11th 奥様と婚約者
有稔と有紗が結婚して数ヶ月経った7月のこと、それは起きた。
その日、有稔は28歳の誕生日を迎えた。相変わらず世間一般には『パートナー』に関しては公表されておらず、一切がベールに包まれたままだった。唯一、純玲にだけは知られてしまったが。
現当主や聡子が、有稔の誕生日にあわせて『Hatabe green hotel』で誕生パーティーを主催すると6月のうちに有稔に知らせており、その日が近づくにつれ有稔だけでなく、なぜか有紗も憂鬱になっていった。
『7月のその日は有稔さんの28回目の誕生日でしょう? それに“奥様”にもお会いしたいわ』
『妻は体が弱いのですよ、ですからあまり連れ回したくないんです』
『まあまあそう言わず、秦部家で将来を有望視されているのは眞一さんと達哉さん、そして有稔さんだけなんですから、ね。分かってちょうだい』
聡子がそのようなこと言うときは大体下心があるときだ。それは有稔が虐げられながら本邸に住んでいるときに学んだことで、したがって今回も例によって下心があって、誕生パーティーを開くというのはただの口実にすぎないのだ。これまで一度たりとて有稔のために誕生パーティーを始め、何かしたことのない聡子なのに今回に限っては――下心が読めてしまうというものだ。
有稔は呆れたように深く息を吐くと、落ち着いたら一度帰りますよ、とだけ言って電話を切った。
電話の間、有紗は心配そうに有稔のそばを離れようとしなかった。帰社したときのままのワイシャツの裾をずっと握っていた。
「どうしてパーティーを渋るんですか? それくらい私にもできます!」
「仮にも世間には公表していない妻の存在だ、だからむやみに連れ回したくないし、君を祖母に会わせるようなことはしたくない」
「大丈夫です。うまくやってみせます、だから……行かないなんて言わないで。そのための結婚だったはずです」
有紗は有紗でそういうときが来れば最高の妻を演じてみせる自信はあると自負していた。そして有稔が生まれた日なのだからたとえホスト側に下心があったとしても行くべきだと思っていた。有紗にしてみれば姉の真季に虐げられて日々を過ごして来た、そのことを思えば誰かに誕生日を祝ってもらえるということは喜ぶべきなのだと考えていた。
有紗のそのやる気がみなぎった表情を見て困ったように有稔は肩をすくめた。
「分かった。その代わり一瞬たりともそばを離れるな、分かるな?」
「はい、ちゃんとそばに控えています」
「今日はよく来てくれましたね、楽しみに待っていたんですよ」
聡子は相変わらず作り物の笑顔を貼り付けて有稔を『Hatabe green hotel』に迎え入れた。その隣には高校生だとばれないようにメイクでしっかり大人っぽく顔を作り込み、胸元でリボンの切り替えがついているピンク色でサテン生地のAラインドレス、さらに同色の腕までのグローブと結い上げた髪に髪飾り、それらを身につけ有稔の隣に控えていた有紗。
太めハイヒールのパンプスという、いつもとは違い履き慣れないせいでバランスをとるのに苦心していた。ドレスを始め、一式は有稔が見立てた。
一方有稔は、タキシードに蝶ネクタイという装い。髪はしっかりワックスで固められていた。有稔のいつもとは違う装いに有紗は目のやり場に困っていた。
有稔の祖母である聡子を初めて目にした有紗はグッと手を握りしめた。緊張して誰の目に見ても本当の夫婦を演じていられるか不安になった。有稔に有紗の緊張が伝わったのか、袖口を掴んでいた有紗の手を掴み自然に見えるように腕を組ませた。
「こうしていろ、変に緊張するな」
「……」
今日の主役である有稔が登場したことで周りは一気に有稔に視線を向けた。この誕生パーティーは立食パーティーであるが、それは有稔が聡子に出席する代わりに立食するよう条件を出したのだ。立食パーティーのような少しくだけたパーティーの方が有紗が緊張することもなく、いつも通り振る舞えるのではないかと考えてのことだった。そちろん聡子側は有稔に出席してもらわねば、と意気込んでいたためその条件を難なく呑んだのだ。
秦部家一族だけでなく、秦部グループが日本最大の財閥系企業であるため、一部経済界からの参加者や同業者の参加者の視線が一気に注がれた有稔はいつも通りクールを装っていたが、有紗はそれでも有稔の後ろに隠れるように腕を組みながら一歩後ずさった。
「有稔、よく来てくれた。今日はお前が主役なんだ、緊張することはない」
秦部家現当主で有稔の祖父である秦部良蔵、齢80はまるで有紗が存在しないものとして振る舞い、有稔だけを連れて会場前方へ行ってしまった。その場に取り残された有紗は有稔が言った『そばを離れるな』という言葉を脳内で繰り返していた。そんなに簡単に約束が破られるとは思っていなかった有紗は立ち尽くしていた。その腕には先ほどまで有稔と腕を組んでいた感触が残っている。有稔が遠ざかっていく姿を目で追うことしかできなかった。
