10th キスに託した独占欲
「有稔さん……」
有紗はリビング・ダイニングを見回し小声で名前を呼んだが有稔の姿を見ることができなかった、代わりにガラステーブルにはお菓子の入った紙袋が置いてあった。誰かがこの部屋を訪れたということだろう。もしくは有稔本人がお菓子を作ったか――その考えは即刻除外した。
その空間を出ると二人の寝室と決めたリビング・ダイニングを出てまっすぐ突き当たった約10帖の部屋へと向かった。ドアを開けるとそこにも有稔はいなかった。ついに有稔自身が有紗の元から離れていってしまったのだと一抹の不安がよぎる。姉の真季に突然突き放されたように、有稔にも突き放されてしまったのだと思わずにはいられなかった。真季に突き放されたときも有紗は自身がもう少し歩み寄る努力をしていればよかったのにしなかった。そうやって辛くなったら逃げることが当たり前になっていたことを有紗はこの時初めて知った。
「有稔さんいないんですか?」
有稔にだって逃げるような真似をしなければもう少し結果は違ったかも知れない。気づいたら半狂乱になり有稔の名前ばかり呼んで泣いた。有紗は寝室に入ってすぐの場所で座り込んで肩を震わせ、ついに短い仮面夫婦生活にピリオドが打たれたのだと吃逆泣きした。
『学校のみんなに嫉妬したの、有稔さんを見られたくなかったの』
それはようやく分かった有紗の本心だった。秦菱大学附属高等学校の理事として電撃訪問したときの女子生徒の目色が違うことに嫉妬したのだ。有紗はあくまで『上杉有紗』として通っており『秦部有紗』を名乗れないことにもどかしい思いをしたのだ。彼女たちが色目を使い寄りついてもじっと耐え見て見ぬふりをすることしかできないことが辛かった。これも偽装結婚をうまく隠すためには仕方のないことだったのに。そしてこれは愛情のない偽装結婚であったことを強く胸に刻み嫉妬を切り刻み無に返す、この繰り返しだった。
「有紗」
有稔はどこかに行ってしまったのではなかった、寝室の手前にある書斎に籠もっていたのだ。ただどの部屋も防音設備が整っており有紗の声が聞こえなかっただけだった。
そんな寝室を入ってすぐの場所で吃逆泣きした有紗の泣きはらした顔を見て有稔はしゃがんで「おかえり」と有紗を抱き寄せた。そんな安心した有紗は有稔の背中に腕を回した。
「俺の元を離れられると思ったのか」
有稔の声は少し怒りを含んでいたが、それでも優しさが込められていた。
有稔の元を離れられるかと言われると離れられはしない。こうやって帰ってきたのがいい証拠だ。
「……少し」
有紗が見る有稔の顔は涙で滲んでしまってぼやけて見える。
「もう逃げるような真似はしないな?」
「……しません」
これは有紗の決意だ。有稔との結婚については脅されて結婚を迫られたのは事実だが、同意したのは有紗だ。だったら最後まで自分のすべきことを為すまでだとの結論に至った。
「いい子だ。まともに食事していないだろ、これ食べるといい」
有稔はそれ以上有紗を咎めることはなく、リビング・ダイニングへ有紗を連れて行くとガラステーブルに置いてある紙袋に入ったお菓子、純玲が作ったものだ、それを有紗に渡した。有紗は袋の中からドライフルーツがたくさん入ったマドレーヌを取り出し、一口一口噛みしめるように食べた。洋酒のツンとした匂いが腔内に広がる。マドレーヌを一つ食べてしまったところで次の手を止めた有紗。その顔にはうっすら赤みが差していた。
「あれ……」
食べている間、有紗は大理石の地べたに座り、その隣には有稔がいて有紗は左手で有稔のカッターシャツの裾を掴んで離さなかった。
「どうした、どこか調子が悪いのか」
「……」
有稔が返事のない有紗の顔をのぞき込みその変化を読み取る。有紗は目が虚で少し呼吸が荒い。おそらくマドレーヌに含まれる洋酒に酔ったのだと思い、紙袋に入ったもう一つのドライフルーツがたくさん入ったマドレーヌの匂いを嗅ぎ確信する。そして朝の出来事を振り返り、純玲がわざわざ菓子を焼いて持ってくること自体がおかしいと思わずにはいられなかった。純玲が有稔宅を訪ねたのが午前8時、それまでに普段寝起きの悪い純玲が菓子を焼くだろうか、なにか下心があって早起きし作ったということだろう。そして有稔は酒に弱い。
そのようなことから鑑みるに純玲は有稔に洋酒たっぷりのマドレーヌやクッキーを食べさせ、『既成事実』を作り上げる算段だったのだ。しかし有稔はそれらを食べることなく純玲を追い出してしまったので純玲にしてみれば不発に終わったというところだろう。
「ゆーじんさんはわたしの旦那さんだから……誰にも渡さないのお」
「有紗、しっかりするんだ」
有紗は譫言のように同じ言葉を繰り返していた。酔うと本音が出るというもので有紗ももれなく酔った勢いで口をついて出たそれは有稔を戸惑わせるのには十分だった。
