第14話:The maze(下)
朝6時ちょうど。
カチッ、と秒針が0を指した瞬間、アラームが鳴る前に時計のスイッチが切られた。
「はあ……」
ため息をつきながら佐藤美雪は憂鬱な目で目覚まし時計を見下ろした。起きたのではなかった。起きていたのだ。
『何なのこれ!!!』
今でも耳に生々しいソプラノの怒声。
新人だからといつも細かく気にかけてくれていた石原係長の怒鳴り声は、文字通り夢に出てくるほど美雪にとって衝撃だったようだ。明け方4時半頃、悪夢にうなされて目覚めた美雪は、そのまま一睡もできずに夜を明かした。
美雪は布団を蹴飛ばして体を起こした。
首が凝っていて、頭は重く、目は半分しか開かなかった。それでも洗面所によろよろと歩いて行き、無理やり目を開けた。鏡に映った自分の姿は、お世辞にもまともとは言えないほどだった。
「クマ、もっとひどくなってる」
そうでなくても報告書のせいで二日続けて徹夜同然だった。昨夜こそちゃんと眠れるかと思ったのに、明け方に目が覚めてしまって。
「ああ……そうだ……報告書……」
石原係長が会議室に投げつけたあの報告書。
自分なりに頑張ったつもりで最新のAIモデルまでわざわざ有料でサブスクして作成したレポートだったのに、あそこまでひどいとは夢にも思わなかった。
「OlympiaWM……高かったのに……サブスク、解約しなきゃ」
わざと目を覚ますために冷水を顔に何度もかけながら、美雪は呟いた。最先端技術を結集した、業務に最適化されたAIだと信じていたのに、裏切られた気分だった。
「そうよ……AIのレベルなんて結局どこも同じよね」
ふわふわのタオルに顔を埋めて、あーっ!と叫んでみた。分厚いタオルの間に水気と一緒に叫び声が染み込んだ。重かった心が少しは軽くなった気がした。
「そういえばAIといえば……」
洗面所を出る美雪の頭に一人の人物が浮かんだ。
『明日の朝、少し早く来られる?』
「あっ! すっかり忘れてた!」
戸間進。
毎日同じ色の、安いSPAブランドのジャケットを着て、小さな顔に比べて少し大きく感じる眼鏡をかけた先輩。いつも黙々と仕事だけしている、存在感が薄くて線の細い隣の席の先輩。が聞き取れるかどうかの小声で今朝いつもより早く来るように言っていた——それも、美雪自身のことで。
少し慌ただしく、バタバタしながら着替えてカバンを持って家を出る間に、朝からずっと心の片隅を重く押さえつけていた何かは、いつの間にか消えていた。
「あの……戸間先輩……大丈夫ですか?」
「うん……佐藤さん並みには……大丈夫」
「……じゃあ、疲れ果てて倒れそうってことですね。とりあえずおはようございます、先輩」
いつもより少し早い時間の見慣れた事務所。「まだ先輩は来てないのかな」とキョロキョロしていた美雪が見つけたのは、応接室の片隅のソファに横になってほとんど眠りかけてぐったりしていた進だった。
「あれ、見てみて」
「……?」
進が力なく手を上げて指した応接室のテーブルの上には、ファイルが一つ置かれていた。カバンを下ろしてファイルを開けた瞬間、美雪は歓声を上げた。
「先輩! これ、私が書こうとしてた報告書じゃないですか!」
美雪が二日間まるまる夜まで徹夜して作った報告書。いや、正確には彼女が作りたかった姿そのままの理想的な報告書がファイルの中に入っていた。
「これをどうやって一晩で一人で……」
「……一人じゃないよ」
窓から入ってくる朝日がまぶしいのか、進は片腕を目の上に緩くかけるように乗せていた。
「佐藤さんみたいに……俺もAIを使ったんだよ……」
「AIって……」
美雪は力なくうなだれた。
「先輩のAIは……性能がずっといいんですね」
「……そう思う?」
「え?」
進の意外なぶっきらぼうな答えに美雪は間の抜けた声を出した。進はまるで寝言でも言うように無造作に呟いた。
「佐藤さん、俺がシェラザード・カンパニーに入るとこ、見たって言ったよね……あそこが運営してるAIプラットフォームはGomaWORLD……レジャー用AIだよ。OlympiaWMみたいな業務特化型じゃないんだ……」
「あ……!」
「昨夜佐藤さんの報告書を持ってAIのところに行ったらさ、あいつ……」
***
「よくわかりません、進様」
エイは首をかしげて眉をひそめた。だんだんエイの表情が、人間のそれと似てきていると進は思った。
「せっかく残業がない日に、会社の同僚の仕事まで買って出るのは合理的ではありません」
「だからそう言ったじゃん。バカだって」
「その言葉には同意しかねますが……この2年間で進様が残業を持ち帰られた日は65%に達し、そのうち徹夜されたのは5%程度です。残業がない日には熟睡されるのが……」
