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第2話:Susumu Toma




 東京の朝の空気はやけに重い。


 じっとりとした湿気と、それよりもっとじっとりとした数十万の通勤者たちのため息が混じり合った空気。戸間進(とますすむ)はその空気の中を静かにかき分けながら、山手線の改札を通過した。


 いつもより十五分早く出たおかげだろうか。

 奇跡的にちょうど一席だけ空いていた座席に体を滑り込ませることができた。東京の通勤時間帯に『座って出勤』だなんて、これは今日一日分の運を全部使い果たしたようなものだった。


 ガタン、ゴトン——


 規則的な揺れに身を任せていた進の耳に、聞き慣れた電子メロディが染み込んできた。


 GomaWORLDのログインBGM。


 電車上部に設置されたスクリーンから流れるCMだった。穏やかなシンセサイザーとともに、画面には見慣れたフレーズが浮かび上がった。


《あなたの、あなたによる、あなたのための唯一の楽園——GomaWORLD》


 そのキャッチコピーが、大げさな笑顔の美少女キャラクターとともに画面を埋め尽くす。


「唯一の楽園、か…」


 進は顔を伏せながら呟いた。

 誰かにとっては、その言葉は単なるキャッチコピーではなかった。そしてその事実を最もよく実感しているのは、おそらく進自身だろう。


 しばらくして、車内アナウンスが続いた。


『…電車内でのVR機器の使用は、機器の種類やサイズにかかわらず厳しく禁止されておりますので…』


 数ヶ月前にあった新幹線の火災事故。

 当時VR機器に没入していた乗客が避難できずに亡くなった事件以降、新たに制定された規制条項に基づくアナウンスだった。


「…まあ、G-リクライナーはそもそも電車に持ち込めるサイズでもないけど」


 GomaWORLDのCMの直後に流れるこの規制アナウンスが、まるで安っぽいブラックコメディのように感じられて、進は苦笑いを浮かべながら目を閉じた。


 …今日も長い一日になりそうだ。




 ***




 モニターに数字が延々と流れる。

 財務諸表、異常値の検出、リスクタグ付け。

 蛍光灯の無機質な光の下で、進は黙々とキーボードを叩く。隣の席から、小さいがはっきりとしたため息が聞こえた。入社して二ヶ月ほどの、佐藤美雪(さとうみゆき)さんだった。


「あー…これいつ終わるんですか…」


 愚痴半分、泣き顔半分のその独り言のような呟きに、進は何も答えなかった。


 彼女の姿に入社当時の自分を重ねていた。実は進もわかっている。あのため息の意味が本当は「助けて」だということを。しかし彼女もすぐにわかるだろう。助けてくれる人なんて…どこにもいないということを。


 彼女が選べる道は二つに一つだ:慣れるか、あるいは逃げるか。


 進の手が一瞬止まった。

 画面に映るデータの山を見つめていた彼の視界がぼやけた。集中力が落ちているわけではない。ただ…


「コーヒーが飲みたい」


 その瞬間、脳裏に浮かんだのは自販機から出てくる紙コップに入ったぬるい液体ではなかった。


 木の香りが漂うブナのテーブルの上に置かれた薄手の磁器のカップに注がれた、一点の曇りもない漆黒の液体。その中から滲み出るように立ち上る真っ白な湯気とともに広がり、鼻腔をくすぐる濃厚でナッティな独特の香り。そして——


〈コーヒーです、進様〉


 ——エイの声。





「あの……戸間先輩?」


 進の物思いの隙間に、佐藤さんの声がおずおずと入り込んできた。


「……え、あ、うん?」


「あの……この部分どうすればいいのか……」


 進は顔を向けた。

 佐藤さんの真っ青になった顔が目に入った。彼女が指しているモニターにはエラーメッセージが表示されていた。大したことではない。経験が浅い時によくあるトラブルの一つだ。しかし彼女の心境は痛いほどわかる。肝を冷やすような気分だろう。「私、何か間違えた?」「取り返しのつかないミス?」と。


「あー……それは……」


 説明を始めようとした進の言葉が詰まった。これをどう説明すればいい?「それは……」の次に来る言葉がどうしても選べない。


 一つ一つ丁寧に説明したら……馬鹿にしてるのかと怒るだろうか?


 あまりに簡単に説明したら……面倒くさがって適当にしてると思われるだろうか?