「ゆーじんさんの帰りが遅くてもぉ、いい子で待ってるのぉ」
このとき有稔は自分の過ちを恥じた。たかが香水にいい年した大人が嫉妬してしまったのだ。有紗は有稔の帰りが遅いときもずっと部屋で待っていたのだ。条件として有稔から離れることを許さないことを付してしまったばかりに有紗は一人でこの広い部屋で夜遅くまで待っていたことを思うと、胸を締め付けられた有稔。あの夜も、その前の夜もたった一人でずっと帰りを待っていた有紗。
「他の男と恋愛することも言わなければ分からない話なのに、バカな有紗」
それきり有紗は有稔の腕の中で眠りに落ちた。規則正しい寝息を立てる有紗は16歳といってもまだまだ子供だ。寝顔にはあどけなさ幼さが残り、大人の事情を理解しろという方が無理があるというものだ。仮面夫婦生活と外で恋愛をすることなど両立できるほど有紗は器用ではない。
「有紗、君は俺とずっとここにいるべきだ」
有稔が人前で『俺』と言うのは有紗の前だけだということは有紗に対してはほとんど壁を作ることなく、有紗に心を許しているという表れだった。一方で聡子や純玲を始め有紗以外の秦部の人間には一定の間隔で壁を作り、それ以上は決して立ち入らせない、これは有稔の一種のポリシーでもあった。それもそのはず、有稔が生まれて28年経つが、いまだに有稔の母親とロシア人の父親の結婚を認めていない聡子のことだ、有稔のこととて認めているはずはない。
ロシア人の父親譲りの髪色と瞳の色に聡子は有稔の父親ニコライの影を見るたび嫌悪感を示すのだ。せめて日本人としての体裁を整えさせるべく有稔にはロシア国籍から日本国籍を取らせ秦部姓に改めさせた。さらに当時ロシア語しか話せなかった有稔に日本語と英語教育を徹底させた経緯がある。
そのことからもユージンとしてではなく有稔としてならば一定の範囲で認めてはいるが、ユージン本来の人格を否定されていると感じるようになり距離を置くようになった。
いつしか『仮面夫婦』が『夫婦』として一歩ずつ確実に歩みを進めていることを今の二人はまだ知ることはなかった。
確実に本邸へ向かわねばならないことと、すべてと決着をつけなければならない日が近づいていることを認識している有稔は有紗の額と頬にキスを落とした。
「聡子おばあ様、ただいま帰りました」
有稔にとって再従妹である純玲は有稔との結婚が決まるまでの間秦部家本邸に滞在している。聡子の部屋に今日の成果報告のために訪れていた。
成果といっても実際には有稔の部屋に『紙袋』を置いてきただけであり、本来は中身を食べさせて『既成事実』を作り上げてから帰るつもりだったが、有稔の予想外の行動によりその前に追い出される結果となったため不発に終わったが。
「純玲さんですか、どうぞお入りなさい。お茶を入れましょう」
純玲の祖母であり聡子の妹である神戸洋子と秦部(旧姓神戸)聡子は、神戸財閥の三代目総帥の娘として生まれた。三代目には男児が生まれることはなく聡子か洋子のどちらかが神戸家に残り、婿養子をとると三代目は決めていた。
聡子は政略結婚ではあったが、秦部家現当主との結婚にあたり秦部家へと嫁いだ。しかし聡子としては神戸家に残り、婿養子をとるのは自分であるべきだったのだ、という自責の念に常にかられ、婿養子をとった洋子が数年前に亡くなってから洋子の孫娘である純玲を洋子への贖罪のように本当の孫娘同然に可愛がっている。
そして純玲は聡子を実の祖母のように慕っている。
「有稔さんの様子はどうでしたか?」
「ええ、何の問題もございません。少し時間がかかるかもしれませんが、私にお任せください」
純玲は資料に載っていた例の16歳の少女を思い出し、奥歯を噛み締め、拳をぐっと握りしめた。純玲にしてみれば前々から婚約者は自分だと言われてきたにもかかわらず、有稔はぽっと出の子供と結婚してしまった。しかし子供に負けるわけにはいかないと純玲のプライドが許さないのだ。なんとかして有稔を自分のものにすべく頭をフル回転させていた。
聡子はダージリンティーを入れたカップを傾け次に何を言うべきか逡巡していた。
「有稔さんはパーティーでは結婚をほのめかすようなことを言っていましたね」
聡子は今回のパーティーでの一件を純玲に話し、純玲の意志がどれほど堅いものか試そうとしていた。
「私は有稔さんの婚約者です。聡子おばあ様にご心配をおかけすることはございません。有稔さんと私の結婚で秦部家と神戸家の繋がりを強固なものにいたします。これもすべて秦部家と神戸家のためですもの、私に出来ることは何でもします。当然のことですわ」
純玲の決意は聡子が想像していたものよりも堅かった。
帰ってくる場所ができる、あるいはあるというのは精神的に心強いものです。
嫉妬したという事実はようやく理解した有紗ですが、有稔に想いを寄せる日は来るのでしょうか……?




