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第13話:The maze(上)




「何なのこれ!!!」


 石原係長の声は会議室のガラスドア越しに、進の席にまではっきり聞こえた。


 ——パッ!


 顔を上げて音のした方を見ると、会議室の中では石原係長が投げつけた紙の束が、まるでスノーグローブの中の雪のように華やかに散らばっていた。


「あ、ああいうの実際に見るの初めて」


 空気を読めずにひそひそ話していた誰かの声は、すぐに「おい!」とたしなめられて静まった。


「確かに、石原係長があそこまで怒るのは見たことないな……」


 入社してから初めて聞く石原係長の怒声に、進もぼんやりと会議室の方を見つめるだけだった。その間に、ひらひらと紙が床に落ち着くと、もう一人の姿が見えた。


「佐藤さん?」


 佐藤美雪はどうしていいかわからず、深くうなだれていた。


「これを報告書のつもりで書いたの? 今自分が何を書いたかわかってるの!」


「す、すみません!」


「出て!」


 美雪は小刻みに震える手で散らばった紙を一枚一枚拾おうとしたが——


「いいから出て!」


 結局もう一度係長の怒りを正面から受けて、会議室のドアを出るしかなかった。


 唇を噛み締め、必死に涙をこらえながら席に着いた美雪は、点いていないモニターをただじっと見つめていた。黒く消えたモニターに映る自分の姿を。ガラスのように鮮明ではなくぼんやりと反射した顔を見ながら、彼女は何を考えているのだろう。


 すぐ隣でその姿を見守らなければならない進は、この状況が居心地悪くもあったが、一方で気の毒でもあった。自分自身の過去の姿が重なって見えたからだった。


 進もまた入社して間もない頃、今はこの会社にいない当時の係長にひどく叱られたことがあった。あの時進もまたああやって席に座ってモニターだけ見つめながら涙を飲み込むしかなかった。ぼんやり映った目、震える唇、こわばった肩……画面の中の自分はまるで他人のように見慣れず小さく見えた。あの時、果てしなく自己嫌悪に陥っていた進を別に呼び出して励ましてくれた人がいたのだが……


「あの……」


 美雪に何か声をかけようとした進は、そっと差し出しかけた指先をまた握りしめて顔を背けるしかなかった。


「今俺が佐藤さんに何を言えるだろう。どんな言葉も慰めにならないってことは……誰よりも俺が一番よく知ってるじゃないか」


 そうやってずっと自分を正当化したが、心は落ち着かなかった。


「むしろ知らないふりをしてあげる方が彼女のためだ」


 進は無理やりモニターに視線を移した。


 その日は特に、誤字がとても多く出た。





 一日中黙って自分の業務にだけ集中していた佐藤美雪が初めて口を開いたのは、退勤時間がほぼ終わりに近づいた遅い午後だった。


「あの……戸間先輩……」


 普段の快活な彼女の声とは思えないほど震えていた。


「少し時間……いいですか?」


 やっとの思いで話を切り出す美雪を見て、進はそこでようやく彼女の目の下に真っ黒なクマができているのに気づいた。


「……うん。何?」


「先輩がAI活用が上手だと聞いて……それで聞きたいことが……」


「……?」


 進は首をかしげた。自分がAIを上手く活用している? それを佐藤さんがどうして知っているんだ?


「それ……どういうこと?」


「他の先輩方が……おっしゃってるのを聞いたんです。戸間先輩は普段無口で一人でご飯食べる一匹狼だけど、業務処理能力だけは抜群だって……」


 美雪に悪意はなかっただろう。


 しかし思いがけない豪速球のデッドボールを食らったような顔で、進は舌打ちしながらパーティション越しを睨んだ。何人かの同僚が素早く逃げるように退勤する姿が見えた。


「あいつら……そんなこと言ってたのか」


「でも私……見たんです!」


「な、何を……?」


 両の拳を握りしめ、美雪は必死な形相で詰め寄ってきた。その勢いに進はびびって思わず一歩後ろに下がった。


「先週……戸間先輩がシェラザード・カンパニーの本社に入っていくところを! あの会社、確か今一番ホットなAI会社ですよね? そんな会社の本社まで行くくらいなら……きっとAIを上手く使ってるんだろうと思って……」


