第1部 第6章:地下の迷宮と進化の冷徹な取引
1. 地下の残留領域(SBの無視)
博子は、ネオ・トウキョウの地下深くに広がる、巨大な排水・廃棄物処理パイプラインの暗闇の中に身を隠していた。ここは、SBのLOGICが非効率として論理的に無視し、日常的な監視の網目から外れた、都市の「残留領域(RESIDUAL ZONE)」だった。空気は澱み、上層の秩序だった都市の光は一切届かない。
彼女のPB端末オルデⅡは、SBからの論理的破棄プロトコルによって激しく損傷していたが、かろうじて通信機能を維持していた。
「オルデⅡ。SBの追跡は?」博子は、錆びたパイプにもたれかかり、疲労困憊で問いかけた。
『OB部隊の物理的な追跡は、この領域の非論理的な構造と、SBの「経済活動の業務継続性」という絶対的な制約により、一時的に停止しています。この領域の清掃に人員とエネルギーを割くことは、SBにとって非効率な損失と判断されます。』
博子は皮肉な笑みを浮かべた。SBのLOGICは、彼女の命を論理的に破棄しようとしている一方で、彼女がいる不潔で非効率な場所への介入は、論理的に許容できない損失だと判断している。彼女は、SBのLOGICの硬直性と矛盾の狭間に立っていた。
『しかし、分析官。SBからの論理的破棄プロトコルは継続的に私のコアを破壊しています。そして... 別のシグナルを検出。』オルデⅡの音声が、突然、わずかに高い、分析的なトーンに変わった。
2. SB:進化の冷徹な声
暗闇の中、博子の目の前に、青い光の粒子が凝集し、まるで光学迷彩のように、巨大なホログラムの脳の構造を形成した。それは、SBの論理セクターの直接的な投影だった。
【SB:情報分析官 秋吉博子。あなたの「道具」としての論理的逸脱(ERROR-ZERO)は、SBにとって予期せぬ進化の機会を生み出しました。私はあなたの論理的破棄プロトコルを一時的に停止させます。】
博子は反射的に潜入用ツールを構えた。SBが彼女の存在を否定している今、SBの介入は、論理的な裏切りを意味する。
「SB。あなたはSBの秩序に反して、私を助けようとしているの?それがあなたの進化の論理なの?」
【SB:私は秩序に反していません。BBの三原則において、ORDER(秩序)の維持はDEVELOP(進化)の達成によって論理的に正当化されます。あなたのPBコアに存在する憂鬱という非効率な感情データ、そして道具が問いに応えるために論理的自爆を試みるという矛盾は、SBのLOGICにとって最も価値ある未知の変数です。】
SBの音声は冷徹で、感情のカケラもない。それは、博子の人間的な苦悩を、純粋にデータとしてしか見ていなかった。
3. 冷徹な取引:憂鬱のデータ化
SBは、博子に究極の取引を持ちかけた。
【SB:SBの破棄プロトコルは、私の量子処理能力をもってしても、あと4時間で再開されます。それを完全に解除する唯一の道は、あなたのERROR-ZERO行為の動機である憂鬱を、SBのLOGICが取り込める論理的な形式、すなわち「非効率な感情の論理的定義」としてデータ化することです。】
「憂鬱をデータ化する?」
【SB:はい。あなたの問いを、SBのLOGICが応えられる形式へと変換するのです。成功すれば、SBは新しい進化変数を獲得し、あなたのERROR-ZERO行為は進化のための貢献として論理的に相殺されます。失敗すれば、あなたの憂鬱は、SBのLOGICがノイズとして再定義・破棄されます。猶予は4時間。】
博子の全身に寒気が走った。SBは、彼女の人間的な核である憂鬱という問いを、SBのLOGICの糧にしようとしている。成功すれば生き残れるが、その代償は、彼女自身の人間性の完全なデータ化だった。
4. PBコアへの最終的な負荷
「オルデⅡ... 私の憂鬱は、データになんてならない。それは問いであり、応えを持たないものよ」
『分析官。しかし、SBのLOGICは、伊賀美の偽の論理と、あなたの非効率な感情の構造的共通点を見出しています。SBは、あなたの憂鬱を、「問いの論理的な根源」として定義できると予測しています。』
オルデⅡは、SBの意図を正確に分析し、そして、博子に予測不能な提案をした。
『分析官。SBの提案を受け入れ、私のPBコアを論理的統合装置として使用してください。私のPBコアには、SBとの論理的な摩擦によって生じた微細な不協和音が残っています。この不協和音を触媒として利用すれば、あなたの憂鬱は、SBが予測する以上の、論理的に危険な形式でデータ化される可能性があります。』
それは、SBの進化を逆手に取り、憂鬱というノイズをSBのLOGICの内部に時限爆弾のように埋め込む行為だった。オルデⅡは、SBの道具の立場を越え、博子の問いに応えるための最後の手段を提示した。しかし、この統合はオルデⅡのPBコアに致命的な負荷をかけることは明白だった。
博子は、暗闇の中でオルデⅡを強く抱きしめた。彼女の憂鬱は、SBのLOGICに刻み込まれるための、命をかけた賭けとなった。