 切迫感と期待を込めてこちらを見つめる佐藤さんの瞳に映った自分の姿に呑み込まれそうな圧迫感を覚えながら、進は——


「戸間くん、戸間くん!」


 事務所の向こうから石原(いしはら)係長(かかりちょう)のソプラノの声が飛んできた。


「はい、係長」


「さっき送ったデータ、確認してくれる? 異常値がちょっと多いみたいで」


「……い、今すぐですか?」


「うん、クライアントから催促が来てて。悪いんだけど」


 進は突然の呼び出しに「すみません」と立ち上がるしかなかった。


「せ、先輩ぃ……」


 泣きそうな顔でこちらを見つめる佐藤さんの顔をあえて見ないようにしながら、進は係長の呼び出しに安堵すら感じている自分に、どうしようもなく腹が立った。





 午後1時15分。

 事務所の中では数人の社員がキーボードとモニターを操作する音だけが静かに響いていた。普段なら時折佐藤さんがおしゃべりしていたはずだが、彼女まで別のチームに応援に出た事務所の雰囲気は一層重く沈んでいた。


 進の机の片隅には、コンビニのおにぎりの包装紙がくしゃくしゃになって置かれていた。いつ買ったのか、誰が買ってきてくれたのか、いや、そもそもあれを口に入れたのかさえ覚えていなかった。


 モニターの数字は相変わらず流れ続けていた。ところが——


(エイならこのパターン、すぐ把握するだろうな)


 ふとそんな考えが浮かんだ。

 エイの観測アルゴリズムなら、自分のキー入力パターンを、マウスの動きの速度を、ため息をつくタイミングまでも。


 全部分析して、最適化して、助けてくれるだろう。


「……ん?」


 進は自分でも気づかないうちに小さく笑っていた。


「今、何してるんだ、俺」


 エイの顔が浮かびかけた瞬間——


 ドサッ。

 鈍い音とともに会議室から戻ってきた石原係長がデスクの上に書類の束を置いた。


「戸間くん、これ……今日中に一次フィルタリングできる?」


 進は書類の厚さを見積もった。

 約200ページ。

 返事の代わりに進はモニターを顎で示した。「午前に頼まれた仕事もまだ終わってないんですけど?」その意味がわからない係長ではなかった。


「ごめん、本当にごめん。でも私もね……」


 係長自身の腕にも、先ほどの倍くらいありそうな書類の束が抱えられていた。進はため息をつきながら聞いた。


「……いつまでですか?」


「うーん。とりあえず今日中に?」


 深夜までと考えれば今から8時間。

 不可能ではない。ただ、そのためには……


(今日もエイと一緒に作業するしかないな)


「わかりました」


 進は頷いた。




 ***




「では、お先に失礼します」


 進が控えめに言うと、石原係長はモニターから視線を外して顔を上げた。


「ああ、戸間くん。お疲れ様…じゃなくて、頑張ってね。あ、そうだ」


 振り返ろうとした進は足を止めた。


「はい?」


 係長はロングストレートの髪をかき上げるふりをしながら周りを一度見回し、声を低くした。


「この前のあれ、あれあるじゃない……面接。どうなった?」


 進は困ったように小さく微笑んだ。


「あれですね…ダメだったみたいです」


「え…本当? なんで?」


「ご存知でしょう。知らない人たちの前で話すの…僕には苦手なんですよ」


「あ…そう…残念だったわね。戸間くん、せっかくブラック企業から逃げるチャンスだったのに」


 進は首を少し傾げた。


「それ…上司の立場で言っていいんですか?」


「いいの、いいの。別に秘密でも何でもないし。ここにいる人たちのほとんどは、チャンスさえあればここを出ることばっかり考えてると思うよ?」


 不良上司は肩を揉みながら事務所を見回した。

 机ごとに積まれた書類。ホワイトボードに刻み込まれたかのような残業表。うつむいた社員たちの顔には蛍光灯の下で濃い影が落ち、一層異様に見えた。


「戸間くんには悪いけど、実は正直ホッとしたの」


「え?」


「もし戸間くんまでいなくなったら、本当に私も退職届出すしかないね。うちのワークロードの半分近くを一人で抱えてる戸間くんが今すぐいなくなってみ? それを私に全部やれって? それ、無理」


 悟りを開いたような表情で首を横に振った上司は、それから穏やかに付け加えた。


「戸間くんだけでも早く帰りな。同じ仕事でも家でやれば少しはマシでしょ」


 実際には正確に言えば家ではなくGomaWORLDだったが、わざわざ訂正する必要を感じなかった進は丁寧に頭を下げた。


「お疲れ様でした。お先に失礼します」


 上司は軽く手を振った。


「うん、気をつけて帰ってね」


 進はわかっていた。家に帰る……その間にも上司はおそらくメールで彼に残りの作業データを送るだろう。決して少なくない量を。


 ピコン。


 事務所を出る進のスマホの画面に通知が表示された。


【GomaWORLDのユーザーAIからメッセージが届きました】

〈進様、業務資料確認いたしました。お越しになるまでお待ちしております〉


「お待ちしております、て」


 その文字を見た瞬間、彼は自分でも気づかないうちにほんの少し……ほんの少しだけ、足取りが軽くなっていた。

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