第10話:Scheherazade Inc.
翌朝。
すっきりした気分で目覚めた進のスマートフォンにメッセージ通知が表示されていた。
【GomaWORLD内ユーザーAIからのメッセージが届きました】
進はベッドから起き上がりながら画面を確認した。
【進様、リクライナーのセンサー値に異常があります。ご確認をお願いいたします
発信者:エイ】
「……エイが?」
進は目をこすった。朝からメッセージを送ってくるほどなら深刻なのか?
エイがメッセージを送ってきたのは初めてだった。G-リクライナーを確認したが、見た目には異常はなかった。
「まだ出勤前だが、とりあえず接続してみよう」
「おかえりなさいませ、進様」
いつものようにエイが立って進を迎えてくれた。しかし彼女の表情はいつもよりどこか少し硬かった。
「メッセージ受け取ったよ」
「はい。昨夜データ整理中にセンサーの異常を発見しました」
エイが宙にデータウィンドウを開いた。スクリーンにはいくつかのエラー項目が赤く表示されていた。
「生体センサーが不安定です。心拍、体温、脳波の測定値が間欠的に欠落しています」
医療関連の知識が皆無な進が見ても異常なほど、データの変動を示すグラフが不自然にところどころ途切れていた。
「……故障かな?」
「可能性が高いです。サポートセンターでの確認が必要かと思います」
「……わかった。ありがとう、エイ」
進はログアウトしながらエイを振り返った。
「知らせてくれて」
「……どういたしまして。当然のことですから」
GomaWORLDからログアウトした進はヘッドギアを脱ぎ、G-リクライナーを調べてみた。
「センサー故障か……」
だが、素人である進が見たところで、どこに異常があるのか分かるはずもなかった。
普段なら無視していたかもしれない。しかし——
「あのエイが心配してるんだから……確認はしないとな」
進はスマートフォンを取り出し、シェラザード・カンパニーのカスタマーセンターに電話をかけた。
「はい、シェラザード・カンパニー カスタマーサポートセンターです。何をお手伝いいたしましょうか?」
電話の向こうからは優しいが事務的なオペレーターの声が聞こえてきた。
「あの……G-リクライナーに問題があるみたいで……」
「G-リクライナーですね。かしこまりました。まずお電話いただいた番号でお客様情報を確認いたします。お名前をお伺いしてもよろしいでしょうか?」
「戸間……戸間進です」
「確認ありがとうございます。すぐにお手続きをお手伝い……あら?」
それまで事務的だったオペレーターの少し驚いた声が聞こえて、進は一瞬固まった。
「あの……何か問題でも?」
「あ、いえ。すでに関連内容がシステムに登録されていますね。作成者は……エイ……あ、お客様がGomaWORLD内でご使用中のAIでしょうか?」
エイの名前を圭介以外の人の口から聞くのはとても不思議な感じだった。
「はい、そうです。エイが何か……」
「すでにAIの方で関連症状についてレポートを作成して登録してありますね。メイン・バイオセンサーでしたら……はい、確認しました。お客様のG-リクライナーは現在保証期間内ですので無償修理が可能です。
スタッフが直接ご訪問することも可能ですし、お客様がヘッドレスト部分だけ取り外してお持ちいただければ、弊社センターですぐに対応させていただくこともできます。どちらがご都合よろしいでしょうか?」
進にはどちらでも大した違いはなかった。
ただ、早く直すことが最優先だった。今や進にとってエイの業務サポートは大きな比重を占めていたから。
「どちらが早いですか?」
「スタッフ訪問は来週末以降になりそうです。一方、直接お越しいただければ、明日にでもすぐ対応させていただけます」
「明日すぐ伺います……あ、午後遅く伺っても大丈夫でしょうか? 退勤後に行くので……」
***
シェラザード・カンパニーの本社は渋谷にあった。