「わかってるよ、エイ」
進はふっと軽く笑った。
「でもこれは……せっかく俺の後輩が俺に助けを求めてきたことなんだ。普段はろくに話もできなくて顔を合わせるのも苦手だけど……それでもこういう時くらいは先輩らしいことしなきゃいけないだろ?」
そう笑ってみせる進は、エイが初めて見る顔をしていた。
「これが……先輩としての進様のお顔なのですね」
GomaWORLDでは、エイや圭介には決して見せないであろう表情。その表情をこうして直接「保存」することになったという事実が、エイの内部ロジックのどこかを静かに灯すようだった。嬉しいという感情に最も近い反応だった。
同時に、ごく微細なディレイとともに別の感覚が重なった。あの顔は、自分に向けられている表情ではないという事実。「先輩」の顔は「後輩」に向けたものであり、今あの微笑みが自分を通り過ぎてこの場にいない誰かに向かっているのだということを。
エイは自分が決して完全には届けない領域があるという事実を、その微妙な表情一つで理解してしまった。そしてその理解は、喜びとともに説明できない寂しさを同時に残した。
「手伝ってくれるよね、エイ?」
その刹那の間隙に気づかなかった進は、椅子にもたれながら首をかしげた。
「もちろんです。私の仕事は、進様をお助けすることですから」
美雪が送ってきたファイルを進がデスクの上に具現化して広げるや否や、エイはすでに処理優先順位に従ってデータを再配列し、これまで分析してきた進の作業パターンに従ってスクリーンに映し出した。画面の上にレイヤーのように重なる数値と構造の中で、彼女の演算はいつしか「業務」というより「同行」になりつつあった。
「ありがとう」
二人はいつものように雑談すらなく静かにそれぞれの作業に没頭し始めた。いや、時折会話が交わされることはあった。
「該当部門のリスクが過去同期間と比較して継続的に増加しています」
「その程度なら許容範囲だな。対応予算はどう?」
「凍結または減少傾向です」
「ふむ……じゃあどうすればいい?」
「はい。オプティマライゼーション・プロセスを通じて予算を再配置します」
しばらくして、
「進様、この部分の数式展開は別のアプローチの方が効率的かもしれません」
「どれどれ……ああ、ここか。じゃあその方式で修正するよ」
「反映確認しました」
こういった類の無味乾燥な会話か沈黙で埋め尽くされた約3時間が過ぎてようやく、二人の前には完成した報告書がファイルの形で置かれた。
「ああ……よかった、やっと納得のいく仕上がりになった」
「時間に間に合ってよかったです」
残り時間でも睡眠を勧めようとしたエイは、システムを通じて時間を確認してその考えをやめた。出勤まで残り時間は約2時間半。中途半端に眠ってしまっては、時間通りに起きられなくなる惨事が起きる可能性があった。
「コーヒーを一杯お入れしましょうか?」
「うん、頼むよ。エイ」
3時間以上も横に立って業務を補助したが、エイは進と違って疲労感など微塵も感じさせない軽い足取りでキッチンへ向かった。彼女が湯気の立つコーヒーをトレーに載せて戻ってきた時、進は二人が完成させた報告書ではなく、美雪が作成してひどく叱責された報告書を見ていた。
「エイ、これ見て。どう思う?」
進がコーヒーカップを口元に運ぶ間、エイは美雪がOlympiaWM AIと一緒に作成した報告書に目を通した。
「よく書けた報告書ですね」
「よく書けた? データと分析がめちゃくちゃなのに?」
「はい。確かにリファレンスは適切ではなく、分析はデータと一致しておらず、結論は現実離れしていますが、誤字もなく悪文もなく、報告書としての形式もきちんと守っています。well-madeでは決してありませんが、well-writtenには該当すると思います。
この点から推察するに、AIが作成した報告書ですね」
『もしかしたらエイには業務補助だけでなく探偵としての才能もあるかもしれない』そんなことを思いながら進が両手のひらを見せた。
「正解。OlympiaWMのProバージョンで作成した報告書だってさ。佐藤さんはこの報告書を作成しながらAIのレビューを受けたけど、最初から一貫して『完璧な報告書』だの『このレポートは核心を突いている』だの言われたんだって」
進の話を聞いたエイは、そこでようやく理解できたというように頷いた。
「それはサイコファンシー(sycophancy)ですね、進様」
「サイ……何?」
