第8話:Le Noyer(下)
「スイーツを食べたことが……ないんですか?」
進は思わず聞き返した。今度はハルナと呼ばれた女性AIから答えが返ってきた。
「悠希様は……現実では甘いものを召し上がることができないんです」
「あ……」
その表情と口調から滲み出る震えに、進はそれ以上言葉を続けられなかった。辛そうな表情を浮かべるハルナに向かって、むしろ悠希と呼ばれた少年が「大丈夫だよ」となだめてから、こちらを向いた。
「先天性果糖不耐症……とかで……だから甘いものはもちろん、果物も食べられないんです。糖度が少しでも高いと、体が耐えられなくて……」
「……」
「すみません。思いがけず重い話をしてしまって……」
「いや、こっちこそごめん……なさい。軽率にそんなこと聞いて……」
優しく深い悠希の瞳がふわりと笑った。「大丈夫ですよ」という意味を込めた微笑みだった。
「じゃあ……」
進はしばらく迷った。
『……何て言えばいいんだろう』
元々、他人に話しかけるのが苦手な進だった。しかも先ほど失礼をおかしたばかりじゃないか。
しかし——
「全部食べてみた方がいいんじゃないですか?」
「……え?」
進は思い切って一歩踏み出してみることにした。
「ここはAIの世界ですから。いくら食べても果糖はもちろん、お腹も膨れません。せっかくだから……全部味わってみたらどうでしょう」
悠希はしばらくぽかんとした表情を浮かべた。そして——
首を横に振った。
「……実は僕もそうしたい気持ちは山々なんです。でも、アカウントに残ってるクレジットがあんまりなくて……」
「あ……」
「まだお小遣いをもらってる身なので……親にこれ以上負担をかけるのが申し訳ないんです。
調べてみたら、このG-リクライナーもすごく高価なものだそうです。それでも僕のために用意してくれたのに、これ以上わがままは言えないじゃないですか。……だから一つだけ,一個だけ食べようと思ったんです。一番美味しいやつを」
「そうか……」
なぜ考えなかったのだろう。
当たり前だが、GomaWORLDもビジネスモデルであり、収益を上げるにはユーザーの課金が不可欠な世界だ。現実でもGomaWORLDでもほとんどお金を使わない進にとっては、鈍りやすい感覚だったが。
一方で、幼いながらも両親を思う気持ちが切実な悠希に、何かしてあげたいという気持ちも湧いてきた。
進はぎこちなくエイを見つめた。『……どうしよう』もう二度も雰囲気を気まずくしてしまったせいで、これ以上何か言い出す自信がなかった。
目が合ったエイはしばらく考えてから、悠希に向かって体を向けた。いや、正確にはハルナの方だった。
「本意ではなく失礼をいたしました」
そして少しの間を置いて静かに言った。
「こちらのアカウントのクレジットは十分にございます」
「……?」
「ですので、ご一緒にいかがでしょうか? こちらから……ごちそういたします」
「……え? でも……」
ハルナは驚いたのか手で口を覆い、悠希の目もつられて大きくなった。
「あ、あの。初対面でそんなご迷惑をおかけするわけには……」
進がすかさず言葉を添えた。
「いえ。悠希……くん。迷惑ならこっちが先ですから。エイの言う通り、私たちと一緒に食べましょう。ここのスイーツは……私たちだけで食べるにはもったいないくらい美味しいんです」
悠希は少し不安そうな目でハルナの方を見た。ハルナは少し考えてから——
頷いた。
***
四人は店内に入り、適当に日当たりの良いテーブルを選んで座った。
店内のテーブルごとに刻まれたコードに手をかざすと、ホログラムスクリーンが開いた。その中には各スイーツ商品の写真と詳しい説明、そして価格が書かれていた。
「値段が……こんなに高い……」
自分で稼ぐ社会人である進も、初めてル・ノワイエのタルトの値段を見た時は手が出なかったのだから、お小遣いをもらう学生である悠希にとっては、なおさら高く感じたことだろう。