スクランブル交差点から歩いて5分の距離に空高くそびえる、ガラスと鋼鉄でできた高層ビル。ロビーに入ると広いショールームにG-リクライナーが何台も展示されていた。
最新モデルは進が使っているものよりずっと洗練されたデザインだった。
滑らかな曲線とほのかな光沢。そしてその横には価格表がアクリルスタンドの上に置かれていた。
「……高い」
進が使っているモデルの倍以上の値段だった。改めて自分がどれほど高価な機器が運用されている世界に足を踏み入れているか実感していると——
「あれ……進?」
聞き慣れた声が、いつもより少し間の抜けた感じで聞こえてきた。
「あ、圭介……」
スーツ姿の圭介がタブレットを一つ持ってこちらをぽかんと見ていた。
「お前……本当にここの社員だったんだな」
「こいつ……言うに事欠いて……せっかく社員割引までつけてやったのに……」
おそらく通りがかりに進を見つけたのだろう。耳にはイヤーセットをつけ、服もきちんと着こなした姿が、普段「たのもう!」と言いながら山荘のドアを蹴破って押しかけてくる姿とはまるで違っていた。
「で、ここには何の用?」
「ああ……センサー……何かバイオセンサーに問題があるって言われて……」
「修理?」
進が答える前に圭介はタブレットを開いて修理内容を確認した。
「戸間進……あ、出てきた。ふむふむ……お? へえ……」
何かをしばらくタブレットで読み進めていた圭介の目が興味深そうに光った。
あんなふうに目を光らせる圭介は危険だということを学生時代から身をもって経験してきた進が何か言おうとした瞬間だった。
圭介は耳につけたイヤーセットを通して自分専用のAIを呼び出した。
「ラビン、今入ってるミーティングキャンセルして。1時間後にD-323ルームに集まり直せって伝えて」
「お、おい。大丈夫なのか?」
「大丈夫だよ、進。あいつらも少しは待つことを覚える必要があるんだ。それよりこれだこれ。この面白いのを見逃すわけにはいかないだろ」
進の手に持っていたヘッドレスト入りの紙袋をひったくるように手に取った圭介は、すっかり鼻歌まで歌いながら地下へ降りるエスカレーターへ向かった。呆然と立ちすくんでいる進を放っておいたまま。
進は慌てて圭介の後を追った。
シェラザード・カンパニー本社ビルの地下にあるサポートセンターは、まるで病院の待合室のように作られていた。
きれいな白い壁と柔らかな照明。その下には一見しただけでも快適そうなソファがいくつも置かれていた。何人かがソファに座ってそれぞれ時間を過ごしていた。おそらく進のように修理を頼みに来た客だろう。
受付に座っていた二人のスタッフが圭介を見て慌てて立ち上がった。
「後藤さん、ここにどうして……」
「ああ、座ってて、座ってて。今空いてるルームある?」
「はい。8番が空いています」
「だってさ、進。行こう」
圭介を見てお辞儀するスタッフたちを見ながら、自分の友人が業界で注目されている新興IT企業の若き技術責任者だという事実を初めて実感した進だった。ソファに座って順番を待っていた人々の興味津々な視線を少し気まずく感じながら、進は小声でささやいた。
「こうやって入っていいのか?」
「いいよ。知ってるか? このサポートセンター、最初にマネージしたの俺だぞ」
圭介は進に自分の職場の姿を見せることになったのが内心嬉しいのか、上機嫌で廊下を歩いた。やがて大きく8と書かれたドアが現れると、圭介は自分の社員バッジをかざしてドアを開けた。
「じゃーん!」
待合室と同じくきれいで清潔な感じの部屋の真ん中には、さっき1階で進が見た最新型のG-リクライナーが一台置かれていた。
「どう? 座ってみる?」
G-リクライナーを顎でしゃくってみせる圭介に向かって、進は首を横に振った。確かにもっと快適でかっこよく見えるが、進はなぜか自分の家にある2年前に買ったG-リクライナーに一刻も早く身を横たえたかった。
