第7話:Le Noyer(中)
土曜日の夜。
その日も相変わらず残業を終えて家に帰ってきた進は、いつものようにG-リクライナーの前に立った。ただ、いつもと同じ姿ではなかった。
普段なら仕事から帰ってきてすぐ、ネクタイだけ外してチェアに座るところだが、今日は違った。進が着ているのは、久しぶりにクローゼットから取り出した、普段あまり着ない薄いグレーのカジュアルシャツ。
「……これでいいかな」
着替えて、鏡の前に立ってシャツの襟を整えた。そしてしばらく迷ってから……引き出しから香水を取り出そうとした手を止めた。
「……何やってんだ、俺」
進は自分にぼやいた。
GomaWORLDは仮想世界だ。当然、香水の匂いなんて伝わるはずがない。G-リクライナーが反映するのはユーザーの姿だけ。たとえば服装とか、顔とか、髪型とか……
「あ、そうだ。髪」
もう一度鏡の前に立って髪を整えてから、ようやく進はリクライナーに座ることができた。ヘッドレストに付いたバイザーを下ろし……いつもやっていることなのに、今日はなぜか妙に緊張する……
深呼吸を一回。
「GomaWORLD、接続」
もう家のように馴染んだ山荘の中の景色が広がった。
デスク、暖炉、書斎、そして——
「おかえりなさいませ、進様」
エイが立っていた。
いつものように。
オレンジ色の髪、灰青色の瞳、ネイビーのメイド服。
しかし——
エイは一瞬止まった。ほんの一瞬。しかしその間は進にもわかるほど明らかだった。
「……」
進を上から下まで見る視線。
「へ、変かな? エイ」
「今日は……お召し物がいつもと違いますね」
「……うん」
進はぎこちなく答えた。やっぱり変だろうか? 張り切りすぎたかな? こういうところで——
エイは薄い笑みを浮かべて軽く頭を下げた。
「お似合いです」
「あ……ありがとう」
進はなんとなく首の後ろを掻いた。
「では……参りましょうか?」
「うん。行こう」
***
セントラルプラザまでは歩いて20分ほどの距離だった。
進の山荘があるフォレストエリアの中心部にあたるセントラルプラザは、普段からユーザーのトラフィックが最も多い場所の一つだった。もちろん、2年近い間に進がセントラルプラザに行った回数は片手で数えられるほどだが。
仮想世界での移動ならコマンド一つで十分だ。しかし今日はなぜか歩きたい気分で、二人で一緒に家を出た。
「進様」
エイが隣を歩いていた。
一歩後ろでもなく、二歩後ろでもなく。
並んで。
しかし——
不思議と違和感はなかった。
森の道を歩く音。
風が木の葉を撫でる音。
そのすべてが穏やかだった。
「残業がなくて……今日は本当によかった」
森の道を抜けると、セントラルプラザが見えた。
絵に描いたような広い広場の真ん中には大きな噴水があり、クラシックなオペラ音楽に合わせて踊るように絶え間なく水を噴き上げていた。周りでは週末を迎えて様々なイベントが開かれていた。
賑わう人々を見て進は少しめまいを感じたが——
「エイは大丈夫?...みたいだね」
隣を見た瞬間、そんなことは一瞬で吹き飛んでしまった。
エイの灰青色の瞳に広場の光が反射して、まるで星のように輝いていた。
「……あんな顔もするんだな」
今まで一度も見たことのない生き生きとしたエイの姿を、進はしばらくぼんやりと見つめていた。
「どうかなさいましたか、進様?」
目が合った。
進はまるで着替えているところを覗き見て見つかったかのような気分になり、恥ずかしさに顔を背けた。
「な、何でもない。エイ、早く行こう」
進が指した方向には、広場で開かれている様々なイベントの中でもひときわ目を引く店舗が一つ建っていた。いつか進が嗅いだあの香ばしいバターの香りを漂わせるその店には、美しい書体で見事に書かれた看板が掲げられていた。
【Le Noyer - GomaWORLD店】
店の前に置かれたガラスのショーケースの中では、様々な種類のスイーツが輝いていた。
「おお……」
「わあ……」
タルト、マカロン、エクレア、ケーキなど。
進が訪れた現実世界の店舗ではクロワッサンやバゲットのような食事用のパンも多かったが、ここはイベント店舗ということもあり、それよりも色とりどりの華やかなデザート類を中心に構成されていた。
進は思わず微笑んだ。
まるでスイーツの一つ一つをスキャンするように見入っているエイの姿を見ていると……なんだか嬉しくて、少し胸がいっぱいにもなった。
「来てよかった」
店のドアを開けて入ろうとした瞬間、小さな声が聞こえた。
「あの……すみません」
進とエイは振り返った。
声をかけてきたのは、10代前半に見える少年だった。シルクのようになめらかな髪と、線が細く白い顔。痩せた体に羽織った黄色いカーディガンがとても似合う少年だった。隣には姉くらいに見えるAIの女性も一緒に立っていた。水色の髪をした、穏やかな表情のお嬢さんだった。
慌てて言葉を失った進とは違い、瞬時に危険度スクリーニングを終えたエイが一歩前に出て——進の前を遮りながら——にっこりと笑顔で丁寧に答えた。
「こんにちは。どうかなさいましたか?」
少年はしばらく迷ってから、また勇気を出して口を開いた。
「あの……ル・ノワイエのタルト、召し上がったことありますか?」
これはエイにも答えられないことだった。
エイと少年の視線が同時に進に向いた。
知らない人との会話。進が最も苦手とすることだったが……
小さな声で話しかけてきた少年の姿に、なぜか自分の姿が重なって見えた。
人混みの中で誰かに声をかけること。それにどれだけ勇気がいるか……進はほかの誰よりもよく分かっていた。
「……はい。食べたことあります」
少年の目が輝いた。
「どれが……一番美味しかったですか?」
「レモンタルトでしたよ。爽やかで……美味しかったです」
「ありがとうございます!」
少年が明るく笑った。
そこまで喜んでくれるのを見ると、なんだか進もほっとした。だからだろうか。進にしては珍しく、気さくに話しかけた。
「……スイーツ、好きなんですか?」
「あ……」
答えられずに暗くなった少年の表情を見て、進はさっきまでほぐれていた心がドキリと沈んだ。何か失言したかな。やっぱり話しかけるべきじゃなかったか。
「あの……」
隣に立っていた水色の髪のAIのお嬢さんが何か代わりに言おうとしたが、少年が止めた。
「大丈夫、ハルナ。僕が話すよ」
少年は微笑みながら進を見つめた。
「実はよくわからないんです。スイーツを食べたことがないので」
その微笑みは……とても寂しい秋風に似ていた。




