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第6話:Le Noyer(上)





 その日の昼、戸間進(とますすむ)は会社近くの通りを歩いていた。


 普段ならこの時間に外に出るなんて想像もできないことだった。しかし今日は違った。石原(いしはら)係長が昼休み前に堂々と宣言したのだ。


「今日のお昼はみんな外で食べて!」


 昼休みすら惜しいこの会社で外食だと? 全員の顔に喜びよりも先に疑問符が浮かんだ。


「今日の昼休みに電気配線の点検があるの。オフィス全体が停電になるから、今日はみんな外で食べよう」


 佐藤美雪(さとうみゆき)さんを含めて何人かが歓声を上げながら、さっそく会議に突入した。


「駅前のイタリアンはどう? あそこのランチ、なかなかいいよ」


「そこは予約しないとなかなか厳しい。それなら、近くのデパートのレストラン街はどう?」


 断言できる。クライアントとの最終チェック会議でさえ、これほど真剣ではなかっただろう。


 どんどん盛り上がっていく同僚たちを後にして、進は停電に備えてデータのバックアップをしている係長に近づき、小声で聞いた。


「あの……暗くてもいいからオフィスで食べちゃダメですか?」


「ダメよ。特に戸間くんは。外の風にでも当たってきて。顔色すごく悪いよ」


「……大丈夫ですけど」


「大丈夫じゃない。出てって」


 結局、進は追い出されるようにオフィスを出るしかなかった。


「外で食べろって言われても、なあ」


「先輩!一緒にランチ食べましょう!」と叫ぶ佐藤美雪さんの声を背中で聞きながらオフィスを出た進は、当てもなく近くの路地をさまよった。コンビニでも行こうかと思っていた進の足が止まったのは、偶然だった。


 いや、正確には——


 匂いのせいだった。

 甘いバターの香り。

 焼きたてのパンの匂い。


 その匂いを辿っていくと、路地の奥に小さな店があった。


【Le Noyer ル・ノワイエ】


「ル……ノイ……ノワイエ……フランス語か?」


 ベーカリーのようだった。ガラス越しに並んだケーキやタルトが見えた。黄金色のクラストとその上に乗せられた鮮やかなフルーツたち。


「……高そうだな」


 進は通り過ぎようとした。

 その時、ドアが開いて一人の女性が出てきた。彼女が持っていた紙袋から、濃厚で甘いバターの香りが漂ってきた。


 その香りが進の足を止めた。

 普段彼が食事を済ませていたコンビニのパンとは次元の違う、本物の「焼きたて」の匂い。


「……一度くらい?」


 進はドアを開けた。





 ガラスのショーケースの中には様々な種類のお菓子が並んでいた。

 エクレア、マドレーヌ、クロワッサン、ミルフィーユ、タルト……

 どれも綺麗で美味しそうだったが、値札を見て思わず身構えてしまった。


「一切れ800円……」


 普段の昼食代の倍だった。


「……やっぱり出ようかな」


 しかし引き返すにはもう遅かった。ショーケースの向こうに立つ店員が明るく笑って進に声をかけてきたからだ。


「ル・ノワイエへようこそ。ご注文はお決まりですか?」


「あ……僕は……」


「初めての方でしたら、これが一番人気ですよ」


 店員が指したのは小さなタルトだった。きれいに焼き上がった生地の中に黄金色のカスタードが詰まっていて、その上に乗った真っ白なメレンゲがアクセントになっていた。


「うちのシグネチャーメニューのタルト・オ・シトロンです。レモンカードがとても爽やかで、メレンゲがふわふわで、コーヒーとすごく合うんですよ」


「……あ、はい」


「一ついかがですか?」


 断るタイミングを逃した。


「……はい」





 進は近くのベンチに座って紙袋を開けた。

 小さな箱の中には手のひらサイズのタルトが入っていた。


「800円……」


 ため息をつきながら同封されていたフォークを取り出した。柔らかいタルトは抵抗なくすっと割れた。


 一口頬張った途端、そのまま進は止まってしまった。


 サクサクと崩れるタルト生地。ふわりと溶けるメレンゲ。そして舌の上に広がる、鮮烈なレモンの酸味。

 その後ろから、甘さが時間差を置いて追いかけてきて、やっとそのすべてが口の中でひとつになった。


 美味しいのは、当たり前だ。値段が違う。頭ではそう言っていたが、心は知っていた。

 これはそういう問題じゃない、と。


「…美味いな」

 進は思わず小さく呟いた。そしてふと思った。


「エイのコーヒーと一緒に食べたら、すごく美味しいだろうな」


 残りのタルトを二口で平らげてから、進はまた思った。


「……いや」


「エイと一緒に食べたいな」


 そっちの方が正確な表現だった。

 エイが淹れてくれたコーヒーとこのタルトを一緒に食べるなら。

 山荘のデスクで、温かい照明の下で、エイと向かい合って……


「……いいかもな、それ」


 進はタルトを食べ終え、空の箱をじっと見つめた。




 ***




 その日の夜、いつものように進はGomaWORLDに接続した。


「おかえりなさいませ、進様」


 エイがいつものように挨拶した。


「ん」


 進はデスクに座りながらエイを見た。いつものように会社から持ってきた資料を整理していた。

 静かに、落ち着いて、機械的に。


「……エイが何か食べてるところ、見たことないな」


 進はふと気づいた。

 2年。

 エイと一緒に過ごした時間。

 しかしエイが何かを食べる姿を見たことがなかった。

 当然のことだ。

 AIだから、食べる必要がない。

 しかし進は初めてこんなことを思った。


「……一緒に食べられたらいいのに」


 そして、気がつけばすでに圭介にメッセージを送っていた。


【進】圭介、今いる?

