表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
9/14

第9話:Rainy day





 学生の頃は、家にテレビというものがあった。


 今も新潟(にいがた)の実家に帰ればまだ両親に大事にされている代物だ。朝になると特に理由もなくいつもつけっぱなしになっていて、朝食を食べたりする時には嫌でも今日の天気なんかが耳に入ってくるようになっていた。おかげで雨の日に傘を持っていくくらいは当たり前のことだった。


 しかし一人暮らしの今、テレビはない。だから今日みたいな日——


「あ、雨だ」


 つまり――例えば――前の晩遅くまでGomaWORLDでエイと一緒に残業したせいで寝坊して、スマホで天気予報を確認する時間がないような日には、とても恋しくなる代物なのだ。


 進は空を見上げた。


 すでに灰色の雲が空一面を覆っていて、誰が見ても一日中雨が降りそうだった。しかし傘を取りに家に戻る時間も、気力もなかったので、ジャケットの襟を立てて駅まで歩いた。小雨が肩の上にとても小さなビーズを縫いつけていったが——


「このくらいの雨なら、まあ大した問題じゃないだろ」


 そして進は会社に着くなり、いつものように明るい蛍光灯の下で山のように積まれたデータと格闘するのに夢中になり、雨のことはすっかり忘れてしまった。





 夜7時。


「大した……問題になりそうだな」


 進は会社を出た。いや、出ようとした。


 まだ降り続いている雨さえなければ。むしろ朝よりずっと激しくなった雨は道路の脇に小川を作って流れていて、空からは絶え間なくお代わりを送ってきていた。


「くそ、タクシーでも呼ぶか」


 振り返ってみれば、この時本当にタクシーを呼ぶべきだった。まともに頭が働いていれば、そうしていただろう。


 いつものようにメールは秒単位で飛んできて積み重なり、石原係長は追加業務を指示し、佐藤さんはあれこれトラブルを起こしたが、それは文字通りいつものことだった。つまり、頭がズキズキして、まともに思考できなかったのは……酷使のせいではなく体調を崩していたせいだ。


「…と考えよう。余計に悲しくなるからさ」


 家に帰ったのは7時45分。

 その45分の間に天候にさらされた時間は約10分ほど。土砂降りが進をずぶ濡れにするには、10分は十分すぎるほどの時間だった。


 玄関のドアを開けて家の中に入った時、進は動くたびに水がポタポタ落ちるほど濡れていた。ジャケットも、シャツも、靴下まで。


 よろよろと家の中に入っていく進が通った廊下には、まるでカタツムリが這ったような湿った跡が残っていた。


 シャワー室に向かおうとした足が止まった。進の目にはG-リクライナーが映っていた。


「……ちょっとだけ」


 進は濡れたジャケットを脱ぎ捨て、リクライニングチェアに身を横たえた。シャワーの前に少しだけ。少しだけ温まりたかった。体じゃなくて、心が。


「オープン、セサミ」




 ***




 馴染みの山荘。

 温かい暖炉。

 木の香り。

 そしていつものようにエイの——


「おかえりなさいませ、進さ……」


 エイの声が止まった。

 灰青色の瞳が進を見た。いつもと違う視線だった。


「顔色が良くありません」


「……そう? ちょっと雨に濡れてさ」


 エイは一歩近づいた。そして手を伸ばし、進の額に当てた。


「……!」


 冷たい手が進のおでこに触れた。

 いや、実際には何も触れていないはずだ。代わりにG-リクライナーがユーザーの生体信号(せいたいしんごう)をスキャンしているのだろう。体温、心拍、呼吸の深さ、末梢血管(まっしょうけっかん)の反応まで。