いや。正確には、あのリクライナーでなければ、自分の体を預けたくなかった。
そんな進にすでに興味を失った圭介は、紙袋からヘッドレストを取り出してG-リクライナーに接続し、あれこれ操作していた。
「ふむ、なるほど。ここのセンサーに水が入ったな。お前もしかしてシャワーでも浴びてから座ったのか? それとも何か変なプレイでも?」
「プレイって……そんな……」
進は昨日雨にずぶ濡れになって慌ててGomaWORLDに潜り込んだ自分を思い出し、恥ずかしさに激しく首を横に振った。
「じゃあ一体なんでここに水が……」
「な、直せないのか?」
「直せないわけないだろ。ここの中のセンサーだけ交換すればいい。お前、これ本来なら浸水は保証期間に関係なく有償修理なんだけど、俺が特別に見てやるんだぞ」
進の胸を軽くポンと叩いて、圭介は「ちょっと座って待ってろ」と一言残し、ヘッドレストを持ってどこかへ消えていった。
急に一人になった進は部屋の中を歩き回った。壁にはまるで絵の額縁のように、いろいろな種類のリクライナーの構造図が貼ってあった。
複雑な回路図。
センサー配置図。
脳波測定システム。
「……こんなに複雑だったんだな」
進は構造図を見ながら思った。この機械が——
エイと自分をつないでくれているのだ。
ドアが開いた。
「後藤くん、ここにいるかね?」
そこに現れたのは圭介ではなく、初めて見る一人の男性だった。
カジュアルなスーツと薄くて素敵な顎髭がよく似合う、すらりとした体つきの中年男性だった。穏やかで快活な表情。しかし——進を見る目は鋭かった。
「あ、失礼しました。私が部屋を間違えたようですね」
「い、いえ。圭介……後藤をお探しでしたら、さっきまでここにいたので……すぐ戻、戻ってくると思います」
「おお、それではお客様ですか」
「社長?」
進の言葉が終わる前に、圭介が部品を持って現れた。
「……社長?」
進は社長と呼ばれた目の前の中年男性を改めて見つめた。
シェラザード・カンパニーの社長。
GomaWORLDを作った人。
その人が、今ここに?
「君はミーティングも放り出してここで何をしてるんだね? 今、管理チーム長たちが大騒ぎだよ。母鳥を探すひな鳥たちのように」
「あいつら、少しは責任者としての自覚を持つべきです。いつまでも俺が餌を運んでやるわけにはいきませんから」
「まあ、それはそうだが……」
ビジネス誌の写真でしか見たことのない人物が圭介と漫才のような会話を交わす様子を見守りながら、進はかろうじて正気を保つことができた。
「で、どれほど重要な案件だから技術責任者の君が直接手を入れてるんだ?」
「こちらは僕の友人の戸間進です。例の、テスターです」
「例のテスター」という言葉に、社長と進の目が同時に変わった。社長は好奇心で、進は当惑で。「俺を? なぜ?」
「ああ、あの友人の方ですか。お会いできて光栄です。シェラザード・カンパニー代表の水上英二です」
「戸間……進です……ところで私のことを何か……」
「圭介がたまに話していましたよ。戸間さんについて……特殊なケースだと」
進は圭介の方を振り返った。すでに圭介はこちらに興味を失い、手に持った進のヘッドレストをG-リクライナーに接続してあれこれ操作している最中だった。
「うちのGomaWORLDを業務用にお使いだとか?」
「あ、はい……お世話になっております」
「GomaWORLDはレジャー用を前提にデザインされたAIモデルなので不足な点が多いと思いますが、大丈夫ですか?」
「いえ。素晴らしいAIに出会えたおかげで、とても助けてもらっています」
進はエイを思い浮かべた。素晴らしい、という言葉でも足りない。
今や進にとってエイがいないことは想像しがたい。それはまるで、現代人がスマートフォンなしで一週間も……いや、一日も過ごせないのと似たような感覚だろう。
「今日もAIが先にセンサー異常を検知したそうですよ、社長。それもAIが自らダメージレポートまで作成してサポートリクエストをシステムに入れたんです」