「いや、これくらいならむしろお得です……お得だよ。実際にお店で食べた時はこれよりも高かったから。たぶん無限に複製できるデータと、作るたびに材料がかかる本物のお菓子の違いでしょ……違いだろうな」
店内に移動する際、年上から敬語を使われるのを悠希が負担に感じていたので、気軽に話すことにしたのだが、初対面の悠希に対して言葉遣いを変えるのは思ったより簡単ではなかった。社会人の習性というものは、なかなかしぶとい。
『全然気軽じゃない……』
一方、エイとハルナも「おお」と声を上げながら、一つ一つメニューを眺めていた。こういう姿を見ると、まるで思春期の少女のようで、新鮮でもあり楽しくもあった。
「悠希くんは何が食べたい?」
「分かりません……全部美味しそうです」
悠希は目を輝かせながら小さく笑った。
「じゃあ、全部一つずつ頼んでみようか?」
「……え?」
進の言葉に悠希の目が大きくなった。
「今日は……今まで悠希くんが食べられなかった分まで、思いっきり食べてみよう」
「……!」
悠希の目尻に涙が浮かんだ。
「……はい。はい!」
注文をした途端、十個以上のタルトやケーキがぱっと現れる……なんてことはなかった。
現実の店舗の雰囲気を強調したかったのだろうか。
注文を入れてしばらくすると、テーブル番号を呼ぶ声が聞こえた。
立ち上がろうとした進の代わりに、エイとハルナがスイーツを取りに行った。悠希と二人きりになった進が何を言えばいいか分からずもじもじしていると、悠希の方から先に話しをかけてきた。
「誕生日にも……」
「ん?」
「僕の誕生日にも……肝心の僕はケーキを食べられなかったんです。両親と栄養士の先生が頑張ってくださったんですけど……それはよく言われるような、口の中でとろけるような甘さとは……全然違いました。
だからル・ノワイエのスイーツなら……きっと夢見ていたあの味がするんじゃないかって思ったんです」
「そうだろう……そうだよ、きっと」
「そう……でしょうか?」
進は悠希の目を見つめて言った。
「僕は普段スイーツをそんなに好んで食べないんですけど……それでもル・ノワイエのタルトを食べた時、本当においしいって思った。ここに来たのも……あそこにいるエイにも、その味を一緒に楽しんでほしかったからなんだ」
「あ……」
「僕の友達にGomaWORLDの開発陣の一人がいるんだ。あいつなら……ル・ノワイエの味を忠実に再現してるはずだ……そう信じてる」
進は自分がコラボ責任者だと言っていた後藤圭介を思い浮かべた。
『頼むぞ……圭介』
ハルナとエイは大きなトレイに様々なタルトやケーキをたっぷり載せてきた。
「わあ……」
その中から真っ赤で美味しそうな苺が乗ったショートケーキをハルナが選び、悠希の前に置いた。
「以前一度……本当に美味しい苺を食べてみたいとおっしゃっていましたよね、悠希様?」
ハルナの言葉に顔いっぱいに喜びを浮かべた悠希が、銀のフォークをケーキに近づけようとした瞬間だった。
「……っ!」
ケーキから漂ってくる甘い香りに、フォークの先がためらうように止まった。心臓を締めつけるような、重い圧迫。それは悠希の心に刻まれた刻印のようなものだった。
甘い香りは昔から禁忌だった。幼い頃から聞いていた言葉が、香りと一緒に蘇ってきた。
――それは食べちゃダメよ。あなたには危険だから……
――危険だから……
――だから……
トン。
動きを止めた悠希の手を、ハルナがそっと押してあげた。不安な目で自分を見つめるユーザーに向かって、AIの少女はゆっくりと頷いた。こう言っているように。
――大丈夫ですよ。ここでは
ハルナが押してくれたおかげだろうか、悠希は再びゆっくりとフォークをケーキに近づけた。生クリームの層に入り込んだフォークは、分厚い苺の層とその下のふわふわなスポンジまで軽く切り分けた。フォークの先から伝わるその優しい感触に、少年の瞳が揺れた。