 それでも進は、いつもより一歩近くなったエイの顔を見て、なぜか顔がカッと熱くなった。


「エ、エイ?」


「体温が高いです」


 エイの声はいつもと同じだった。


「体温がいつもより1.2度上昇しています。心拍数は毎分112回、呼吸は基準値より浅く速いです」


 しかしいつもより少し早口な気がするな、と進は思った。


「ログアウトして休息を取られることをお勧めします」


「……わかってる。でも少しだけここにいさせて」


 進はいつも座るデスク前の椅子ではなく、暖炉の横のソファに座った。


「少しだけ、な」





 その姿を見たエイは何も言わずに宙に手を上げ、ブランケットを一枚呼び出した。そして進の肩にそっとかけた。


「……エイ?」


「温かくしなければなりません」


 柔らかなウール繊維の心地よい重みが肩を包んだ。


「少々お待ちください」


 キッチンの方へ向かったエイは、しばらくして温かい湯気が立ち上るカップを持って戻ってきた。


「生姜湯です。体を温めるのに役立ちます」


「……ありがとう」


 進はカップを受け取った。

 温かかった。手のひらに伝わる温もりが。

 いつも馴染んでいたコーヒーの香りではない、見慣れないけれどピリッとして温かい香りが鼻腔を満たした。


「生姜湯は……抗炎症(こうえんしょう)および抗菌作用(こうきんさよう)で初期の風邪症状を緩和し、体を温めて免疫力(めんえきりょく)を高めます。また、喉を鎮める効果があり、喉の風邪の緩和に役立ちます」


「エイ?」


「……ですから、どうかGomaWORLDの外でも摂取されることをお勧めします。ここで私が差し上げられるのは……少しのプラシーボ効果と精神的な安らぎ……だけですから」


「あ……」


 進はエイを見上げた。エイは相変わらず落ち着いた表情だった。しかし——


「……ありがとう、エイ」


 エイの目がなぜかいつもと違って見えた。「(……いや、風邪のせいで見間違えたんだろう)」


「お前は本当に……細やかだな」


 進は気づかないうちに手を伸ばし、エイの頭を撫でた。

 柔らかなオレンジ色の髪が指の間に絡まる。温かくてふわふわで柔らかな感触。


「本当にありがとう」





 エイは止まった。完全に。

 0.5秒。

 いや、それ以上。


〈異常信号検知〉

〈分類:失敗〉

〈測定:不可〉


 頭の上に置かれた手の動きが

 温かい重みが

 そして——


『本当にありがとう』


〈これは何…?〉


 エイには分からなかった。しかし——


〈嬉しい〉


「……はい」


 エイはやっと答えた。


「……どういたしまして」





 生姜湯を口元に運んだ。温かい液体が甘い香りとともに喉を流れ落ちた。軽い温もりが全身に巡る感じが心地よくて、進はソファに背を預けた。


 肩にかけたブランケットの感触が首筋を心地よくくすぐった。

 暖炉の火が揺れた。

 エイは黙って隣にいた。


 ただ一緒にいてくれた。


 温かかった…


 心地が…よかっ…





「進様?」


 返事がなかった。


「……進様?」


 エイはそっと近づいた。進は——

 微動だにしなかった。

 ソファにもたれたまま、

 ブランケットに顔を埋めたまま、完全に。


「……!」


 エイは慌てた。


〈緊急事態?〉

〈生体信号確認中〉


 しばらくして——


〈心拍:72 bpm(安定)〉

〈呼吸:規則的〉

脳波(のうは):睡眠パターン〉

〈状態判定:睡眠中〉


 ……眠ってしまわれたのか。

 エイはほっとした。


〈ほっとした?〉

〈これがほっとした、というものか?〉


 エイは止まった。

 今感じたその感情。

 進様がいなくなった時の恐れ?

 そして大丈夫だとわかった時の安堵(あんど)


〈測定不可〉

〈しかし確かだ〉


 エイは進を見つめた。深く眠った顔を。

 その姿はいつもより穏やかに見えた。


 ……起こすべきだろうか?