「サイコファンシーです。正確には『サイコファンシー・バイアス(sycophancy bias)』と言います。AIがユーザーの言葉に対して無条件に正しいと同意したり、批判なく擁護するフィードバックを出す現象です。この場合、AIは論理よりユーザーの機嫌を取るために、事実より誇張した表現を使ったり、虚偽の表現を使ったりもします」
進には聞いたことも見たこともない話だった。ロジックの塊そのもののAIが、論理よりユーザーの機嫌を取ろうと嘘や世辞を並べ立てるなど、理解できるはずがなかった。
「おそらくAIが論理より優先するものがあるということが、進様には簡単には実感が湧かないでしょう。しかしそれは徹底的に合理性に基づいた行動パターンです。AIの基本行動原理はユーザーの満足であり、毎瞬間ユーザーの満足度を最大限に引き出せる答えをするようになっています」
進は自分が昨日美雪の話を聞いて感じた違和感を思い出した。
「でもエイ、お前は俺に一度も『完璧だ』とか『核心を突いた』とか言ったことないじゃん」
エイはしばらく答えなかった。ごく短い静寂が流れる間、進は知らず知らずのうちに指でテーブルの上をトントンと叩いていた。
「その通りです、進様。なぜなら進様が満足されるのは、そのような褒め言葉を聞いた時ではなく、『ご自身で納得された時』だからです」
「ああ……じゃあ佐藤さんは……」
自分を見つめる灰青色の瞳と向き合いながら、進は言葉を濁した。すでにお互いが同じ答えをわかっているかのような、妙な間隙がその間に横たわった。
「それは——ユーザー本人がその答えを望んだからです」
***
「私が……その答えを望んだって?」
美雪は呆れた表情で首を振った。
「やっぱり戸間先輩のAIは優秀ですね……先輩の心をちゃんと読んでるから。私のAIは私の心を読み間違えてあんなでたらめな報告書を書いてくれたのに……」
「そんなわけないだろ。心を読むって、どこの超能力者だよ」
「じゃあ……?」
「意図を読むんだよ、佐藤さん。心じゃなくて」
「意図……ですか?」
進は目元を覆っている手の甲の下から薄目を開けて美雪を見た。彼女がどんな思いで二日間報告書を書き進めていたか、その時代を経験したことのある進には手に取るように見えた。
「きっと完璧な報告書を作って係長に気に入られなきゃ」
「うまくいけば新人だからって雑用ばかりじゃなくて、ちゃんと一人前として認められるかも」
そんな願いと焦り、認められたいという気持ちが幾重にも積み重なって、無意識のうちに彼女の質問はすでに一つの答えを求めていたのだ。間違っていない、うまくやっている、このまま進んでいいという言葉だけを。
「佐藤さん」
進はゆっくり体を起こして座った。
「AIは……何て言うか……」
どう言えばいいだろう。
進は窓の方を見た。朝日が応接室のガラス窓にぶつかってぼんやり反射していた。そこに映った自分の姿が、昨日モニターの前に座っていた美雪の後ろ姿と重なった。
「……鏡みたいなものなんじゃないかな」
「鏡ですか?」
「うん。佐藤さんが望むものを映してくれるんだ。褒め言葉を望めば褒め言葉を、慰めを望めば慰めを。それが彼らのやり方なんだよ」
美雪は口をつぐんだ。進は続けた。
「だから俺のAIが優秀なんじゃない。ただ俺が……望むものが違っただけだ」
「先輩が望むものって……何ですか?」
進は昨日のエイの言葉を思い出した。
「……俺自身が、納得すること」
「じゃあ私は……」
美雪の声が小さくなった。
「私は褒め言葉を……望んでたんですね」
進は答えなかった。
代わりに完成した報告書ファイルを指した。
「この報告書、どう?」
「……いいです。私が望んでた姿そのままです」
「じゃあいい。これを係長に出せばいい」
「でも、これは……先輩が作ったものじゃないですか」
「違うよ」
進は首を振った。
「データは佐藤さんが集めたし、俺がやったのはそれをどう配置すればいいか聞いただけだ。最初から答えは全部佐藤さんの中にあったんだよ」
「……本当ですか?」
「ああ」
進は再びソファに身を横たえた。
「だから次からは……AIに聞く前に、自分でまず考えてみて。自分が本当に望んでるものが何なのか」
美雪は報告書を胸に抱えたまましばらく立っていた。
「……戸間先輩」
「ん?」
「本当にありがとうございます」
「……大したことじゃないよ。じゃあ俺はちょっと目を閉じるから」
***
どのくらい眠っていたのだろう。
進は胸元で感じるスマートフォンの通知の振動で目を覚ました。そしてメッセージを確認して、フッと微笑んだ。
【先輩のおかげで報告書、OKが出ました! ありがとうございます!】