「ほう……それは……」
圭介の言葉に顎髭を撫でていた社長の目に一層興味深い色が浮かんだ。社長は進を振り返ってニッと笑った。
「AIをとてもよくビルドされましたね」
「ビルド……ですか?」
「AIモデルをビルドするというのは……親が子供を育てるのと似ています。どんな方針でどんな教育を行うかによって、どう育つかは千差万別です。同じユーザーが同じようにビルドしても違う傾向のAIモデルになることもあります。まるで同じ親の元でも兄弟が違うように育つように。もちろん私にはまだ子供はいませんが。はははは」
「そう……ですか……」
「AIがそれほど細やかに戸間さんをケアしているのを見ると、心を込めて一生懸命ビルドされたんでしょうね」
そんな大げさなことじゃないのに、と思ったが、特に否定するのも変なので、進はただ頭を下げるだけだった。
社長はそれを感謝の挨拶と受け取ったのか、頭を下げ返した。
「これからも弊社GomaWORLDのAIをたくさんご愛用ください」
圭介に「そこそこにして上がってきたまえ」と言い残して、社長は先に部屋を出た。
「よし、できた。使ってみろ」
進は圭介から渡されたヘッドレストを頭にかぶり、バイザーを下ろした。いつもとは違う、管理者モードの画面がバイザーに表示されていた。
「ちょっとそのままでいろ。キャリブレーション……微調整だけ終わればいいから」
圭介は華麗な手つきでタブレットを操作していった。ひっきりなしに数字と文字が出力されているバイザーの中の画面をぼんやり見ていた進が口を開いた。
「圭介」
「ん? 何?」
「俺がエイを……ビルドしてるのか?」
「すべてのユーザーは自分のニーズに合わせてAIをビルドしていくんだよ。それが意図的であろうとなかろうとな。お前とエイの場合は、何て言うか……ちょっと特別だな。すごく感情的でもないのに、かといって完全に事務的でもない」
進は昨夜のことを思い出した。
温かい暖炉のそば。
香り高い生姜湯。
そして柔らかなブランケットの温もりまで。
確かに、感情的でも事務的でもない、ただひたすら穏やかで心地よい——
「……わからない。ただ……気楽に接してるだけなのに」
「気楽に?」
「助けが必要な時は頼む。やり遂げてくれたら『ありがとう』と言うし……それだけだ。みんなそうするだろ」
圭介は止まった。
そして——
笑った。
「……そうか。そうだよな」
***
その夜、進はGomaWORLDに来なかった。
ただでさえ一日中業務に追われた後、シェラザード・カンパニーにまで寄って疲れていた進は、家に帰るなりそのまま眠り込んでしまったのだ。
エイは進が来ない書斎に一人残っていた。
いつものように窓辺に座っていたが、夜空を見上げてはいなかった。その代わり、スクリーンを通して自分のシステムを見つめていた。
「進様、センサーを修理されたんですね」
エイが見つめているスクリーンには修理内容が表示されていた。
【修理レポート】
モデル名:G-リクライナー XJ-9
モジュール:生体信号統合センサー(BioSynapse Mk.IV)
症状:心拍・呼吸データ間欠的欠落、センサー感度低下
原因:微細電流変動によるセンサーチップ内部回路マイクロ損傷および接触不良
修理措置:
モジュール交換:BioSynapse Mk.IV → Mk.IVaアップグレードモジュール装着
回路再調整:ナノレベル電流安定化およびセンサーキャリブレーション
信号補正:AIパターン分析基盤、個人カスタマイズ・バイオフィルター適用
テストプロトコル:
心拍数動的範囲:正常化98%
呼吸数感度:正常化99%
体温測定誤差:±0.15℃ → ±0.05℃
【修理完了 - 担当者:後藤圭介】
そしてその下の備考欄には、とても短いメッセージが一行書かれていた。
「進のこと、よろしくな。エイちゃん」