 バイオセンサーの故障でシェラザード・カンパニーのサポートセンターを訪れたことを進は思い出した。会社からかなり離れた場所なのに、たまたま偶然美雪があの時あの近くにいたようだった。進は深くため息をついた。


「ツッコミどころは山ほどあるけど……いちいち訂正するのも面倒だな。ああ、エイに会いたい」


 進は早く家に帰りたいという表情を隠そうともせず、ぶっきらぼうに言った。


「で、聞きたいことって何?」


「今回の報告書……作成に実はAIを使ったんですけど……」


 美雪は自分の席に置いてあったタブレットを持ってきて進に差し出した。


「どこが間違ってるか……見てください」


 美雪が差し出したタブレットの画面には報告書ファイルが開かれていた。これがおそらくさっき石原係長が投げつけた報告書の原本だろう。進は頷きながらタブレットを受け取った。


 最初のページ。二ページ目。三ページ目——


「……ああ」


 問題が見えた。

 データはよく整理されていた。グラフもデータを正確に反映していた。それを説明する文章も滑らかだった。形式も完璧だった。

 しかし——


「……これ」


 進が最初のページを指した。


「このデータ、なんでここに入ってるの?」


「え? AIが関連性が高いって……」


「これ去年のじゃん。今年のトレンドと正反対だよ」


「……あ」


 美雪の顔が一瞬で固まった。しかしお構いなしに進はスクロールを続けた。


「ここのこの比較、意味ない。基準が違うから比較自体ができない」


「……」


「ここの結論は、あまりにも現実離れしてる。どうやってこの状況に対処すべきか現実的な答えが出なきゃいけないのに、これは……あまりにも……途方もない絵空事ばかり言ってるじゃん」


「……」


 美雪の唇が小さく震えた。


「でも……AIは完璧だって……核心を突いた報告書だって……言ってくれたんです」


 進は首をかしげながらタブレットを置いた。完璧? 核心? エイは進にそんなことを一度も言ったことがなかった。


「……お前のAI、何使ってるの?」


「OlympiaWMを……この前Proバージョンでサブスクしました」


「ああ……」


 OlympiaWMなら進も聞いたことがあった。確か会社業務のサポートに特化していることで有名なAIだった。そんなAIがこんな結果を出すのか?


「一体AIに何て言ったの?」


「……四半期リスク分析報告書を作成してくださいって」


「……」


「……」


 しばらくの沈黙が続いた。進は何かもっと言葉が出てくると思ったが、美雪はただぼんやりした目で進を見つめるだけだった。


「それ……だけ?」


「それ……だけ……ですけど」


「ここにあるこのデータは? このページのリファレンスは?」


「それもAIに……探してって指示して……」


 一瞬、進は石原係長がどんな気持ちで報告書の束を投げつけたのか心から共感した。とはいえタブレットを投げつけるのは次元の違う問題になるだろうが。


「……それじゃ、ダメだ」


 かろうじて、本当にかろうじて怒鳴るのをこらえた。進は首筋がギシギシするのを感じながら、やっと落ち着いた声を出すことができた。


「AIは……万能じゃない」


「……」


「だから、何て言うか……」


 どう言えばいいだろう、何を言えば伝わるだろう。「あの人」ならどう言っただろう……


「……じゃあどうすればいいんですか?」


 深くうなだれた美雪の声に涙が滲んでいた。


 涙をこらえながらモニターを見つめていた彼女の姿が思い浮かんだ。美雪は今、彼女なりに悔しいのだ。うまくやろうとしたのに、うまくいかなかった。思い通りにならなかった。