【圭介】これは、これは、進様ではありませんか。お前から連絡してくるなんて。明日は太陽が西から昇るな。どうした?

【進】エイにさ……何かごちそうできるかな?

【圭介】……エイちゃんに?

【進】うん。

【圭介】……何を食べさせるって? 詳しく言ってみ。

【進】昨日『ル・ノワイエ』っていうベーカリーでタルト食べたんだけど。それがなかなか美味しくてさ……エイと一緒に食べられたらいいなって思って。

【圭介】『ル・ノワイエ』……か

【進】圭介?

【圭介】あ、いや。ちょっとこっちの話。それで?

【進】……変かな?

【圭介】いや……変じゃない。お前にしてはいい考えだと思う。

【進】じゃあ方法はある?

【圭介】今はないな。GomaWORLD内にすでに実装されてる食べ物、つまりセントラルプラザのレストランで売ってる料理とか、エイちゃんのコーヒーなら味わうことはできるけど、GomaWORLDの外から食べ物を持ち込むのは無理だ。

【進】……そうか

【圭介】……うーん

【進】??

【圭介】いや、何でもない。俺先行くわ。じゃあな!


 進は複雑な表情でチャット画面を閉じ、窓の外を見ながらため息をついた。


「やっぱりダメか」


 当然のことだった。エイはAIだから。

 しかし——

 どこか寂しい気がした。




 ***




 しかし——

 圭介はまだ会話が残っている画面を見て微笑んだ。


「……エイちゃんと一緒に食べたい、か」


 面白い変化だった。あの進がエイに、いや他人に何かしてあげたいと思うなんて。


「ふーん……進の奴……たまにはいいこと考えるじゃん」


 圭介はしばらく考えてから、自分のAI、ラビンを呼び出した。


「ラビン、社長にメッセージ一つ送りたいんだけどさ……」




 ***




 一週間後。

 通勤電車の中でうとうとしていた進は、メール受信を知らせる振動で目を覚ました。


「またスパムか」


 しかし仕事のメールかもしれないので、とりあえず取り出してメールを確認していた進の目が、ある文字に釘付けになった。


【GomaWORLD公式】緊急告知:新規コラボイベントオープン!


「……コラボだと?」


【GomaWORLD × Le Noyer】

『東京の人気ベーカリー』Le Noyerとの特別コラボ!

 普段は予約必須のあの味をGomaWORLDで!

 期間:今週土曜日~日曜日

 場所:GomaWORLDセントラルプラザ特設店舗

 内容:実際のLe NoyerのメニューをGomaWORLDで体験!

「ユーザーの、ユーザーのための、ユーザーによる楽園」

 GomaWORLDでしかできない特別な体験をお届けします。


 進は画面を穴があくほど見つめた。


「……ル・ノワイエ?」


 あのベーカリー。

 あのタルト。


「……GomaWORLDで?」


 心臓が高鳴り始めた。それなら——


「エイも……食べられるのか?」


 進はすぐに圭介にメッセージを送った。


【進:おい、圭介。このコラボって一体何だよ?】

【圭介:もう確認したのか? 早いな。さっき告知メール送ったばっかりなのに】

【進:GomaWORLDでル・ノワイエが食べられるって?】

【圭介:ああ、そういうことになった】

【進:どうやって……この前外から食べ物持ち込むのは無理だって言ってたじゃん】

【圭介:そりゃケーキ持ってVR接続はできないだろ。でも正式コラボなら味情報を分析して商品をGomaWORLD内で再現するくらいはできるんだよ】

【進:そ…そうなのか】

【圭介:今回本社でコラボ企画してる中で、ちょうど候補に『ル・ノワイエ』があったんだ。いやー……運がいいですね、進先生。いい友達をお持ちで】


 進はスマホを握りしめた。


【進:もしかして……お前が?】

【圭介:うん。お前のおかげでアイデア思いついたわ。おかげでコラボ担当者になって今忙しいから、また後でな。バイバイ】


「こいつ……」


 進はフッと笑ってから、コラボ案内メールをもう一度開いた。


『東京の人気ベーカリー』

『普段は予約必須』


「……そんなに有名な店だったのか?」


 進は初めてル・ノワイエを訪れた日を思い返した。


 空いている店。

 並ばずに入れた記憶。


「……ただ運が良かっただけか」


 平日の昼間、客のいない時間。たまたま入ったあの店が……

 実はみんなが知っている有名店だった。


「圭介もここ知ってたんだな……」


 進は小さく微笑んだ。そしてさっき伝えられなかったメッセージを圭介に送った。


【進:ありがとう】




 ***




 その日の夜、GomaWORLD。


「コーヒーです、進様」


 エイがいつものようにコーヒーを置いた。

 進はしばらく迷ってから口を開いた。


「エイ」


「はい、進様」


「……今週末、一緒に出かけない?」


 エイは一瞬止まった——0.1秒。


「……お出かけ、ですか?」


「あ、その、つまり……セントラルプラザ……で」


「……?」


 エイは不思議そうに首を少し傾げた。

 その視線から目を逸らしながら、進はぎこちなく言葉を続けた。


「あの……現実で俺が食べた……良かっ……いや、美味しかったベーカリーがさ、コラボイベントやるって…言うから、良かったら……一緒に食べに行こう」


 言い終えてから、自分の心臓がやけにうるさいことに気づいた。

 手のひらが少し汗ばんでいた。


『何を緊張してるんだ、俺は』


 灰青色の瞳がしばらく進を見つめた。

 そして——

 ほんの少しだけ、微笑んだ。


「……はい。参ります、進様」

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