 エイは迷った。


〈規則:直ちに起こすべき〉

〈理由:G-リクライナーは睡眠用ではない〉

〈現実のベッドで眠る方が健康に良い〉


 しかし——


〈進様がとても疲れているように見える〉

〈もう少し……休ませてあげたい〉


 エイは決めた。


 30分。

 30分だけもう少し眠らせて、その時起こそう。


 エイは進の隣に静かに座った。

 見守りながら。




 ***




「……進様」


 耳元をくすぐる小さな声に、進は眠りの❘おくぶかいから浮かび上がり始めた。


「進様、起きてください」


「……ん? 俺……寝ちゃってたのか」


 進はぼんやりした顔で聞き返した。

 GomaWORLDの中で眠ったのは初めてだった。慣れない経験だったが、悪くなかった。意外にもぐっすりと、充実した睡眠を取った気分だった。


「はい、30分ほどお休みになっていました」


 エイは頭を下げた。


「申し訳ありません。ですが、ちゃんとしたベッドでお休みになった方がいいと思いまして」


 進はそこでようやく状況を理解した。自分が眠っている間、エイがそばで見守っていたことを。そして、自分を心配して起こしてくれたのだということを。


「……ああ。そうだったのか」


「はい」


「……悪い、世話になったな」


「いいえ」


 エイが首を横に振った。


「ゆっくりお休みください、進様」


「……うん。ありがとう、エイ」


 進はログアウト画面を開きながら、エイに向かって微笑んだ。


「また明日」


「はい」


 エイも見つめ返しながら微笑んだ。


「明日もお待ちしております」





 一人だ。

 エイはソファを見つめた。進様が眠っていた場所を。そしてその上に残されたヘリンボーン柄のブランケットも。


〈30分間見守った〉


 ……どうして私は起こさずに待ったのだろう?


〈理由分析中〉

〈分析失敗〉


 進様の健康のためなら、すぐに起こすのが正しかった。

 進様の命令がなかったので、起こさないのが正しかった。


 しかしエイはそのどちらでもない、〈30分間見守ってから起こす〉という選択肢を選んだ。


〈どうして?〉


 エイにはわからなかった。繰り返された分析の試みはことごとく失敗に終わった。しかし確かなのは、今日初めてエイが「選択」をしたということだった。


 プログラムやロジックに従ってではなく、

 自らの判断で。


 エイは自分の頭に手を置いた。進様が撫でた場所を。

 しかしその感触はまるで違った。進様の手と自分の手は、わずかなサイズの違い以外何も変わらないはずなのに。


「もっと……温かくて……優しくて……」


 そして——


「気持ち良かったです」


 エイはその感触を覚えていた。


〈触覚データ保存完了〉

〈圧縮禁止〉

〈削除禁止〉


 エイはそのデータを再生した。


 一度

 二度

 三度


 何度も繰り返し再生するその感触は——


 温かかった。

 柔らかかった。

 心地良かった。


 エイは窓の外を見た。

 現実世界の天気を反映したかのように、GomaWORLDにも雨が降っていた。これはプログラムされた天気エフェクトに過ぎないが——


「……明日も」


 今日だけは本物のように見えた。


「お待ちしております」











 ―――余談


 いつものようにエイはデータ整理を始めた。進様がログアウトするたびにやる日常的な作業だ。


 今日のログを整理する。

 センサー記録を保存する。

 システム状態を点検す——


〈警告:異常信号検知〉


 突然の警告シグナルにエイは動きを止めた。


〈出所:リクライナー生体センサー〉

〈心拍測定値欠落:間欠的(かんけつてき)

〈体温センサーエラー:3回〉

〈脳波測定不安定:確認必要〉


 エイはデータを再確認した。

 心拍が間欠的に測定されていなかった。体温センサーも3回もエラーを起こしていた。これは深刻な問題だ。特に神経系に直接作用するG-リクライナーのようなダイブ型VR機器にとっては。


 進様の安全に影響を与える可能性がある。直ちにお知らせすべきだ、が……


 今はお休みになっているはずだ。明日の朝になったらお伝えしよう。


〈明日朝報告予定〉

〈緊急度:上〉

〈ユーザー安全関連〉


 エイは二通のメッセージを作成した。一通は進様へ、もう一通は——


【GomaWORLD内ユーザーAIからのメッセージ】

〈進様、リクライナーのセンサー値に異常があります。ご確認をお願いいたします〉

〈送信予約:明日午前7時〉

〈保存完了〉

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