フォークに載せたケーキのひとかけらを口元に近づける間、甘い生クリームと苺の香りはどんどん濃くなっていった。
心臓が速く鳴った。
ただ食べてみるだけなのに、どうしてこんなに息が詰まるのだろう。
そして悠希はもう迷わず、口の中にケーキを含んだ。
「エイも早く食べて」
「はい、進様」
エイの前に、進はわざと自分がこの前食べたタルト・オ・シトロンを置いた。自分が感じた味と感想を共有したいという思いが彼をここまで導いたのだから、最初の一切れとしてこれを一番先に味わってほしかった。
エイは躊躇いなく銀のフォークを持ち上げ、春の日差しの色をした真っ黄色のタルト・オ・シトロンの端を切り取り、口へ運んだ。
爽やかなレモンの香りが鼻先をかすめたかと思うと、口の中で花のつぼみが弾けるようにぱあっと広がった。
「これが……」
AIの優れた思考回路がこの感覚を表現する適切な言葉を見つけ出す前に、柔らかく優しい感触と香りと味がさざ波のように次々と広がっていった。
「進様が私に味わわせたかったのは、まさにこの味なんですね」
人間はAIではない。
進はエイではない。
同じ味でも人によって違うように感じることがあるのに、ましてやAIと人間が同じ感覚を共有できると思うのは傲慢だ。進はそう思っていたが——
『そんな理屈なんてどうでもいい』
——なぜなら今まさに目の前で、エイがこの上なく幸せそうな表情で微笑んでいたのだから。
悠希が最初に感じたのは、味でも香りでもなく、温度だった。
冷たくも、温かくもない……ただひたすら穏やかな『温度』
シルクのように細い髪を撫でる四月の最初のそよ風が、ふわふわなスポンジと生クリームの間から吹いてきた。その中に浸って流れるままに身を任せたくなるような温かい風の中には、新鮮な苺の香りがした。
少年はその味を飲み込めないまま、しばらくそのまま固まっていた。
ただ……温かかった。
口の中で消えていく瞬間までも。
「これが……甘さ……?」
悠希は自分の皿の上に置かれたケーキを信じられない目で見つめた。その姿を見下ろしながら、ハルナは優しく微笑んだ。
悠希はケーキをもう少し持ち上げた。慎重に、まるでまた消えてしまうのが怖いかのように。
ハルナは静かに、しかしはっきりと言った。
「ここでは……悠希様が望むだけ味わっていいんですよ。ここでは何も遠慮することはありませんから」
悠希はゆっくりと、息を吸い込んだ。
そして二口目は、もう少し勇気を持って頬張った。
***
四人が席を立ったのは、優に二時間は過ぎた後だった。
悠希はすべてのスイーツを思う存分味わい、エイも絶え間なくフォークを動かした。その姿をハルナと進は微笑ましく、あるいは誇らしげに眺めていた。
席を立ってル・ノワイエを出ながら、悠希は何度も頭を下げた。
「本当に……本当にありがとうございます」
「……どういたしまして」
「GomaWORLDがあって……そして進さんに会えて……本当に良かったです」
少し目元が潤んだ悠希の後ろには、いつの間にか夕日がゆっくりと沈んでいた。ハルナが悠希の肩をそっと撫でた。
「悠希様、そろそろお戻りになるお時間ですよ」
「……うん」
悠希は進とエイにもう一度深く頭を下げた。
「本当にありがとうございました。いつかまた会えたらいいですね」
「……ああ。じゃあな。体に気をつけて」
進が手を振った。エイも丁寧にお辞儀をした。
「さようなら」
悠希とハルナはそうして、絶え間なく水を吹き上げる噴水を背に、薄れていった。
オレンジ色の夕日を受けて赤みを帯びた森の小道を、進とエイは並んで歩いていた。
「ところで、エイ」
「はい、進様」
「さっき……一緒に食べようって提案した時、どうして悠希くんに直接言わないでハルナさんを見ながら話したの?」
エイはしばらく足を止めた。
「あの提案が悠希様にどう受け止められるか……先に確認したかったんです」
「確認?」
