことが多かった。
有稔は本当に有紗に興味がないのか、どこかで誰かに会っているのか……。真相は有紗には分からないが、他の女性――特に有稔の婚約者だと言われた神戸純玲――と会ったり過ごしたりしているかもしれない。その考えに至った有紗は『有稔の婚約者披露パーティー』で顔を合わせた高飛車な純玲の顔を思い出して悲しくなったし有稔を取られたくないと思ったのだ。有稔を取られたくないと思ったのは高校への電撃訪問以来これで二度目。自然と涙が込み上げる。
「なんで涙が出るのよ……」
この感情をなんと呼ぶのか有紗には分からなかったが、仮に分かったとしても認めたくない感情であった。
有紗の中に芽生え始めた気持ちとはなんなのか。色恋沙汰には疎い有紗なので遠回りです。