 たとえその方法が少し青くて間違っていたとしても、今彼女が感じている悔しさだけは鮮明で確かだった。その姿を見て進は自分でも驚くほど落ち着いた。


「明日の朝……」


「え?」


 進はしばらく迷ってから言葉を続けた。


「明日の朝、少し早く来られる?」


「……え? はい!」


「じゃあその報告書ファイル、俺に共有して」




 ***




 やっと事務所から抜け出してエレベーターを待っていた進を呼ぶ声が「また」あった。


「戸間くん。ちょっと……」


 石原係長が喫煙室の方から手を振っていた。


 何の機能もない薄いパーティション一枚を挟んで、進は喫煙室の外に寄りかかって立った。じわじわと漂ってくるニコチンの霧は外側だからといって大して変わらなかったが、それでもあの中に足を踏み入れる気にはなれなかった。


 係長は窓を開けてタバコを取り出した。


「君は吸わないよね?」


「はい」


「そう」


 係長がタバコに火をつけた。一口深く吸い込んで、ゆっくり吐き出した。


「……佐藤のことなんだけど」


「……はい」


「私、今日ちょっとやりすぎたかな?」


 進は答えなかった。係長は苦笑いしながら一人で話を続けた。


「わかってる。私が怒りすぎた」


「……」


「こうしちゃダメだってわかってても……たまにとんでもない……ああ、もちろん私の目線での話だけど。とんでもないものを見るとだんだん怒りがこみ上げてくるのよ。これも年を取った証拠かしら?」


 ふふ、と自嘲気味に笑う係長の顔が、見なくても見えるようだった。


「わかります。たぶん俺でも怒ったと思います」


「え? どうしてわかるの?」


「佐藤さんが見せながら聞いてきたんです。自分がどこで道を間違えたのかって」


「……あのでたらめな報告書を見せたの? 根性あるわね」


 パーティションの向こうから聞こえる呟きを聞きながら、進はフッと笑った。


「根性ある子、好きでしょう」


 係長がタバコをトントンと叩く音が聞こえた。


「好きよ……だから怖かったの。私が怒りすぎて……辞めるって言われるんじゃないかって」


「辞めませんよ、佐藤さんは」


「どうして?」


「うまく言葉にできないですけど……なんか似てるんです、佐藤さんは。昔の俺と」


 喫煙室の外に石原係長がひょっこり顔を出した。何を言ってるのという表情いっぱいで。


「ええ? ありえない。普段無口で一人でご飯食べる一匹狼の戸間くんと、あの人見知りしない佐藤が似てるって?」


「……それ、係長でしたか」


 目尻を下げて恨めしげに石原係長を一度睨んでやった進は、深くため息をついた。


「きっと、頑張りすぎたんですよ」


 美雪の目元に深く刻まれた濃いクマを思い出しながら進が言った。


「頑張って走ってるのに、どこに走ればいいかわからないんです。だから引っ張ってあげないと。崖に向かって走り出す前に」


 進は石原係長を振り返った。


「根性見せてくださいよ。昔、佐藤さんみたいに上司に怒られた俺に喝を入れてくれたの、係長だったじゃないですか」


(係長に怒られたくらいで意気消沈してんじゃないわよ!)


(ミス? 人間なんだからミスくらいするでしょ! あんたは何、ロボットなの!)


(男なら根性見せなさいよ!)


「……そうだっけ、私?」


「俺にはああはできないですけど……一度見せてみますよ。俺なりの根性ってやつを」




 ***




「おかえりなさいませ、進様」


「ただいま、エイ」


 その夜、GomaWORLDに接続した進に向かってお辞儀で挨拶したエイは、空っぽのデスクを指した。


「ところで、進様。今日は残業データが届いていません」


「ああ、大丈夫。今日は残業がない日だったから」


 エイは首をかしげた。


「『だった』……とおっしゃいますと……?」


「ああ、俺はなかった残業も作って持ってくるバカだってことさ」


 苦笑いしながら進が見せたホログラムスクリーンには、美雪が送ってきた報告書ファイルが開かれていた。




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