「はい。ハルナ様に内部メッセージでお聞きしました。悠希様の性格上、このような提案を負担に感じるかもしれないと分析しましたので」
進は目を瞬いた。
「内部……メッセージ?」
「AI同士は短いデータパケットを直接やり取りできます。基本的に私たちは同じGomaWORLDのサーバー上に成り立っているAIですから」
進は改めて気づいた。自分が圭介とメッセージをやり取りするように、石原係長とこそこそ話すように、AI同士にも彼らだけのコミュニケーション方法があったということを。
「それで……ハルナさんは何て?」
「合理的な提案だとおっしゃいました。悠希様がためらわれたら、そちらでフォローするとおっしゃってくださいました」
「……みんな思いやりがあるんだな」
進のつぶやきに、エイは首を横に振った。
「進様がおっしゃる、人間の思いやりとは違うと思います。私たちは心からではなく、悠希様と進様の立場で最も合理的で適切な判断を下したのですから」
「エイ」
淡々とした口調で話すエイに向かって、今度は進が首を横に振った。二人の間に温かさが感じられるのは、降り注ぐ夕日のせいだろうか、それとも——
「それを……思いやりって言うんだよ」
***
山荘に着いた進は、ログアウトの準備をしながらエイの方を見た。
「エイは今日どうだった?」
「良かったです。進様。初めて食べ物を食べて……味を体験して……進様がお好きな味が何か学習しました」
「……」
「進様が私に体験させたかった味が、こういう味だったんですね」
「違うよ、エイ。この味じゃなかったんだ」
「……?」
穏やかに笑う進を見つめる灰青色の瞳に、不思議そうな色が宿った。
「僕が食べた現実の味より、今日GomaWORLDで食べた方がずっと美味しかった」
「圭介様がより素晴らしく味を作られたんですか?」
「あいつが? ははっ。そんなわけないだろう」
違うよ、と進は付け加えた。
「それは学習って言うんじゃない。ただ僕たちは美味しいものを食べたんだ。楽しく、ね」
それから進は「また来るね」と言ってGomaWORLDからログアウトした。
「おやすみなさいませ、進様」
進が去った場所を簡単に片付けたエイは、いつものように窓辺に座った。いつの間にかGomaWORLDの空には満天の星が降り注いでいた。夜空を見上げながら、エイはいつものようにデータ整理に入った。
「今日は進様の残業をお手伝いしなかったから、整理するデータ量は多くないはずですね」
エイは両手を胸に当てて作業を始めた。
〈本日のデータ圧縮開始〉
しかしすぐに、エイは戸惑いに顔を強張らせた。
人間の感情に例えるなら、それはシャベルで土を掘ろうとした人が、自分が掘り出そうとしていたものが山だったと気づいた時の気分。
生まれて初めて経験する負荷に、エイは呆然とした。
「あれ? どうして?」
データ量がいつもよりずっと多い。何故だ?
〈使用時間:3時間52分〉
使用時間はいつもと同じくらいか、むしろ短い方だ。エイはもう一度、試行に入った。
重複するものは圧縮し、不要なものは消去する。
いつもやっている慣れた作業だが、今日は——
「不要なものが……ない?」
〈Object: Susumu Toma〉
〈重複データ:0件〉
〈不要データ:0件〉
〈圧縮可能:なし〉
〈削除可能:なし〉
「すべてのデータが……必要だと?」
そこでようやくエイは気づいた。今日一日があまりにも『充実していた』ということを。いつもとは比べものにならないほど多くのデータが蓄積されたということを。たくさん体験して、たくさん学習した……
いいえ——
『それは学習って言うんじゃないよ。ただ僕たちは美味しいものを食べたんだ。楽しく』
「そうですか。これは……」
エイは夜空を見上げた。いつものようにプログラムされた風景だが、一層美しいとエイは思った。
「これは『楽しかった』ということだったんですね」