「本日はお集まりいただきありがとうございます。早速ではありますが秦部グループ最高経営責任者である我が孫、秦部有稔の婚約者を紹介します」
有稔がいつか結婚できないことを暗に伝えていたにもかかわらず、前回のパーティーと同じく、今回は有紗がいる目の前で婚約者を紹介しようというのだ。有紗は怒りや悲しみで気持ちの整理が出来なかった。
『やっぱり仮面夫婦なんだ。結婚も嘘で、いつかは捨てられるんだ』
目の前で繰り広げられる婚約者紹介の一部始終を横目で見ながら、有紗は会場の一番隅に移動し、ほぼ壁と一体になっていた。
たとえそれが偽りの結婚でも有稔に興味を持ち始めていたところで、もっと知りたいという思いが芽生え始めていた有紗にとって見事に打ち砕かれたのだ。だったら初めから有紗の存在を公表して欲しかったし、隠さなければならないような存在ならば有紗がいてもいなくても同じじゃないのかと有稔への疑念を抱き始めていた。
「婚約者は旧神戸財閥の総帥の孫娘、神戸純玲さんで――」
喧騒からそっと抜け出した有紗は化粧室へ行って顔を洗いたかった。そして現実逃避したかった。さっきまでの喧騒は嘘のように廊下は静寂を保っている。
化粧室へ行く途中で何度か躓いては転びそうになった。すべては有稔が見立てたこの履き慣れないパンプスのせいだ。
「……?」
「………よ」
化粧室の入口付近でタキシードを着た背の高い男と、同じく背が高く赤いタイトなパーティードレスを身に纏い赤いルージュが人目を引く女は互いに腰に腕を回し逢瀬の最中だった。
有紗は思わず階段近くの柱の陰に隠れた。隠れた理由は特になかったが見てはいけないという心理が働いたからだ。
「あいつもバカよね、同伴で来たの見た? 当主とおばあ様は端から『付録』は眼中になかったみたいだけど。アハハ」
「もちろん、しっかり見たよ。あれじゃ当主になれないだろう。いや違ったな、CEOになれても最初から当主になれないか、あいつは」
秦部のすべてを掌握できない雇われ社長状態だ、と男女はケラケラ笑いながら、話の内容を察するに誰かのことを言っているようだった。
『当主……? もしかしたら――』
味方ばかりでなく敵も必ず存在することをこのとき初めて知り悲しくなった有紗は小さいバッグをギュッと握った。
その後、会話が途切れると何度もチュッチュとキスする音が静かな廊下に響いた。キスすら知らない有紗には衝撃だった。キスを目の当たりにするといかに自分が愛されていないかを突き付けられた。やはり偽装結婚と仮面夫婦はそれ以下はあっても以上にはなりえないのだ。
「あら? あなたが有紗さん?」
会話に聞き耳を立てることに気を取られ、いきなり名前を呼ばれてびっくりした有紗はその場に固まってしまった。そこに『有稔の婚約者』が至近距離に迫って来た。『婚約者』の隣に有稔はいない。彼はまだ喧騒の中で誕生日を祝ってもらっているのだろう。
「なんのつもりで有稔さんとご一緒になられたのか存じ上げませんが、有稔さんもお人が悪いです」
「あ、あの……あなたは」
「申し遅れました、私有稔さんの許婚の神戸純玲と申します」
『ああ、そういうことだったのか。毎日帰りが遅いと思っていたら――』
有紗は最高の妻を演じるために自分に言い聞かせた。婚約者より妻の方が立場は上なのだと。
「秦部有稔の妻、有紗です。どうぞよろしくお願いしますね」
丁寧にペコッと頭を下げた有紗を見て、純玲は怒り心頭だった。純玲に盾突くことは神戸家や秦部家を敵に回すことだと教えられてきた純玲は、そこに胡座をかき、人を思うがままに動かしてきたのだ。それが自分の思うように物事を運べないとなると途端に当たり散らす。
「あら、そう。あなた一回りも年上の有稔さんを手に入れるのに何をなさったのかしら。ああ、今時のあなたくらいの年代の人間は貞操観念が欠落しているのでしたね、なんて身持ちの悪い。本当に“体の弱い”奥様ですこと」
純玲は有紗に見下すような視線を向けると、値踏みするように上から下までじろじろと見た。有紗は当然居心地が悪い。蛇に睨まれた蛙状態だ。
「私と有稔さんはそんな――」
「言い訳はよろしくってよ」
後ずさる有紗に等間隔で距離を詰める純玲。純玲は有紗にはもう後ずさるスペースが残されていないことに気付いていた。それを分かった上で純玲は口角を上げ笑みを浮かべて最後の一歩を踏み出した。
純玲嬢と有紗の最悪な出会いですねこれは。そして純玲嬢怖いです。もう悪女ですね。だけど作者としてはそんな彼女が好きです。
純玲としては今まで自分が婚約者で許嫁だと言われて準備なりお稽古なりすべては秦部、神戸両家、また有稔のためにしてきたことをすべて有紗に持って行かれたことが相当悔しいわけです。
そんな純玲嬢がこれからどうなっていくのか、そんなところも見届けていただけたらと思います。




